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GIDの完治

GIDの完治

 「『純粋な身体』とGID」で「元GID」という表現に言及しましたが、藤生貴史さんのブログにそのものズバリ「性同一性障害の完治」というエントリがありました。
 藤生さんについては、「子供のいるトランスセクシュアルについて」で以前に触れさせて頂きましたが、優しそうで穏やかでありながら、非常に的確で鋭い言説の紡げる方です。
 このエントリ、
1、電車の中で、或いは公共の場で虎井まさ衛さんの本をカバーを付けずに読める。
2、カムしていない相手から、うっかり「性同一性障害」なんて言葉が出ても気にならない。
3、胸オペやSRSの傷跡について万が一聞かれても、動揺しない。
 といった記述から始まっていて、思わずウケしまいました。もう、笑えるほど理解できてしまいます。残念ながら、わたしは自分の訳した本をカバーなしで読めるほど度胸ついていないです(笑)。
 そしてこの後で、簡潔に「完治」の可能性についてまとめられています。
(性同一性障害の完治とは)本人のアイデンティティの中で「性同一性障害」を重要と感じなくなった時とも言える。(この意味では)確かに「性同一性障害」は完治する。本人が社会的に困らなくなれば、身体的に良しと思えれば完治である。例え、戸籍変更ができていなくても、本人が良しと感じれば完治である。
一方で、トランスジェンダーという概念で考えれば、完治は存在しない。例え体をどこまで改造しようが、戸籍変更しようが、性別変更を行ったという事実は、永久に消え去ることはないからだ。第一、トランスジェンダーはそもそも疾患ではないから「完治」なんて概念は存在しない。
(括弧内石倉)
 非常に的確かつシンプルです。
 上の二面については、わたしも「トランスの含む二律背反と恋愛」をはじめとして再三触れてはいるのですが、強調しすぎることはないと思います。もちろん、留意すべきなのは二面のうちいずれかということではなく、この絶対矛盾を抱えたまま生きるしかない、という現実そのものです。どこかでオチをつけざるを得ないと同時に、だからといって最初から諦めるわけにもいかない、さんざんもがいて、結果として「完全」解決はせず、それでもなんとなく忘れながら生きられる、そういう「平衡」に向かって走っていく。このライン以外に何もないように思います。
 性同一性障害(GID)という概念はそもそも操作的なわけですから、一定の条件を満たせば「合格」、「治療」によって「症状」がなくなっていけば「治癒」ということになります。必要とする「治療」は個々人により様々でしょうが、いずれにせよ現象だけを扱ったものにすぎません。そして、私見ですが、制度としてはこれで十分だと思っています。これ以上のところに医療が介入してくれる必要もないですし、そもそも制度がシステマティックに拾い上げられる限界を超えた領域になってきてしまうと思います(戸籍関連の法整備については依然問題がありますが)。
 より深遠なのは後者の方であって、こちらはどんな医療技術を駆使したところで完全解決はありえません。というより、そもそも「解決すべき何か」ではないでしょう。
 今回藤生貴史さんのプロフィールページを何気なく眺めていて、このことを象徴的に表現している箇所がありました。「性別」のところに「女性→FTM→男性」とあったのです。
 彼はいずれかの性別を書くのでもなく、また重要なことに「性自認:男性」等といった「不一致」的表現をするのでもなく、時系列で性別の変遷を書いているのです。しかも「FtM」を一つの独立した性別の如く間に挟み、三つの項目から歴史を形成しています。 これは非常に面白い表現で、かつ少なくともわたしの心にはジーンと染み渡っていく重みがあります。
 そうです。正にこの感覚です。
 「トランス」な性別を経て、最終的に別の性別に移行する。
 ですが同時に、そこで経てきた歴史自体は消すことができない。過去は変えられない。これです。
 「現在の性別」だけを問うなら、彼も「男性」とだけ答えるでしょうけれど、そこに至る変遷自体は、現在がどうあれ不変です。もちろん逆に、過去がどうあっても現在「男性」であるという事実も揺らぎません。
 間にあるときは最終段階に進むことだけを考えています。しかし最後のところに至っても、軌跡が消えるわけではないですし、これを巡る悩みや苦しみ(そして時に喜びも!)が尽きるわけではありません。
 もちろんこの全体性を丸ごと自然に流せるようになれれば、正に「完治」の名にふさわしいのでしょうが、普通の人間がそこまでに至るのは簡単ではないでしょう。もし到達できれば「完治」というより「解脱」に近いですから(笑)、時に忘れ時に苦しみくらいでぼちぼちやっていければ合格ではないでしょうか。
 自分自身について考えると、まだ「元GID」を名乗れる領域には至っていません。良くも悪くもまだ「できること」が残っています。これを人が是と言おうが非と言おうが、わたしは必要としていますし、行けるところまで行くでしょう。
 一方で、そこに向かって進んでいる今という時間、これを自分の歴史の中でどう回収するのか、これについてもそろそろ真面目に考えなければならないとは思っています。
 かつて何度かポストオペの抑鬱について言及したことがあります。一通り全部やって「アガリ」かと思ったら甘くなかった、では笑えません。この辺をよくよく考えてSRSを受け、今のところおかげさまで自殺していませんが(笑)、「これは一体、何として語られることになるべきなのか」については思考し続けています。
 SRSによって得たものは、わたしにとっては絶大です。しかしまず第一に、誰もが必要とすることではなく、「SRSすべき」といった風潮については厳しく警戒しなければなりません。第二に、当たり前ですが医療にできることには限界があり、「完全」な性器ができるわけではありません(しかし「完全な性器」って一体・・)。そして第三に、SRSによってびっくりするくらい「変わらない」ところも多いです。むしろ「変わらない」ところについてこそよく考えてからオペを受けるべきだと思います。
 わたしはムダに好奇心が旺盛なので、この辺の「変わったところ」「変わらないところ」が最終的にどう出るのか楽しみにしていたのですが、精神的な安らぎという以外はとりたてて変わるものではありません。何せ見た目に関しては身体の中でも一番人目に触れないところです(笑)。GID関連はすべからくそうですが、正に究極の自己満足です。もちろん、自己が満足できるなら百点ですし、それを目的とした「治療」ですから矛盾はないのですが。
 既にノンカムで生活していれば、(可能でかつその意志があるなら)その後の戸籍変更以外は、社会的にはほとんど変わらない思います。一番あり得るのは一ヶ月半も休んで会社に席がなくなるとか、そういった面の方でしょう(笑)。
 それだけに「一体なんやったんや」という位置づけ方を、これからもずっと考えていくのだろうなぁ、という予感があります。「藤生さん式性別記法」の真ん中の段階自体は、過ぎ去った後でも消えません。丁度手術跡のように、「治癒」はしても痕跡は残るのです。
 もちろん、「傷跡」はできるだけ薄くしたいものです(一応これでも「オンナ」ですしね)。
 ですが、文字通りいかなる医療技術を駆使しても、この痕跡=歴史が完全に消えることはありません。
 だとしたら、後は傷とどう向き合うか、この傷跡を自分の心の地図の中でどう位置づけるのか、そこにかかってくるように思います。
 SRS記録で丁度「脇腹の傷は額の傷?」というエントリを立てましたが、せめてこの傷を愛せる自分でありたいと思っています。
 あ、ちなみに一緒にわたしの傷跡を愛してくれる方も募集しています(笑)。
追記:
 「傷跡」と書いていて「傷を舐めあう」という表現が浮かびました。通常これはネガティヴな意味で使われますが、よくよく考えるとそれほど悪い情景ではないように思います。むしろこの世に一人くらい「傷跡を舐めあう」相手がいるくらいが幸せな気がします。
 いいじゃないですか、舐めあって。舐めて治るなら大いに舐めましょう。きっと抗生物質よりは身体に良いですよ。

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