価値判断と事実認識

 たまには基本的なことから書いてみます。
 トランスセクシュアルの中には、レズビアン・ゲイと一緒くたにされて苛立った経験のある方も少なくないでしょう。
 トランスセクシュアリティとホモセクシュアリティは権利上まったく異なるものです。「権利上」というのは、実際には関連する要素が色々あると思うからですが、ここではそういった心理的・社会学的問題を論じたいわけではないので、触れずにおきます(註1)。
 取り上げたいのは、むしろ懐かしのTS原理主義的「模範解答」です。
 すなわち、ホモセクシュアリティはセックス・オリエンテーション(性志向:どちらの性別を性対象とするか)を問題にするが、トランスセクシュアリティはジェンダー・アイデンティティ(性自認:自分をどちらの性別として認識するか)を問題とする、という定型句です。
 この説明は門外漢にも比較的理解しやすく、GIDを巡る社会的権利獲得の口上としては上出来だと思います。こういうといかにも皮肉っているようですが、普段の社会生活上はこの理解や説明の仕方で十分です。わたしも必要に迫られれば活用することでしょう。
 しかしもうちょっとだけ考えを進めてみると、「対社会」「対第三者」という局面において、両者には、価値判断と事実認識という対立軸があることがわかります。
 例えばレズビアン・ゲイのアクティヴィストが社会的「理解」を求めるとすれば、それは価値判断を巡るものです。つまりホモセクシュアリティなるものに対し、どのような価値を付すか(それを是とするか非とするか、職業上の差別をする・しない等)を問題にするわけです。
 一見すると、トランスセクシュアルのアクティヴィストも似たことをやっているように思います。実際、「トランスジェンダー派」(トランスであること自体にアイデンティティを求める立場)であれば、そのように主張するかもしれません。すなわち「トランスを差別するな」等々。
 しかし、多くのトランスセクシュアルの念頭にあるのはそもそもそんな問題ではないでしょう。彼・彼女たちが(社会について)気にしているのは、トランスセクシュアリティに対する偏見やら誤解やらといったことでは全然ありません。自分が一体どう認識されているのか、という、その一点です。わかりやすく言えば、男に見えているのか女に見えているのか、パスしているのかしていないのか、ということです。
 「いや、そんなことはない、身体違和こそが中心だ」「社会的偏見とも闘っている」。ごもっともです。ただ、「身体違和」はレズビアン・ゲイで言えば性対象の問題のような「ことの本質」ですからここでは脇によけておきます。そのような「ことの本質」を抱えた「わたしたち」と社会の関係だけを問題にします。また「社会的偏見と闘う」のは、「トランスジェンダー派」でなければ、何らかの形でパス状態が破れる局面においてのみだけです。「パス状態が破れる」とは、ノンパスである場合以外に、パスしているが戸籍変更前の当事者が健康保険証を出さなければならない、といった場面についてです。
 要するに「世の中に対して」ということだけで切り出せば、レズビアン・ゲイは価値判断を興味の対象とするのに対し、トランスセクシュアルは事実認識を問題にしているわけです。もちろん、実際にはこんな単純な二分法が通るわけがありませんが、ここで取り上げたいのは(例によって)純粋なロジックだけなので、具体的な当事者一人ひとりの差異は無視します。
 別段政治運動を取り上げたいわけではないのですが、わかりやすいので例に取ると、(「トランスジェンダー派」ではない「同化主義的」)トランスセクシュアルのアクティヴィストが求めるのは、例えば戸籍の性別変更といった「社会適応」のチャンネルであり、トランスセクシュアリティ自体に対する価値判断ではありません。
 この手の「マイノリティ」話になると、よく「理解を求める」という(大笑いな)フレーズが出てくるのですが、トランスセクシュアルの多くは「理解」など求めていないでしょう(少なくともわたしは全然要りません)。逆に「理解」などされてしまっては、平和な潜伏(埋没)生活が破られてしまいますから困るくらいではないでしょうか。
 庄司陽子さんのコミック『G.I.D』には当事者周辺から多くの批判が上がっていますが、その一つに「FtM SRSについての詳しい記述があり、手術後の当事者が『見破られる』原因を作りかねない」というものがあるようです。つまり変に「理解」などされてしまっては時には社会生活を脅かされることすらあるのです(註2)。
 すると非常に奇妙なことがわかってきます。
 価値判断というのは変更可能なものです。ある対象を最初は悪いと思っていたけれど、後になって良いものだと感じるようになった、というのは珍しいことではありません。子供の頃は肉が好きでも、歳を取るとあっさりしたものが欲しくなったりするものでしょう。外国人に対する偏見があったとしても、身近で接していれば結局一人ひとりの問題、と誰でも気付くようになります。
 一方、事実認識というのはそんな簡単ではありません。黒いカラスを白いと言われて「そうかもしれないな」と思える人はなかなかいません。どんなに信頼している人が「白い」と言ったとしても、それで黒いものが白く見えるわけではありません。
 カラスが好きか嫌いか、あるいはカラスを益鳥と考えるか害獣と考えるかは価値判断であり、文化的・個人的差異を孕み、かつ個人の力でもある程度まで変更可能なものです。
 これに対し、そのカラスが白いとか黒いとかいったことは、事実認識であって、押しても引いても自分の力ではどうしようもありません。なぜなら、あるカラスを「黒い」と認識するのは、その人がその人の責任において選び取った行為や判断ではないからです。「なぜ黒いのか!?」と言われても「あたしに言われても困るよ」としか答えられません。
 それゆえ、価値判断を問題とする態度は社会運動として成り立ちますが、事実認識を問題とする「運動」というのは成立しません。「カラスは白いから、白いと思ってください!」と訴え、さらにこの運動を何らかの理由で支持したいと思う人が現れたとしても、誰もカラスが白く見えたりはしないからです。
 そして「カラスは白い」とわめいているのがトランスセクシュアルです。
 こう書くと「それは確かに頭がおかしい、なるほど性同一性『障害』とは尤もだ」と思われてしまうかもしれません。そして実際、そういう幼児的というか、「無茶言うな」な当事者も実在します。しかし、かなり頑固な当事者だとしても、一年二年「白い」とわめいていれば、わめくだけでは白くならないということくらい学習しますので、別の方法を考えるようになります。
 ではどうするのでしょう。簡単です。カラスを白く塗ったら良いのです。
 白くしてしまえば、みんな「白い」と言ってくれます。なぜなら、白いから。
 これがSRSであり、戸籍の変更です。
追記:
「価値判断と事実認識 承前」に補足を追加しました。
註1:
 言うまでもなくロジック上の差異を強調することで徒に差別化を図っても仕方ないわけですが、それ以上に警戒しなければならないのはイージーな「大同」幻想です。
 とりわけ第三者が「マイノリティ」などというさっぱり意味のわからない括りで何らかの集団を同列に扱う場合、必ず「安全圏」の「多数派」から勝手に見下ろす心理が働いています。
 人はどんな理由でも「マイノリティ」に転がり込める(放り込まれる)ものです。政治的な意味でも、非政治的な意味でも重要なのは「マジョリティ」か「マイノリティ」かではありません。何が多数派か、など切り方次第ですから、軽々しく「大同団結」のロマンを語ってはいけません。クルド人とSMマニアが連帯するくらい意味がわかりません。
 一方でトランスセクシュアルがホモセクシュアリティとの差異を過剰に強調する場合、ホモフォビックな心理や防衛が働いていることは否めないでしょう。一部のトランスセクシュアルの行動には(かつてフェミニストやレズビアン・ゲイのアクティヴストが指摘したように)ジェンダー・ロールや強制的へテロセクシズムへの盲従が伺えるのは事実です。
 こう言ったからといって趣味嗜好の領野についてまで「自己批判せよ」などと無粋なことを考えているわけではなく、ロールをファンタジーに活用したいならいくらでもすれば良いのですが、逆にそれを政治的言説へとすりかえることがあったはならないと、個人的には考えています。
註2:
 これはかなり極端な「同化主義」的スタンスであって、何度も書いている通り、すべてのトランスは「トランスジェンダー」的立場と「同化主義」的立場の両方を合わせ持たざるを得ません。「トランス」である以上、生まれと反対の性別で生きようとはしますが(同化主義)、一方であらゆる点でネイティヴとイコールにもなりきれない(トランスジェンダー)、この二律背反的宙吊り状態、「永遠のトランジット」こそがわたしたちの本質だからです。

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