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任侠ニューハーフ

任侠ニューハーフ

 「どうして女になろうと思ったの?」。
 カムして暮らしていた頃、主にネイティヴの女性からこんな質問を受けたことがあります。少なくないトランスが、似た経験をしているのではないでしょうか。
 この問いについては、段階を追って説明していく必要があります。
 まず第一に、気分の良い質問ではありません。意図の如何に関わらず、かなり失礼な問いであることは初めにわかっていただきたいです。
 TS的立場を取るなら、「元々女」なのであり、「本来の身体を回復しようとしている」だけだという見方もあります。
 この説明はいささか自己洗脳的に過ぎ、飛躍があるようには思いますが、感覚的には共感できます。少なくともわたしは「なるぞ!」と思って「女にな」ろうとした意識はありません。
 こうした時、半ば皮肉を込めてこう問い返したことがあります。
「あなたはなぜ女になろうとしたの?」。
 「元々女なのだ」というのが彼女たちの当然の答えでしょう。もちろん、そんなことが聞きたいわけではありません。しかし、ただ単に不快さを仕返ししたいわけでもありません。「元々」の不思議をまるで感じられなくなっている彼や彼女たちの鈍さを付きつけてみたかったのです。
 「元々」とは何でしょうか。
 わたしたちは確かに、生まれながらに何者かであることを要求されます。決して透明な状態で生を受けるわけではありません。
 しかしまず、その「何者か」は明示的とは限りません。次いで、それが何者であれ、与えられたものであれば放っておいてもその形に収まるわけではありません。
 MtFTSが「元々」女ではなかったとしても、Male to Femaleに人生を駆け抜けることは「元々」だったかもしれません。これを運命と呼ぶのかどうかは知りません。いずれにせよ、「元々」はそう簡単なものではなく、別にトランスではなくても「何者」であるかは容易に解答できる問題ではないのです。
 尤も、上のような混ぜっ返しを日常生活でやってみたところで、ただ単に「うっとうしい人」と思われるだけですから(笑)、あまりおススメもしないし、今はわたしもやりませんが。
 この辺りについては、真夜中のトランス 前編 後編を参照してみてください。
 今回触れたいのは、これよりさらに一歩踏み込んだ試考です。
 不思議なことですが、わたしはあまり「女になりたい」と思ったことはありません。当然女としての社会生活は喉から手が出るほど欲していましたし、今なお「少しでも女な身体」を求めてやまないですが、これは「女になりたい」というのとは少し違うような気がしてなりません。というのも、そんなことを繰り返したところでネイティヴの女になどなれないことはわかりきっているからです。
 ある種の女性の美しさには憧れるところがありましたが、それが男性のイメージの中で醸造されたものだということくらいわかっていましたし(それでも男として暮らしていたころは相当盲目的だった、と今では思いますが)、一方でリアルな女性たち一般が男性たち一般に比べて「自分に近い」とも「属している」とも、まして「優れている」とも思ったことはないです。本音を言えば、どちらかというと「女はすぐ群れるし姦しくて鬱陶しいなぁ」と思っています(笑)。
 自分が「女性」なるグループにしっくりと帰属したりはしていない、ということは、普通の女として暮らすようになって、ますます強く感じています。外見や身体、社会生活が女性化すればするほど、ネイティヴとの違いを実感するようになるからです。
 だからといって、トランス/ネイティヴというラインでバッサリ切ろうというわけではありません。むしろ逆です。男だろうが女だろうが、少なくともわたしはあまりすんなりとは溶け込めませんでしたし、仲良くなる人や「近い」と感じる人に男も女もトランスもネイティヴもありません。「偏見がない」という意味ではなく、むしろ偏見の塊なのですが、結果として(残念ながら!)そうとしか言いようがない、というだけのことです。
 ではなぜ敢えて生まれの性別とは異なる生活や身体を獲得しようとするのでしょう。
 これは「女」あるいは「男」に「なりたい」というより、実は上のフレーズの「敢えて」というところに秘密があるように思います。
 この辺りから先は現在の性同一性障害治療はもとより、一般のトランスの意見とも相当相違すると思われますので、偏った見解と取っていただいて結構です。
 ですが、考えれば考えるほど、結局のところ単なる「敢えて」という部分だけが重要な気がしてなりません。極端な話、狭い意味でのトランスであること自体も、半ば偶然的に選択されただけで(とはいえこの選択は「受動的」なもので、自分でどうにかできるものではありませんが)、一番大切ではないのかもしれません。
 これはトランスが自分の身体や割り当てられた社会的性別に「違和感」を持つ、ということを否定しているわけではありません。しかしその「違和感」が「本来の性別」との相違に還元されてしまうのか、この点が大いに疑問なのです。
 トランスを駆り立てる衝迫は、どこか「ケジメ」という言葉を連想させます。SRSを受けたMtFが「本物の女」になれるならいざ知らず、「奇形を治療」しようとしてよりいっそうの「奇形」となっていくことは明白です。そんなことは、少しでも他のトランスセクシュアルと交流があり、なおトランスの道を突き進もうとする当事者ならすぐわかることです。
 それでもなお、わたし自身を含めた多くの当事者が、自分の道を譲ろうとはしません。
 この凄まじい情熱をdisorderと名づけるのは、社会的方便としては極めて有効であり、生活面などで苦境に追い込まれることの多い当事者にとって非常に「ありがたい」ことではあります。また単に「常軌を逸している」という意味では、まさにdis-orderでしょう。
 そこにあるのは、何か「決着を付けたい」「ケリをつけたい」という心理のように思えます。もちろん、そんなことで「決着」がつくほど人生は甘いものではないですし、オチがついた、人生が決定的に意味づけられた、と思っても、まだまだ不本意にも続いてしまうのは人の生というものです。もし本当に「オチがつく」などという幼児的な考えでこの道を進もうとしているなら断固とどまらせないといけませんが、「でもやるんだよ!」という決意があるなら、もう止める術はありません。そして意味はなくても「やるんだよ!」こそが人生です。
 この「でもやるんだよ!」になお甘えがあるとしたら、それは「ケリがつかないところを一応見ておきたい」という部分です。普通の人は、「ケリ」を見届けなくてもそれなりに予想して良しとします。いくところまで行かないと気が済まないのがトランスなのかもしれません。
 これは確かに甘えではありますが、同時にどこか究極の「侠気」と言いたくなる面もあります。FtMならいざ知らず、MtFが「侠気」の果てに「女」を手にしようとしているのはなかなか皮肉なものです。
 これはまったくの個人的感覚なので、決して一般的なものと誤解しないで頂きたいのですが、わたしの中には「女になりたい」という気持ちより「侠になりたい」という心理があるように思います。これはいわゆる男性として社会的生活を送りたい、という意味ではもちろんなく、スッパリキッパリ「女として生きるんやっ」という「侠」です。
 我ながら頭が悪いです。しかしわたしの中にはこの「バカさ加減」に焦がれる部分もあって、多くの人がオトナになる過程で捨ててしまうそういう愚劣さを極めてみたいような気持ちがあるのかもしれません。
 わたしは「オットコマエ」な人が好きです。
 戸籍や染色体、本人の意識などとはまったく関係なく、人格的に侠気を感じられる人に敬意を感じますし、「アンタ気持ちいい生き方してんね!」と言いたくなります。
 まぁここで言う「男前」というのは単にある種の人間性を表す言葉にたまたま「男」という文字が入っていただけのようなものなので当たり前かもしれませんが、いわゆる男性が他の性別より「男前」な確率が高いかというと、全然そういうことはありません。女性でも姦しく群れることなく愚直なまでに自分の「カッコ良さ」と心中しようとする侠気あふれる人物が沢山いますし、周囲を見回してみるとむしろ女の方が「男前」な場合が多いような気すらします。
 そして時々思うのですが、当然すべてではないにせよ、トランスには結構「男前」な人が多いです。
 「男前」なトランスとは、「わたしは病気だから」などとイジイジしてすっかり「可哀想な人」キャラに洗脳されてしまっているようなボンボン崩れのことではありません。自分のバカさ加減、めちゃくちゃぶり、どうしようもなさ、「贅沢病」ぶり、そんなものを全部引き受けて「でも譲れん、無駄でもやる、ホネは拾わんでいい」という背中をしている人です。そして個人的に、わたしはそういう生き方をしたいものだと願っています。
 ネイティヴ女性の友人と二人で飲んでいたりすると、よくある風景として「イイ男いないよね〜」「坊やばっかだよ〜」などという風景になるのですが(笑)、ある意味わたしたちの方が余程「侠」だと思っています(笑)。
 時々「ニューハーフは女以上に女らしい」などというフレーズを聞きます。
 言うまでもなくこれはナイーヴなジェンダーバイアスの産物であり、男の中の一方的な「女」イメージの暴走に過ぎません。
 しかし一方で、そんなバカバカしい「女以上の女」を極めてしまおうというニューハーフは、「男の中の男」とも言えます。
 さらに、このジェンダーバイアスについても、ただ笑止とは唾棄できないものがあります。
 MtFもFtMも、トランジションの初期には激しいジェンダーバイアスに囚われている時期があります。必要以上に「女らしく」「男らしく」してしまったりする過程です。わたしは当初これはMtF独自の現象だと思って「だからMtFはいつまでたってもキワモノあつかいなんだ!」と苛立っていたのですが、ある時FtMが同じようなことを批判して「そんな男はいねーよ」と言っていたのを見て、どうやらこれが「男女双方」に見られる迂回路であることがわかりました。
 大抵の場合、このバイアスは自然と収束に向かいます。希望の性別で普通の社会生活を送るようになれば、誰でもリアルな男・女の実像が身にしみていくからです。
 しかしそれでもなお「男であること」「女であること」への強いこだわりを捨てない背景には、単なる違和感を越えて「バイアスなのはわかっている、でもバイアスのこの部分だけは捨てきれないんだ!」という執念があるように思います。
 それでもいいじゃないですか。
 バイアスと知らずにあたかも「自然」であるかのように演じているのだとしたら滑稽ですし、またネイティヴに対して失礼でもあります。しかしそれをわかってなお、バイアスの一部だけは、自らの罪として一身に引き受け進むとしたら、ある意味この者は「勇者」ですらあります。
 誤解を恐れずに言ってしまえば、そもそもジェンダー自体がバイアスなのです。このバイアスに踊らされているだけだとしたら愚劣ですが、十重に承知の上で命の危険も顧みずにバイアスと心中とするとしたら、それはそれで一つの生き様でしょう。もっと言ってしまえば、無自覚にバイアスに踊らされているのは、むしろネイティヴの方なのです。彼/彼女たちは、ある性別で生きるというものが持つ意味・効果についてほとんど考えのないまま「自然」として制度に相乗りしているのですから。
 北野武『ソナチネ』の中に、こんな台詞があります。
「あんまり死ぬのを怖がってると、死にたくなっちゃうんだよ」。
 死んでしまえば、それ以上死ぬことはなく安心、というわけです。
 これをもじる訳ではないですが、敢えてこんな逆説を提じてみたいです。
「あんまり侠になりたいと、女になりたくなっちゃうんだよ」。
 こんな台詞は「性同一性障害者」0点でしょうが、半ば自嘲、半ば誇りを込めた偽らざる個人的見解です。
 「ニューハーフ」という言葉は、「MtFトランス=風俗・水商売」という偏見を助長するものとして当事者から忌避される傾向がありますし、またそんな愚劣なステレオタイプをもってこの語を使うなら決して許すわけにはいきませんが、一方でこの「侠になりたくて女になった」感覚をよく表しているようにも思えて、時に惹かれるものがあります(わたしの場合、職業ニューハーフも経験していましたから)。
 もっとも、社会生活上は「普通の女」をやっていないと立ち行かないのが現実ですし、語りつくせないほどの面倒と屈辱にまみれているのも事実ですから、あんまりいじめないでくださいね(笑)。

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