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eternal transition::ジェンダー/セクシュアリティ
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トランスジェンダー、トランスセクシュアルというよりはむしろ永遠のトランジット
Fri, 30 Mar 2018 11:25:37 +0000
ja
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eternal transition::ジェンダー/セクシュアリティ
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WordPressに移行
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Fri, 30 Mar 2018 11:25:37 +0000
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既に十年以上も前の記事ばかりですが、記録ということも兼ねてWordPressで再構築しました。
よろしくお願い致します。
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エフシートとトリポロン
https://eternal.relove.org/?p=87
Fri, 01 Dec 2006 15:00:00 +0000
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『ケロコートとダーマコート』 で書きましたが、形成外科でリザベンを処方してもらって一ヶ月経ちました。その約三週間ほど前からケロコート、ダーマコート、トリポロンは使っていました。
その後の経過ですが、少し赤みが引いてきています。
一ヶ月程度で劇的に変わるわけがありませんが、赤黒かったところが少し白くなって(シモフリっぽい)一応目で見て確認できるくらいに改善しています。まだまだ相当目立つ傷ですが、今までほとんど変化がなかったので、これだけでも結構嬉しいです。
とにかく使えるものは全部使っているので、どれが効いているのかよくわからないのですが、スカージェル はそのずっと前から使っていて変化がなかったので、ダーマコート&トリポロン&リザベンの相乗効果、ということでしょうか(スカージェルも一応使い続けています)。
リザベンがなくなってまた形成外科を受診したので、ついでにシリコンシート(トリポロンやクリニセル)を処方してもらえるか質問してみたところ、保険適応にはならないが可能、とのこと。ただトリポロンがあるわけではなく、「エフシート」という製品なら扱いがある、と言われました。
「結構高いし、別に通販ので良いと思うよ」とドクター。
受診した病院は医薬分業なのですが、エフシートは地下の売店で扱っています。つまり医薬品ではありません。
「ものを見て決めていいよ」とのことだったので見せてもらったのですが、トリポロンのように切って使えるものでななく、クリニセルのように厚手の素材。サイズも7cm×10cmと2.5cm×15cmの二種類だけで、価格は4,500円くらい。わたしは細長い傷に使いたいので、パスしてトリポロンを使い続けることにしました。
ちなみにケロコートとダーマコートの違いですが、両方使ってみた結果、ダーマコートの方を継続することにしました。
ダーマコートの方がずっと安いのですが、質感的にはむしろシリコン!という粘り気が強いですし、ケロコートの方が特別効く、という感じもしなかったです。
ダーマコート
トリポロン
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ケロコートとダーマコート
https://eternal.relove.org/?p=86
Sun, 05 Nov 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=86
SRSから半年余り。体調もダイレーションも順調なのですが、皮膚を取った鼠径部の傷跡がなかなか薄くなりません。
結構派手な傷なので完全に消えることはまずないのですが、色も赤黒いままで、一部が少し盛り上がった状態(肥厚性瘢痕)になってしまっています。「スカージェル購入」 「傷跡を消すクリーム」 でも触れたように、ダメモトでスカージェルを使っていたのですが、本当に気休め程度です。
仕方なくちょっと真面目に調べてみると、スカージェルよりはマシそうな方法がいくつか見つかりました。web上でわかりやすいものとしてはケロイド治療体験談 などがオススメです。
とりあえず一定のエヴィデンスの取れているものとしては、
1 傷口へのステロイド注射
2 シリコンシート(シリコンプレート)
3 シリコンジェル
4 リザベン(内服薬)
などがあるようで、比較的効果が大きいのはステロイド注射、とのこと(といっても劇的に改善するようなものではない)。
ただ注射と内服薬についてはお医者さんに行かないといけないので(ステロイド注射はかなり痛いらしい)、とりあえず手っ取りはやいジェルとシートを試してみました。
シリコンシートはクリニセルというのが有名ですが、これは割りと大きな傷跡にベタッと貼るもので、切って大きさを調整することもできません。
クリニセルの姉妹品で小さな傷や細い傷口に使いやすいトリポロン というのがあるので、購入してみました。
ジェルではケロコート が有名です。「トリポロンとケロコートを併用したらニキビ跡が見る間に良くなった!」という怪しげな口コミもあったので、ものは試しでケロコートも探してみました。
ところが検索すると見つかるのはダーマコートという商品ばかりです。
ダーマコートはケロコートにコエンザイムQ10をプラスしたもので、それだけ聞くと改良版のようなのですが、分量が増えているのに値段が半額近かったりと、少し怪しげです。
まぁこの手のジェルなどどのみち怪しげなので、とりあえずダーマコートを注文(アマゾン でも販売されています)。
で、買って使い始めて数日経ったところで「ダーマコートには圧迫する効果が謳われていないのでケロコートの方が良いのでは?」という記述を発見。どのみち消耗品だし、長期戦は覚悟の上なので、ケロコートの方も買ってしまいました。
というわけで、当初ダーマコート+トリポロン、一週間目からケロコート+トリポロン、という体制でダメモト治療しています。スカージェルも一応継続しています。
まだ三週間程度なのでなんとも言えませんが、感触としてはシリコンジェルはなかなか良いです。少なくともスカージェルよりずっと良いです。見てわかるような劇的改善はありませんが、本当に「シリコン!」という感じに張り付いてくれるので「手を尽くしている」気分にはなれます(笑)。ニキビ跡程度だったら本当にすぐ良くなるのかもしれません。
トリポロンの方はちょっと微妙です。
医療的にはこっちの方がエヴィデンスが取れているらしいのですが、結構すぐ剥がれてきて、汚れてダメになるのも早いんですよね。
胸や背中といった面にベタリと貼る分には良いと思うのですが、細い傷口で動く場所だと少しやっかいです。傷口に合わせて細く切りすぎると本当にすぐ剥がれてしまうので、ちょっと贅沢めに使った方が良いです。
わたしの場合鼠径部なので、ストッキングなどを履いてしまえば固定できるのですが、脱いだ時が危ないです。下着を脱ぐ場所と言えばお手洗い。そこで剥がれて落としてしまうと・・・最悪です(笑)。
最初は寝ている間だけ喉の傷にも使ってみようとしたのですが、正直使い物になりません。鼠径部についてはせっかくなのでケロコートやダーマーコートと併用していくつもりです。
ちなみにケロコートとダーマコートの違いですが、感触としてはほとんど変わりありません。ケロコートの方が強力なのかと思っていたのですが、むしろダーマコートの方が粘っこいくらいな気がします。とりあえずケロコートを使い切るまでは継続、その後ダーマコートに戻ってみようと思っています。
こうなってくるとステロイド注射もやるだけやってみたくなり、つい先日形成外科を受診してみました。
医師によると「異常な状態ではなく、手術後半年としては普通、赤みは徐々に取れて白くなってくる」とのこと。ステロイド注射を期待していたのですが、「傷口が大きいので全体に打つわけにもいかないし、効果は薄いのではないのか」との判断で、シリコンシートの方を勧められてしまいました。
「もうやっているんですけれど」と言うと処方はされませんでしたが、後で考えれば病院でお願いすれば保険適応になったかもしれませんね。次回はお願いしてみます。
他に赤みを改善するものとして、予想通りリザベンを処方されました。
一日三回で一ヶ月分出して頂けましたが、一ヶ月ではダメだろう、とのこと。
膀胱炎になる場合があるらしいので「もし赤い尿が出たら服用を中止してください」と言われました。
他の禁忌として妊娠中はダメなのですが「妊娠した場合は・・・、あ、しませんね」とちょっと笑い話(SRSによる傷であることは説明済み)。
余談ですが、こういう致し方のない場面でカムすると、急に看護婦さんとかが優しくなったりするのでちょっとおかしいです。
リゼベンの効果はそれこそ一日しか使っていないので何もわかりません。
まぁ、手の届く範囲でほぼベスト体制にはなったので、辛抱強く続けてみます。これがベスト体制というのがなんとも寂しいですが・・。
気になる医療費ですが、診察料は初診で4,000円ちょっと。この中には特定療養費が2,500円くらい含まれていますから、一般の形成外科を受診すれば2,000円以下で済むかもしれません(ベッド数200床以上の病院を紹介状なしで受診する場合、初診のみ特定療養費の負担を求められる場合がある)。また、リザベンは1ヶ月分で2,000円ちょっとでした。
安いです。安すぎます。
こと医療費となると感覚が麻痺しているのか、10万くらいお金じゃないような気がしています(笑)。
ちなみに、レーザー等で魔法のように傷跡を消す、ということは不可能です。
「レーザーで傷を消す!」などと言っているのはインチキだと思って差し支えないと思います。
手術跡をジグザグに切りなおして目立たなくする、という方法があるようですが、これはこれでもう一度切ることになるわけですし、傷跡ゼロになるわけではありません。事故などで傷跡の状態が悪い場合には有効かもしれませんが、普通にキレイに切れている後に適用しても、相対的に良くなるものではないでしょう。
またケロイド等では、手術療法として別の部位から皮膚を移植する、という方法があるようですが、皮膚を取った跡の傷に移植するのでは本末転等でしょう。
いずれも手術跡等ではなく、大きな火傷跡や悪性のケロイドに適用するものだと思います。
ケロコート
ダーマコート
トリポロン
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MtFレズビアン、ミソジニー、想定されるコード
https://eternal.relove.org/?p=85
Fri, 06 Oct 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=85
「ポストオペレーション・サバイバル 」に続いて、ある友人との再会から「思い出した」ことをメモします。
彼女が指摘した事実に次のようなものがあります。
「『MtFレズビアン』(MtFトランスセクシュアルで、かつ女性を恋愛対象とする人)の率が、常識的なレズビアンの比率に比べてあまりにも多い。FtMゲイの比率は一般のゲイとそれほど変わらないように感じるが、この不均衡さは不自然だ。MtFには、女性が好きすぎて女性になってしまった人がいるのではないか」。
この指摘にはかなり決定的な事実が含まれていると同時に、片手落ちな部分もあります。
統計的に確かめたわけではないのでなんともいえませんが、わたしの知る限りで、(広義の)「MtFレズビアン」の数は確かに多いです。
そして、一般的な理解でみれば「女性が好きすぎた」と見なせば理解しやすい「MtF」が少なくないように思います。
これは別段「MtFの隠された一面を暴いた」というようなことではなく、一部の当事者にとっては自明事なのではないでしょうか。特にTV的要素が大きくかつ見た目の完成度が高い人は、かなりの割合で男性を性的対象とみなしていません。
ちょっとややこしい問題なので、順を追って整理していきます。
まず、TV親和的集団の中でも、大きく二種類が思い浮かびます。
第一に「ヴィジュアル系女装」とでも言いたい人々がいます(「人それぞれすぎるトランス」 )。この人びとのほとんどは、社会生活上の性別を移行させようとまで思っていませんが、平均的「自称GID」よりはるかに容姿の完成度が高いです。性的目的での変態性欲的女装ではありませんから、男性を性対象とすることはほとんどありません。だからといって「女好き」かというとそうではなく、性的欲求全般が低いような方が多く見られます。というより、広義の性的エネルギーが自らの容姿の練磨に向かっているため、狭義の性行為に関心が薄くなっているのでしょう。ただし、目指しているのは女性的美ですから、美しい女性には一定の敬意を寄せています。そういう意味では「女性が好きすぎた」とも言えるでしょう。
もう一つはただの女装オヤジです。「ヴィジュアル系」とうってかわって、極めて美的レベルが低いです。彼ら(敢えて「彼ら」と呼びます)のエネルギーは、女性の格好をすることを通じた快楽であり、男性を性対象とすることもままあります。自分では見た目にもエネルギーを注いでいるつもりですが、そう思っているのは本人だけです。しかも時々、「自分は本当は女なのだ」と漫画的GIDな台詞を吐くことがあります。
件の彼女との間で、「自分が本当は女だと気付いたきっかけ」として「SM雑誌で縛られている女性を見ているうちに、自分は本質的に女であり、しかも変態マゾ奴隷なのだ」と確信した、というオヤジのことが話題になりましたが、そもそもの最初の「SM雑誌で」という時点で全然女じゃありません。芸術的に0点です。
ただし、この人たちもある意味「女好き」です。少なくとも強制的ヘテロセクシュアリズムの中で涵養されている女性イメージと、これを巡る男性性欲に極めて強く駆動されています。ここで言う「女」が女にとっての「女」と異なるのはもちろんですが、そもそも男性が性的対象とする異性とは、男性の脳内イメージの投影でしかありません。別に蒙昧として非難しようというのではなく、ヘテロセクシュアリズムとはそのように構築されたものなのです。多くの男性がこの自覚すらできないことは実に不思議なことではありますが、一方で自覚しながら恋愛ファンタジーと欲求を保つのは極めて困難ですから、「有難い勘違い」ではあります。彼らの妄想エネルギーあってこそ、女性の方も恋愛に相乗りできるわけですから。
さて、この点を考えると、上の両者はまったく正反対なようで、実は共通した一面があることがわかります。
どちらも「女好き」で、しかもこの「女」とは、まさにカッコ付きの女、男性が性的対象としうる(ものとして想定する)「女」である、ということです。つまり、一見すると「男」から「女」へと立場を入れ替えているようでありながら、どこまでも釈迦の掌、常に「男性的」ファンタジーの内部にしかいない、ということです。
TV親和的集団については、かなり多くの「女好き」MtFがこれだけでも片付けられてしまう気もしますが、話はまだ始まったばかりです。
一つには、社会生活や身体のトランジションを強く希望していながら女性しか性対象にできない(TS親和的)MtFの存在があり、もう一つは「男性的」ファンタジーの外側とは何か、という問題があります。
まず、前者についてです。
このようなMtFは確かに存在します(比較的容姿レベルの高い方が多いようです)。性対象云々という以前に、男性が怖くて男性社会にまったく溶け込めなかった、というケースがまま見られます。
この場合、「女性を性対象にする」というよりはむしろ「どのような形であれ男性とは関わりたくない」という気持ちが強く、自分の男性性を否定し、極力男性と関係なくなれれば、恋愛対象など二の次三の次、ということもよくあります。
ある種の逃避的適応とも言えますが、適応など所詮は何らかの逃避の結果であることが大概ですから、そんなことで世の中とうまくやれるなら、大いにトランスしたら良いと思います。GIDがツールとして優秀なのは、こういった人びとを害のないよう社会適応させてくれるところです。彼女たちの心が「本当は」何なのか、などと当て所もない議論をするより、適切な「治療」で世の中に返してあげた方が、本人にとっても周囲にとっても圧倒的にプラスです。
続いて「男性的」ファンタジーの外側、というポイントです。
言うまでもなく、男性/女性は対称形になどできていません。さらに言えば補完的関係にもありません。
これについてはさんざん語ってきたことで、詳述は割愛させて頂きますが、「男性的ファンタジー」の彼岸に「女性的ファンタジー」があるのかというと、そうではありません。一つのファンタジーを巡って二種類の誤解があるのです。
さらに言えば、この二つは両方とも「誤解」でしかありませんから、実体としての「一つのファンタジー」すら存在しません。この「一つ」は、誰にも認識できないもののであり、「存在」として語るのは不適切ですが、正に「一つ」として想定されることで(想定しかされないことで)、ファンタジーをファンタジーたらしめています。常に誤解とすれ違いだけがあるのですが、だからこそゲームが成り立つのです。恋愛ファンタジーとは、この「うまく行かなさ」の総体のことです。
ですから、ある種の女装親和的「女好き」MtFが極めて「男性的」なファンタジーから出ていないからといって、それを超越した「真のTS」が別に存在するわけではありません。「MtFは所詮は男」という意味ではなく、ネイティヴの女でも、このファンタジーを越えた「真の女」になどなりえないのです。
すると「女好き」MtFを、「あの人たちは所詮男だから」と他のトランスセクシュアル(や女)から切断することも難しくなります。しかも単にアナログ的連続性がある、ということではなく、違いは確かにあります。ただこの違いは、それとして名指すことが極めて困難な性質なものです。本当は「見た目で決めたら良い」とも思いますが、あまりに身も蓋もないのでもう少し考えみましょう(※註)。
「女好き」の反対は何でしょうか。「ヘテロのMtF」でしょうか。
「好きの反対は無関心」という安っぽい心理テストがありませんが、好きの反対は嫌いではありません。好きと嫌いは表裏一体であり、とにかく「その対象」にエネルギーを注いでしまっている、という点では同等であり、容易に転換可能です。つまり「女好き」と「女嫌い」は紙一重です。
これこそ正に強制的ヘテロセクシュアリズム、ホモソーシャリズムと一体となったミソジニー(女性嫌悪)の構図そのものです。
自分が「女好き」であることを微塵も疑わない男、万が一にも同性愛性など認めない男は、「女は女」として割り切ることができ、男性との「健全な」社交を持つことができる、という意味で、「一人前の男」です。大嫌いな女、見るも汚らわしい女という生き物に欲情できる男こそ、「本物の男」です。
しかし、この立派な男性には苦悩があります。正にその汚らわしい女に欲情できてしまうことそれ自体です。「こんなに女がイヤなのに、自分を魅了してやまない女、自分を惑わす女、なんという不快!」。
『押井守』KAWADE夢ムック に寄稿したテクストで触れたヴァイニンガーの思想などが、正にこれです。別にフェミニストでなくても、現代的視点で考えたら眩暈がするほど愚劣な女性蔑視ですが、いわゆる「男性性欲」のシステムの根底には、紛れもなくこの暴力的な二律背反的が含まれています。自分自身の欲望が余りに強いと、それが対象の持っている力であることを疑えなくなるのです。DV加害者が「オレをこんなに怒らせたのはお前が初めてだ」といった台詞を口にすることがありますが、似た構造と言えます。
このような矛盾する衝動を惹起する女、手に負えない「対象」をなんとかコントロールする方法はないのでしょうか。ほとんどの場合、選択されるのは妥協的手段です。つまり、「女性に対する然るべき態度」という社会的コードを取り込みミソジニーに蓋をする一方、「男」としてのより高い価値を手にします。ホモソーシャリズムによるコードの尊重は、こうして「古き良き」平和なシステムを実現しているのです(男たちは、女たちの想像を越えてコードに縛られており、正にそのことにより「一人前の男」になる)。
一方、このような迂回路を経ずに一気に問題を片付けてしまうトリックがあります。それは「対象」を取り込んで一体化してしまうことです。そうすれば、もう「対象」は攻撃してきませんし、さらに永遠に所有することもできます。コードの遵守が社会性という経路を経ることで調和を実現するのに対し、この方法は一対一の「直接交渉」です。
通常、このような「直接交渉」は、社会的コードにより禁じられています。「男性性欲」をフックすることにより世の平和が保たれているのだとしたら、フックしているコードを必要としない者が「抜け駆け」してしまうと、今までせっかくみんなが作り上げてきたシステムがオジャンになってしまう危険があるからです。
結論から言ってしまうと、MtFの「女好き」には、禁止を乗り越えて無理やり「直接交渉」してしまった「男」の陰があります。
言うまでもなく、MtFトランスセクシュアリズムの全体をここに帰することはできませんし、事実であったとしてもあくまで構造上の問題ですから、個々人の心の内にこのままの図式がある、という意味ではありません。また「直接交渉」が必ずしも暴力的であるわけでもありません。見方によっては自らを供犠として差し出すことにより(場合により文字通りの「去勢」をもって)、独力で矛盾を調停し平和を実現している、とも言えます。ただ、社会的コードを経由せずに問題解決をはかる、という点は、トランスセクシュアル当事者にしばしば社会性が欠如した幼児的人物が見られる、という事実と呼応しているようにも感じます。
MtF当事者であるわたしがこんなことを書いてしまうのは自殺行為と言えるかもしれませんが、トランスセクシュアリティ現象を深く理解しようとすれば、このようなドス黒い側面からも目をそらすことができないでしょう。
ただし、これを「男の勝手な妄想」として、すべてを男性原理に丸投げしてしまうこともできません。
上でDV加害者を引き合いにだしましたが、非常に重要なこととして、「お前のせいだ」言われて殴られている被害者の方も「わたしが悪い」と思い込んでしまう、という点があります。直近の問題解決としては、この「思い込み」を解除することが最優先ですが、構造に着眼してみると、ここで両者がキチンと一つのファンタジーを共有してしまっていることがわかります。
つまり、ミソジニーは男性ホモソーシャリズムにより駆動されてはいますが、一方で女もこのシステムの中で位置づけられて初めて「女」なのです。この「女」は女にとっての女のすべてではありませんが、女の極めて重要な一部であることは間違いありません(そしてこの矛盾こそ、思春期女子が一度は通る道であり、フェミニズムの大問題でもある)。ここで男女は、一つのファンタジーを巡る共犯者となっています。
もちろんこの「共犯関係」は決して均衡ではなく、「女も望んでいるのだから」などという言説が無効なのは言うまでもありません。女は正に「望まない」ことによって、ゲームに参加しているのです。ですからここでも、「一つのファンタジーが共有されている」というより「共有されているものとして一つのファンタジーが想定されている」という方が正確でしょう。
繰り返しになりますが、共有されているとされるファンタジーは、常に双方に誤読されています。『藪の中』のように、常に見解はすれ違い、期待は裏切られます。そしてこのすれ違い、誤解と「出会い損ね」こそが、ファンタジーをファンタジーたらしめているのです。もしも見解が一致してしまったりしたら、物語はそこで終結し、関係を駆動していくエンジンにはならないでしょう。
現実的なMtF当事者の話題から大分それてしまってので、もう少し卑近なところに戻すと、こうして「直接交渉」したとしても、コードはそれを看過するほど甘くありません。また、「対象」を取り込んで心穏やかになり一件落着かというと、そんな筈もありません。
「直接交渉」は理論的にはスマートです。しかしこの視点は、「自分」という個の独立性を過信しています。わたしたちは、「対象」との関係以外にも様々なチャンネルで人間たちとつながっているのであり、周辺国への影響を無視して断行すれば、破綻をきたすのは目に見えています。
ある「MtFレズビアン」が、男時代のノリのままに女性に接近しようとして、当然のように拒絶された、という話を聞いたことがありますが、正にここで彼女が直面するものこそ、コードの厳しさでしょう。
件の彼女も「女として生活したくて、なおかつ女を対象とすることは別におかしいことではないと思うが、それを『レズビアン』と称することには違和感を覚える」と言っています。
上のような飛躍を文字通り信じている「MtFレズビアン」はそういないとは思いますが、世の中はそれほど甘くありません。逆に言えば、この「直接交渉」の結末により、世の中の厳しさを学習(=コードの学習)し、それなりに「大人」になれたのだとしたら、その人のトランジションはそれなりに実りあるものだったとは言えるでしょう。
裏を返すと、「直接交渉」を信じ実行してしまえる、良く言えば純粋さ、悪く言えば世間知らずな性質が、ある種のMtFを特徴付けているようにも見えます。この純朴さは、誤解とすれ違いこそがファンタジーの核心にあることへの無知とつながっています。彼女たちは、あまりにも額面どおりに物事を信じすぎています。「直接交渉」というショートカットを発見したとしても、多くの人びとはすぐに突っ切るほどに無防備ではありません。「こんな近道があるのは、何か裏があるに違いない」と考えるのです(そして実際、裏はあります)。
もちろん、文字通りにこんな冷静な判断をしている人はいないでしょうが、「自分の位置からは見ているようで全体が見えていない」ということを考えずとも織り込むスキルを身に着けているのです。逆に、ある種のMtFは「全体をとりあえず見通す」センスに長けているのかもしれません。なまじ「飲み込みの良さ」に秀でていたばかりに、筋の通らない通念や因習を弾き飛ばして進む突進力を習得してしまった、という考えられます。
ただ、いずれにせよ、これらはあくまで構造上の仮説であり、当事者の個々人の心理や然るべき社会的処遇などを語っているわけではまったくありません。また、「MtFレズビアン」の中には、極普通のレズビアン(?)とそれ程違わない心的体制を持っている方もいらっしゃると思います(それはそれで、レズビアンとしてのコードに順応した、ということです)。言うまでもなく、ヘテロセクシュアリズムに傅くことが義務なわけでもありません。
最後に、トランスセクシュアリティ独自の問題を越えて、留意しておくべき点があります。
上ではコードとの調和と「直接交渉」という単純な図式を示してしまいましたが、普通の人間の人生には、コードとうまくやったりケンカしたり、時には「抜け駆け」を狙ってみたり、といったことが入り混じっているものです。
恋愛ファンタジーと同じく、コードもそれ自体として存在しているわけではありません。そしてこれもまた、不分明であること自体によって、社会をドライブする力になっているのです。
言ってみれば、コードと「抜け駆け」は表裏一体です。誰もが「抜け駆け」を狙い、そして「誰もが『抜け駆け』を狙っている」ということを誰もが知っている、そのような抜き差しならない状況の全体が、動的なコードとして機能しているのです。
わかりにくいようであれば、株式取引のことを考えてみてください。「結果としての法則」なら見出すことができるかもしれませんが、そこで見つかった法則は、そのもの自体としては常に「手遅れ」「使えない法則」です。「抜け駆け」できる者がいるとしたら、「手遅れ」な法則を「皆が知っている」ことを織り込んで尚一歩先んじることのできる者です。逆に「必勝の法則はない」という格率こそ、狭い意味でのコードでしょう(上で「直接交渉」と対比したのは狭義のコード)。
そして驚くべきことですが、「抜け駆け」は可能です。実際に「抜け駆け」た者がいるのです。
「抜け駆け」が絶対に不可能であれば、そのコードは現実に社会を動かす力にはなりません。ただ「抜け駆け」の法則が同定できない、というだけです。
これを考えると、仮に一部のMtFに「抜け駆け」を狙う心的構造があったとしても、あながち「世間知らず」では済ませられないかもしれません。彼女たちは時に、本当に成功してしまうのですから!
註:「見た目で決めたら良い」というのは、実はかなり本気で言っています。こんなことを書くと、一瞬でものすごい数のMtFを敵に回してしまうでしょうが、見た目(正確には容姿・振舞い・声などの総合力)は、社会生活上重要であるばかりでなく、トランスのモチベーションの中核と直結しており、一つの尺度として有用であるのは間違いないと思います。言うまでもなく「心の性別に身体の性別を合わせる」などというのは後付けの防衛的言説にすぎません(当事者がそう自己洗脳することが社会的にプラスに働いているとしたら、有意義かつ解除すべきではない防衛)。
また、ものごとを何らかの形で分類しようとしたら、その標準は極力数値化可能・計測可能なものであるべきです。「見た目」も数値化困難ではありますが、少なくとも「心」よりは大分確実です。素材的な適不適がありますから、時間軸に沿った「見た目の向上曲線」くらい加味すべきでしょうが、その改善すらいつまでたっても表れない場合、当人の「心」もその程度だと判断されて当然です。というより、そもそも社会的意味での「心」とはその程度のものです。
「見た目」やそれに類する「外的基準」を用いるのが余りに乱暴だと言うなら、いっそ分類など諦めてしまう方が賢明です。実際、こんなものを分けたり揃えたりするのは(わたしを含めた)暇人の道楽でしかありません。少なくともわたしが「分類」する時は、バカバカしいと思いながらも思考の手がかりや遊びとして試行しているだけです。
とはいえ、法・医療制度上は「分類不可能」「そもそも『トランスセクシュアル』という括りを想定すること自体が馬鹿げている」などと言ってしまうわけにもいきませんし、かといって「見た目がそれっぽいから」で診断書を書いては社会的説得力ゼロです。現行の「分類法」は、こうした状況下での苦肉の策として考え出されたものでしょう。
逆に言えば、「分類法」はあくまで社会との境界でのある種の妥協案として作り出されたものにすぎません。「やむにやまれず」作られた以上、何らかの必要性があったわけですから(実際とても有用)、否定するつもりは毛頭ありませんが、利用者の方は暗黙の経緯を察してやるべきでしょう。
GIDの周辺には、こうした「結果として現れた概念」が沢山ありますが、これを鵜呑みにしてしまいがちなのがGID当事者の大問題の一つに思えてなりません。まぁ、「言葉が最初にありき」で事態が動いていくのもまた人類の歴史の一局面ですから、これはこれで全否定はできないのですけれど・・。
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ポストオペレーション・サバイバル
https://eternal.relove.org/?p=84
Sat, 30 Sep 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=84
先日ある友人と久々に再会し、色々考えさせてもらえる機会がありました。
彼女はネイティヴの女性ですが、考えてみると縁はトランス関係、という不思議なつながりです。
かつて宝塚系の劇団で男役を演じFtFTV?的季節を経験した彼女は、単に「繊細な少女」に留まらないジェンダー・セクシュアリティに対する過敏性を備え、MtFとも交流を持ち、女装者からGID自助団体にまで接触する希有な人物です。
トランスセクシュアリティに対する世俗的な謬見を越えていることはもちろんですが、漫画的な「GID言説」にも正常な懐疑を抱くことができ、「心は女」を振り回す「困ったオジサン」の手に負えなさまで(イヤというほど)理解している彼女とは、色々な点で非常に話が通じ、久しぶりにリラックスして楽しい時間を過ごすことができました。
同時に、久しく忘れていた話題に触れ、改めて考えたことも多々ありました。思考の断片をメモしておきます(以下は基本的に、彼女との再会からわたしが勝手に考えたことであり、彼女の考えを伝えるものではありません)。
まず「久しく忘れていた」というところが大きなポイントです。
現在、わたしは戸籍の変更も終了し、周囲の誰にもカミングアウトしていない状況で生活しています。自分がトランスセクシュアルである(あるいは「あった」)ことを文字通り忘れるわけはありませんが、(ダイレーションを除いては)特に意識することもないですし、話題にすることもありません。というより、話題にしてしまったりしたら社会生活上致命的ですから、何があっても触れることはないでしょう。
だからといって、わたしが「ちょっと変わった身体」の持ち主である事実が消えるわけではありません。
以前ワークショップ でお会いしたポストオペMtFから、「健康保険証の性別まで変えられるのは嬉しいけれど、万が一突然倒れた時など、適切な医療を受けられるのか不安だ」といった意見を伺いました。
これは非常に良く理解できます。実は先日、わたし自身が文字通り通勤途中で倒れてしまい、救急車で運ばれる経験をしました。意識を失っていたわけではないですが、心電図を取るために胸を見せる必要が生じたときは、かなり迷いました。
ポストオペとはいえ、身体をよく見れば判別はつくでしょう。「事情を伝えられずに適切な医療を受けられない」というのも怖いですが、同時にこんな状況で「事情を話さなければならない」というのも苦痛です。
もちろん、世の中には色々な「持病」を抱えている人がいて(偶然にも件の彼女もその一人)、別段トランスセクシュアルだけが特別なわけではありません。しかも「変わっている」とは言っても、それほど致命的に特殊な身体なわけでもありません(実際上、MtFの場合エストロゲン製剤の服用事実を伝える必要はあると思います)。
問題は「カミングアウト」が持ってしまいかねない特別な意味の方でしょう。
『セックス・チェンジズ』 では、プレオペのMtFが救急車で運ばれる時に「バレて」、正当な医療が受けられなかった結果致命的事態に陥った事例が紹介されています。
日本国内については、それほどひどい扱いを受けることもまずないとは思うのですが(実際、倒れたときに仕方なく「事情」を話したところ、その時の医師は深い共感と理解を示してくれました)、こんなことが精神的プレッシャーになるだけでも、いささか不当に感じます。
「ポストオペレーション・サバイバル」と題した一つの意図は、このような社会的・医療的問題です。
これは特殊トランスセクシュアル的問題ではありませんし、今後の社会的(外交的)アプローチにより改善されていく見込みもあるでしょう。良くも悪くも「トランスセクシュアルは大変」ということを示しているわけではありません(例えばHIVポジティヴの方はこの一万倍も「大変」でしょう)。
もう一点は、このような実際上の「サバイバル」というより、とにかく生き延びてしまったこの人生で、自らのトランスセクシュアリティ、そしてジェンダー・セクシュアリティとのあまりに因縁深い係わり合いをどう扱っていくのか、という問題です。
ポストオペの自殺について何度か触れましたが、当然ながら多くのトランスセクシュアルは適合手術を通じてそれなりの平凡で幸せな生活を手にしています。
それでもなお、何らかの「ポストオペ独自」な問題を考えるとすると、まず二つのパターンがありえます。
一つは適合手術後なおパスしきれず、「アガリ」であるにも関わらず希望の性別の生活を手にできない、というパターンです。ある意味「もう打つ手が無い」わけですから、事態が深刻であるのは言うまでもありません。
しかし(非情にも)個人的に関心があるのは、むしろ完全に同化してしまって、ちゃんと希望の性別での生活が送れてしまっているパターンです。
その中にも二つのポイントがあります。
一つは、特に(わたしを含めた)MtFは非常におバカで、オペさえすれば「突き抜ける」ことができるようにイメージしてしまっている危険です。当たり前ですが、GID治療と異なり人生に「アガリ」はありませんから、「めでたしめでたし」で幕を閉じたりはしません。そこには極普通の平々凡々たる幸福と不幸があるだけです。
このことを頭でわかっていても、いざ到達するとなんとも虚しい気持ちになることは多いにありえます。単にMtFがバカだから、というだけではなく、この過程が(人によって)余りに過酷で多くの労力(と財力)をつぎ込む必要があったため、どうしても思い入れが深くなりすぎてしまう、ということもあるかもしれません。
今ひとつのポイントは、「希望のために奇形をより深く」した結果、一層の孤独に陥る、ということです。
ポストオペ女性の中には、普通の女性として恋愛し、その後カミングアウトする状況を迎えながらも、きちんと問題を乗り越え幸せになっていらっしゃる方もいます。また、極めて完成度が高ければ、恋愛上のパートナーにも悟られず生活することも不可能ではありません。
これで一通り満足なら問題ないですが、孤独や満ち足りなさを感じるケースも少なくないはずです。
もちろん「すべてを受け入れてもらう」などということはあり得ませんし、わたし自身、周囲の人間にカミングアウトしようなどという気持ちはさらさらありません。また基本的には不満でもありません。
しかし一つには恋愛上多少不自由がある、という点があり、また本当に気兼ねなく話せる「同性」との接点がますます少なくなってしまう、という点があります。
オペ前であっても、一定以上の完成度に至ったトランスセクシュアルは、コミュニティから離れていくものです。生きていく上での切羽詰った必要性がなくなるからです。
もちろん「同性」であったからといって、話が通じるわけではありません。個人的な経験としては、むしろ辟易することの方が多いです。普通の男同士や女同士でもそれだけで友達になれるわけがありませんから、これは当たり前です。この場合「同性」というのはカッコ付きの「同性」で、要するに「特殊な経験をシェアしている」ということではありますが、それでも絶対の絆などにはならないでしょう。
ましてトランスセクシュアルは原理的にトランスセクシュアリティそれ自体にアイデンティティを持ちえません。「希望の性別」への同化を求めるなら、むしろ「元トランスセクシュアル」であることは恥部ですらあるでしょう。この感覚も非常によくわかります。
それでもなお、「特殊な経験」を分かち合いたい気持ちがあります。
わたしには一人だけ心から信頼している「同胞」がいますが、彼女との間に感じる共感は、単に「話が合う」というだけでなく、この特殊な経験とそれに対するスタンスを(同胞の中でも希有なことに)かなりシェアしている、ということにも因っているでしょう。
自ら「恥」としてコミュニティから離れてしまった「元トランスセクシュアル」は、なかなかそのような出会いを持てません。わたし自身、同胞の友達が欲しいという気持ちもありつつ、やはりコミュニティやネット上で接点を持つことには非常に抵抗があります。
また個人的に、トランスセクシュアリティ自体というより、ジェンダー・セクシュアリティについての思考を分かち合いたい、という気持ちを強く持っています。ですから、逆に言うと、この点については別段相手はトランスである必要はありません。
実は件の彼女にはこの共感を強く感じています。彼女も「トランス自体のことはそれほど興味がない、ただ一般の人がジェンダー・セクシュアリティについてあまりに無知・無関心で、話せる場がない」といったことを言っています。
さらに言ってしまうと、そもそもこのような気持ちを自分が抱いている、ということを、彼女と再会するまで忘れていました。
久しぶりに「この手の話題」を口にして、(お酒の勢いもあって)素晴らしい解放感を感じ、日常生活の中で意識できないほどに避けていた事実に気付かされたのです。
公平に考えて、現在の生活がどうあれ、トランスセクシュアリティはわたしの人生を大きく揺るがした一大問題です。「アガリ」になったからといって、この大イベントがどうでもよくなったわけがありません。
しかもこれは、「口にしてはいけない思い出」なのです。あまりに大きなことがあまりに禁じられているので、その事実すら忘れることで心理的に防衛していたのかもしれません。
このサイトを閲覧して頂いている方には、こんなことを今更言うこと自体意外かもしれませんが、どうやらわたしはセックスの話が大好きのようです(笑)。
そして世間の皆様は、この素晴らしくややこしく面白い問題について、MtFのバカさ加減に勝るとも劣らぬほど頭カラッポで、ちっとも知的ゲームに参加しようとしてくれません。実に寂しいことです。
結局二つ目のパターンの二つ目のポイントについては、わたし個人の話題になってしまったので、あまり一般的なことではないのかもしれません。
ですが、たった一例であったとしても構造的な事実は揺るがないでしょうし、わたし個人にとっては大事なことですから、もっぱら自分のためにもう少しセックスの話をしようかと思っています。
彼女との再会で考えたことはまだあるのですが、テーマが異なりますので別稿に分けます。
追記:
このエントリを書いてポストする間に、たまたまわたしの友人のMtFが仕事中に意識を失って倒れ、入院してしまいました。プレオペで保険証も使えない状況です。自分の時は大したことでもなかったし深刻に受け止めていませんでしたが、やはり医療的問題はシビアだと思い知らされました。MtFのエストロゲン長期服用がどのような影響をもたらすのか等、そもそもわかっていないことが非常に多いですし、情報を共有する必要があるように感じます。と言いつつ、そういったコミュニティから距離を置いてしまっているわたしは問題なのですが・・。
トランジション真っ只中の人、歩みだした人のための自助団体などが重要な機能を負っているのはもちろんですが、同時にそういったコミュニティに近づきにくくなってしまった「卒業組」の交流があっても良いように思います。「同窓会」だと思ったら面白いのではないでしょうか。ふざけたことを言えば、潜伏(埋没)組が密会したりすると、潜入スパイの情報交換のようで風景的にも楽しめそうです。
そう言えば、わたしのSRSの主治医が来年にも来日する予定で、その時は元患者さんのreunionができたらいいね、という話をしていました。実現したらステキです。
別段そんなキッカケがなくても、「同窓会」企画はちょっと真面目に考えたいです。できたらもっと行動力のある方になんとかしてもらいたいですけれど・・。
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オエストロジェル購入
https://eternal.relove.org/?p=83
Tue, 29 Aug 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=83
スカージェルが切れるのとほぼ同時にプレマリンクリームもなくなってしまったので、代わりというわけでオエストロジェルを買ってみました。
プレマリンクリームのことは「プレマリンクリーム」 「外出先でのダイレーション」 で書きましたので、参考にしてみてください。
別にプレマリンクリームに不満があったわけではないのですが、どうもオエストロジェルの方が人気があるらしいことと、単位量あたりの価格が安いような気がしたので、ためしに購入してみました。
実際、オエストロジェルのチューブはかなり大きいのですが、そもそもプレマリンクリームは「クリーム」、オエストロジェルは「ジェル」ですから、潤滑成分の量が違います。その分沢山使わなければならないので、どちらが割安なのかはよくわかりません。
ただダイレーション時に使うという意味では、どの道KYゼリーを使わないとならないですし、オエストロジェルならそれ自体が潤滑を助ける役割をしてくれます。KYゼリーよりはちょっと固めですし、代わりにはならないですが。
ダイレーションの方は、退院後四ヶ月余りで一日二回30分ちょっとくらいで5inchをキープできています。やはり最初の三ヶ月が大切です。その間サボらず一日三回長めにやっておけば、あとはクルージングというか、膣が安定してくれる感じです。
とはいえ、まだまだダイレーションをやめられるレベルではないので、当分一日二回のペースを続けていきます。
仕事が忙しいと一日二回でも辛い時があるのですが(前後の準備が面倒くさい)、それでもお昼にやらなければならなかった頃とは全然違います。隠れてコソコソする必要がないですから(笑)。
ちなみに購入したのはいつものオーエムエス 。「オエストロジェル」で検索すればすぐに出てきます。
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スカージェル購入
https://eternal.relove.org/?p=82
Sun, 27 Aug 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=82
「傷跡を消すクリーム」 で触れた手術跡や肉割れに効くというスカージェルを購入しました。
わたしがタイで買ったものとは明らかに異なるパッケージなのですが、既に使い切ってしまって、新しいものを探していました。とりあえず目的は一緒ですし、引き続き愛用しています。
ちなみに楽天のショップでは2,390円 だったのですが、こちらのサプーというショップでは980円 でした。この価格差はどういうことなのでしょう・・・。
使用感としては、やはり前のスカージェルとはちょっと違う感じです。新しいスカージェルの方がプリプリした感覚です。
肝心の傷の状態ですが、退院後四ヶ月余り経過して、とりあえず喉はかなり薄くはなりました。ただし場所が場所だけにやはり見ればすぐにわかりますし、足の付け根の皮膚を取った跡に至っては一目瞭然です。
傷は赤みがあるうちはまだ白くなる余地があるらしいですし、半年くらいは様子をみないといけないそうなので、とりあえずおまじないのスカージェルを塗って放置しておきます。
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エストロモン プレマリンのジェネリック
https://eternal.relove.org/?p=81
Fri, 25 Aug 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=81
プレマリンの0.625mgがかなり品薄になっていますが、プレマリンのジェネリックのエストロモンというのが出回っています。ジェネリックとは、後発医薬品のことで、新薬の特許が切れた後に同じ成分で廉価で販売される医薬品のことです。
ポストオペのMtFの場合、ピルでエストロゲンを補給しようと思うとプレマリンの0.625mgは丁度良いサイズなのですよね。わたしは普段はペラニンデポーだけですが、「緊急用」にプレマリンも冷蔵庫にストックしてあります。
オーエムエス で探したところ、エストロモンは0.625mg200錠で4,000円(税・送料込み)でした。プレマリン0.625mg180錠で3,610円でしたから、お値段もそんなに変わりません。
こういう生々しい話は苦手ですが、ホルモン剤の「補給路」は確かに重要なことですから、一応チェックしておきます。
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原因
https://eternal.relove.org/?p=80
Tue, 25 Jul 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=80
「心は最後に変わる」 で、「心の性別に身体の性別を合わせる」という定型的なGID観に対し、社会的人格と不可分であると想定されている「心の性別」(心2)は一番最後に変わる、ということを指摘しました。
つまり最初にあるのは「意気込み」「意志」(心1)で、これにより身体上の特徴・外見が変わり、社会的ポジションが移行し、それに連れて心2が変化していく、ということです。
もちろん、こう単純にリニアにことが進むわけはないですし、そもそも心2の「性別」というのはかなり曖昧で、それとして切り出せるような何かの実在もおぼつかないものです(だからこそ当サイトでは重視してこなかったのですが)。ただ少なくとも、外見・所作や振る舞い・声や言葉遣いといった「外的」要素が一定以上のレベルに達していないのに社会的ポジションを移行する、ということは現実的ではありません。「できている」と思っている当事者が稀にいますが、はっきり言ってそう思っているのは当人だけです。そして社会的ポジションが移行しなければ、真の意味で希望の性別の一員として生活していることにはなりませんし、この共同体の中に「同性として」入り込まない限り、その性別の社会的属性を習得することはできません。なぜなら、この意味での「心の性別」とは、そもそもその性別に生まれ育ち生活することによって醸成された諸属性の集合にすぎないからです。仮にこれと独立して「脳の性分化」や超越的ジェンダーアイデンティティ(?)を想定するとしても、それらの「絶対的性別」と心2の「性別」は別問題です。
さて、そうなると問題は心1の「意気込み」がどこから来たのか、ということになるでしょう。
「心は最後に変わる」でも触れましたが、この「意気込み」は尋常なレベルの心意気ではありません。もちろん、人間が何かある具体的な目標について並々ならぬ執着を見せること自体は珍しいことではありませんが、その目標が特異であるために、レベルの真剣みが伝わりにくい可能性はあります。「性同一性障害」がこのような仰々しい名前でそれとして取り上げられる理由には、医療・法制度的な問題だけでなく、目標設定の特殊性があるでしょう。
これは医療者や周囲の人々にとってそうであるだけでなく、当事者自身にとってもなかなか了解できないことなのです。だからこそ「本来の性別に戻る」「心の性別に身体の性別を合わせる」といった表現が一般化したのでしょう。
断っておきますが、再三これらの表現を否定したからといって、当事者がそのような心理を抱く可能性を否定しているわけではありません。むしろ、この感覚は一当事者として非常によく理解できます。指摘したいのは事実認識の正確な描写としては妥当ではない、ということであり、「感想」の言い方でありません。ただ、「感想」のレトリックに振り回されていてはいつまで経っても事態が整理できないだけです。
話がズレましたが、結局問題は「意気込み」の源泉です。
これについて思考するには、一旦「性同一性障害」の枠組みを括弧に入れてやる必要があります。というのも、「性同一性障害」とは操作的診断の用具にすぎず、操作的診断は病因論的領域に立ち入らないことで成立しているからです。
本サイトの考え方で言えば、ここで問題になるのが心3、「存在論的性」が軸となる領域です(「真夜中のトランス前編 後編 」)。
もう少し一般的なアプローチをするにしても、精神分析学的視点が不可欠になるでしょう。
しかし注意しておかなければならないことが二点あります。
この二つのポイントは、注意点であると同時に、探求の方法そのものと深くリンケージしています。
第一の点は、「性同一性障害」と精神分析学は相性が悪いということです。少なくともトランスジェンダリズムとは犬猿の仲と言っても良いでしょう。『セックス・チェンジズ』 第三章でも、トランスセクシュアリティと性別適合に否定的な見解を示す精神分析学者カトリーヌ・ミロが槍玉に挙げられています。考えてみればこれは当然のことで、原因についてはひとまずおいておく「性同一性障害」(を定義している操作的診断)の文脈と、原因にアプローチする方法論が親和的であるわけがないですし、そもそも「トランスセクシュアリティは病気ではない」とするなら、これを何らかの「異常」としてとらえ「治療(この場合は矯正治療)」しようとする考えに対して肯定的であれるはずがありません。もちろん、それを「病気」と捉えることの意義は一概には言えず、単に便宜上の方便とするなら「病気」という単語に殊更神経質になる必要はありません。また現在精神分析学に何らかの形でコミットしている人びとがミロのような反動的思想の持ち主であるということもありません。
ちなみに、ミロに影響を与えたとされるリチャード・ストローは「ジェンダー・アイデンティティ」という語の発案者として知られています。現在に至るまでの混乱の種を蒔いてくれた張本人というわけですが(笑)、この発想からしてそもそも精神分析学らしくなく、彼のバックグランドはアメリカ流の俗化した自我心理学にあるようです(余談ですが、gender identityの仏訳はidentité sexuelleになっています。これがミスリーディングな訳であることは確かですが、フランス語のgenreはtypeのような意味で、genderや日本語の「ジェンダー」のような連想はすぐには働かない気がします。gender dysphoriaはdysphorie de genreなのでタームとしては成り立たないわけではないのでしょうが、社会的genderという概念自体がそもそも特殊アメリカ的である例証のように思います)。
ここからもわかることなのですが、実はカリフィアが攻撃している(トランスセクシュアリティと相性の悪い)「精神分析学」というのは、アメリカナイズされた自我心理学や個人心理学です。ラカンの名も挙げてはいますが、失礼ながらカリフィアにはラカンの文献に直接あたったような形跡はなく、ラカンのいくつかのフレーズのアメリカ的な受容に対して反応しているようです。アメリカでラカンを読んでいるのはフランス文学と現代思想の関係者だけで、広義の「心理療法家」や精神科医がまともに参照することはまずないでしょうから、曲解が曲解を生んでしまっていても無理はありません。おそらく「は存在しない」等の「名台詞」が独り歩きしているのを、フランス語の読めない反動的医療者か心理療法家が都合よく取り上げて、最後にカリフィアを怒らせたのではないでしょうか(わたしもちゃんと理解しているとは到底言えないのですが・・)。
ともあれ、歴史的思想的背景としては、「性同一性障害」と病因論的アプローチは仲良くありません。実を言えば、このサイトで「病因論的」と取られかねない議論ばかりを書いていて、いつ叩かれるやらとビクビクしているくらいです(笑)。ですから、このような方法を試みる場合は、法・医療制度および社会的処遇の改善のための「性同一性障害」というものに十分配慮した上で慎重に進める必要があります(何度も書いていますが、この意味での「性同一性障害」には何ら批判を差し向けるものではないですし、わたしも非常にお世話になっております)。
これらの前提を受け入れた上でなら、例えば狭い意味での精神分析学的アプローチにより「原因」を思考することには一定の価値があるでしょうし、今後そのような研究が進む可能性もあります。
(このような精神療法的方法ではなく、脳の性分化等の器質的視点から「原因」を探す研究ももちろん可能で、かつ流行りですが、考え方という意味では上と大差ないためここでは論じません。ただし、「脳の性分化」探しは「ゲイ遺伝子」探求と同じく、一歩間違うと大変危険な言説となることは忘れてはいけません)。
しかし個人的には、より重要な第二の点に着眼したいです。それは、そもそも「原因」について思考するとは何なのか、という問題です。
「ラプラスの悪魔」的なナイーヴな視点に立つなら、ものごとには総て原因があり、その原因もまた何かの結果であり、といった因果の連鎖が続いているような気がします。もちろん「原因」「結果」を構成するitemをどの単位で切るか、という問題はあり、複合的itemをさらに細かく分析し「原子項目」のようなものを想定することもできるでしょう。
しかしまずそもそも、古典物理学的なモデルを心的現象にそのまま援用することには無理があり、例えば心的力動が「原子項目」として何を単位とするのかすら、うまく想像することもできません。
加えて、仮に「ものごとにはすべて原因がある」としても、わたしたちは普通、すべてのものごとについての原因など考えない、ということがあります。「当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、これは「原因」について思考する上で決定的なポイントです。
精神分析学に対する大衆的イメージは、何か「困ったこと」についての過去の原因を自由連想などの方法により探り出し、(今更取り除くことはできないにしても)これに光を当てることで「治療」する、といったものではないでしょうか。フロイトも最初期の頃はこれに近いことを考えていたようですし、アメリカ人は今でもそう思っているようです。しかし重要なことは、原因を「特定」することではありません。心理療法はパンク修理ではないのです。
ラカンは「原因はうまくいかないときにしかない」ということを言っています。わたしたちが原因について思考するとき、それはうまく行っていないときです。「うまく行っているときには、諸効果(effets)だけがある」のです。屁理屈だと思われるかもしれませんが、原因について思考し始めているという正にその状態、治療者の門を叩いているという状況自体を織り込まなければ、「原因」について何ら有効な言説は紡ぎ出せないのです。「治療者の門」は別段病院である必要はありません。自助グループとか教会とかハローワークとか家庭裁判所とか、似たようなものが沢山あります。そしてここで言う「有効な言説」とは、「原因」をズバリ言い当てるような「神託」ではなく、「原因」を巡ってぐるぐる歩く助けとなるものです。
正確には、「困った人」は常に「神託」を求めてきます。ですが、病院なりハローワークなりで待っている人はイタコでもイエス・キリストでもありません。ただ、自分が「神託」を求められていることを「知って」はいます。ですから、ここでの「有効な言説」とは、この期待(転移)を利用しながら「原因」の周りをぐるぐる歩くものである必要があります。
大分回り道をしましたが、「意気込み」を抱いてしまったとき、果たして問題は「原因」なのでしょうか。
「原因」の場合もあると思います。少なくともわたしは「原因」につかまりました。その周りをぐるぐる回って、沢山の言葉を紡ぎださないではいられませんでした。「原因」についてできること、それはひたすら歩いて言葉にしてみることだけです。わたしがそこで得たものは、上で触れた「真夜中のトランス」のテクストのほか、「トランスセクシュアルと外国人」 「女性性器と傷」 などにも反映されています。同じように「原因」が気になる方にとっては、多少は寄与できるものもあるでしょう。
しかしここでは、より大切なこととして、問いに対する仮の答えというよりはむしろ、問いを立てること自体に目を向けてみたいです。つまり、多くの「性同一性障害」当事者は、そもそも「原因」にあまり興味がない、ということです。
これはかなり驚くべきことです。というのも、彼・彼女らは別段困っていないのです。
普通、精神病院に行く人はかなり困っています。ハローワークに行く人も困っています。
ところが「性同一性障害」の人たちが精神病院に行くのは、はっきり言えば診断書が欲しいからであって、少なくとも鬱で自殺しそうな人ほど心の問題で困っているわけではないのです(もちろん中には同じような困り方をしていて、死んでしまう方もいらっしゃいます)。確かに彼・彼女たちも困ってはいるのですが、それは健康保険証の性別欄にヘンな性別が書いてあったり、見た目がパスし切れなかったり、親族と揉めていたり会社をクビになったり、といった問題であって、普通精神科医が対象とするような問題ではないのです。
「だから『性同一性障害』は病気ではない」と言いたいのではありません。そういう問題系は確かにあるのですが、ここで議論したいのは別のことです。つまり、「困っていない」とこと自体が、広義の「性同一性障害」の重要な症候である、ということです。
特別な「意気込み」があります。しかし「意気込み」を抱いている当事者はその原因を考えるより、「意気込み」をそのまま了解してしまい、「意気込み」の内容を素直に実現しようとしているのです。
一日に三時間も手を洗わないと不安で仕方がない人がいます。彼・彼女は、自分の手が衛生上問題なほど不潔なわけではないのを「知って」います。知っているのですが、洗わないではいられないのです。洗わないとものすごい不安に襲われるので、洗っている方がマシなのです。だから困っています。困って精神病院に行きます。
ですが、「性同一性障害」の人は、洗うことにはそれほど疑問をもっておらず、むしろいかに効率よく手を洗うか、とか三時間という時間をいかにして捻出するか、といったところに関心があるのです。
普通、こういう人びとに対して、狭い意味での旧来の精神療法はあまり有効ではありません。「神託」を期待していないからです。ラカン的文脈で言えば、神経症親和的というよりはむしろ精神病親和的です。
彼・彼女らに「原因」の周りを歩かせることはかなり困難です。その代わり、別のことで困っています。例えば、手術をしたいのにお金がありません。ではこれは単純に経済力の問題なのかというと、ちょっと違うのが「性同一性障害」です。
本当にお金だけを問題にしている場合もあるので一概には言えないのですが、少なくとも平均的社会人と比べたとき、そのお金の無さに対するアプローチがあまりにも杜撰なケースがままみられます。わたし自身がそうだったのでよくわかるのですが、現実的問題を問題として掲げているにも関わらず、これに対して現実的な解決を迫ろうとしていないのです。やってできないことのわけがないのに、場合によってはぎゃぁぎゃぁわめいているだけで、少しも事態を改善しないのです。なぜでしょうか。
容易に想像できるのは、「原因」に対して防衛機制が働いているということです。「原因」のことは問題にしたくない。問題は別の場所にある。しかしその問題があっさり解決してしまうと「本当の原因」を相手にしなければならないので、解決されても困る。
このとき、無理やりにでも「本当の原因」を問題にするとなると、ミロ同様に反動的病因論者の謗りを避けられませんし、実際優秀な「治療者」とは言えないのではないかと思います。とても不思議なことですが、なだめたりすかしたりしながら「現実的問題」の方を解決に向けて進めてやると、彼・彼女らの「困ったこと」は本当に解決してしまうのです。そして正にこの解決、目指しているように見せかけながら実は巧妙に避けていた解決が訪れ、しかも解決してしまっても別に世界が崩壊するわけでもなく、十分普通に生きていけることに気付かされてしまうと(解決された状態に慣れてしまうと)、この人たちは結構あっさり「治癒」してしまうのです。平たく言ってしまえば、そんなやり方でオトナになれてしまうのです。
すると面白いことがわかります。ここで行われる「治療」というのは、結局現在(不十分な点はあるにせよ)実践されている「性同一性障害」治療とほとんどイコールなのです。上のような考えの下に「治療」されている医療者の方というのはあまりいらっしゃらないでしょうが、一周回ってやっていることはほぼ同じになるのです。
ではこのとき、「本当の原因」はどうなったのでしょうか。
常識的に考えれば、手付かずのままです。その件については、保留したきりなのですから。
しかし本当にそうでしょうか。「原因はうまく行かないときにしかない」のです。うまくいかなかったものは、なんとかうまくいくようになりました。ある意味、これは「原因の消滅」です。
レトリックだと思われるでしょう。しかし、わたしたちが原因について思考するとは、そういうことです。認識の及ばぬ場所に「知られざる原因」があるのではなく、「原因を問う」という態度が存在するのであり、原因とはこの態度により遡及的に措定されるのです(point de capiton!)。
もちろん、誰にとっても原因が消えたわけではありません。少なくともわたしはまだいくらか原因が気になりますし、もっと気になって仕方がない人もいるでしょう。
ただし、それは「性同一性障害」の病因ではありません。原因が気になって困っている人、それはあなただからです。
「性同一性障害」の人たちは、原因を移動させました。しかしパズルのピースは連動していて、それだけで終わりにはなりません。一つのピースが移動すると、別のピースもつられて動きます。移動したのは、患者の場所です。
というわけで、もし問いを立ててしまっていたとしたら、門を叩くのはあなたの番です。誰の門を? 「性同一性障害」の人を訪ねて、「あなたはなぜ・・」と尋ねましょうか? あまり役に立つ答えは期待できないでしょうが、何せ「当事者」ですから、何かを知っている可能性はあります。
犬が草むらに入って「キャン!」と鳴いて飛び出してきたとしたら、そこで彼の身に何が起こったのか、知っているとしたら彼自身しかいません。ただ彼(あるいは彼女)は何も語りませんし、その日の夕飯にありつく頃には、何が起こったのかも忘れてしまっているかもしれません。ともあれ本人はそれで「困って」いないのですから。
わたしたちが、彼らの症候なのです。
注意:上で図らずも分析についてのことを偉そうに書いてしまいましたが、わたしは別段精神分析の専門家でも何でもありません。かつて学んでいたことの関係等で、普通の人よりはかなり洗脳されましたが、職業的にコミットした経験などは皆無です。「プロ」から見たら一笑に付される内容もあると思います。本当は「精神分析」という単語を使わずに説明したかったのですが、どうにも無理が出てきて開き直ってしまいました。不適切な内容があったら(多分あります)申し訳ございません。
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心は最後に変わる
https://eternal.relove.org/?p=79
Sat, 22 Jul 2006 15:00:00 +0000
https://eternal.relove.org/?p=79
自身がSRS、戸籍の性別変更を済ませたところで、一つまとめておきたいことがあります。今までさんざんバカにしてきた「心」についてです。
まず、今までの議論を簡単に整理してみます。
「性同一性障害」についてのよく聞く定型句に、「心の性別に身体の性別を合わせる」というものがあります。当サイトでは再三これを疑問視する記述をしてきました。当事者が社会生活を行う上で、このようなわかりやすいモデルが有効であることはもちろんですが、「心の性別」というのは「心の生年月日」と同じくらい意味のわからないのもので、もしも「心」に「性別」があるとしたら、それは希望の性別でなんとしても生きようという「意気込み」程度のものです(「トランスセクシュアルと外国人」 ほか)。
一方で、真に性の本質について思考しようとすれば、究極的には名としての性、一本の切断線に到達してしまう、ということを「真夜中のトランス前編 後編 」で書きました。「性同一性障害」と操作的に呼ばれているこの現象について考えるにせよ、最終的にはこの点をレファレンスに持つべきです。ただし、この次元の性は外見や記憶、身体・社会性とはまったく関係なく、性を巡るあらゆる属性をはぎとられているものですから、GID当事者にとっても一般の方々にとっても、ほとんど興味の対象とはならないでしょう(これについては「女性性器と傷」 も関連します)。
まとめてみると、
1 「意気込み」「意志」
2 人格と一体となっていると想定され、時々「身体の性別」と不一致になったりするらしい「心の性別」(態度や振る舞いに表出される性向? でもジェンダーロールとは独立している?)
3 名としての性(入れ物としての性、「存在論的性」)
となります。
一般に「性同一性障害」が語られるときに想定されているのは2ですが、この領域は社会的に規定された性別にプラスアルファした程度の重みしかもっていません。さらに言えば、明白に外見・身体上の特徴と深くリンケージしています。
しかしこれを明示してしまうと、GID言説にとっては都合の悪いことになります。というのも、(MtFで考えた場合)女らしい女も女らしくない女もいるように、「女そのもの」は「女らしさ」といったジェンダーロールから独立しているはずで、「女らしい男ではなく女なのだ」という点を死守するためには、問題が「女そのもの」(なる想定物)の方にあると主張しないわけにはいかないからです。そうでなければ、GID言説はジェンダーロールを絶対化する危険な保守反動言説となりかねません(実際、そう主張するフェミニストやレズビアン・ゲイ・アクティヴィストもいます)。加えて「手術そのものだけが問題なわけではない」と訴えるためには、手術を必要としかつそれに相応しい「心」(もしくは「動かしがたい何か」)を想定する必要があります。だからこそGID言説は「脳の性分化」などの仮説により器質原因説を強化しようとしたり、「ジェンダーアイデンティティ」不変神話を主張したりしてきたわけです(註:追記)。
しかし現実に当事者や「治療」の現場で問題になるのは、ジェンダーロールや外見・身体上の特徴と深く絡み合った「女(な心)」であって、これらと独立した「女そのもの」や、その極北としての「存在論的性」などではまったくありません。結局そこで語られているのは、フェミニストがさんざん批判してきた社会的性別にプチ整形をミックスした程度のものでしかなかったわけです。
このような乖離が生じたのは、GID当事者および周辺医療者に、社会構築論者の攻撃をかわし「治療」を正当化し、安全な社会生活確保を優先する必要があったためでしょう。これはこれで仕方のないことであり、サバイバルと社会的権利獲得を最優先し戦ってこられた先人の偉大さをいささかも削ぐものではありません。わたし自身、その恩恵で「普通の暮らし」を享受できているわけです。加えて、ある一個人がステレオタイプなロールを引き受けること自体は別段罪ではありません(ロールを規範として絶対化することが問題)。
ただ、純粋に言論だけを抽出してみると、あまりにも稚拙で面白みに欠けていたのも事実です。だからこそこのサイトでは、敢えて1と3についてのみ考えるようにしてきました。
しかし個人的に大きな区切りを迎えたところで、2の部分に含まれる「心」について、自身を振り返る形で考えてみたいと思います。これはわたしが新たに手にした「特権」の、わたしなりの「有効活用」です。
トランス過程を歩みだしたばかりのころ、わたしはまったく「男」にしか見えませんでした。子供の頃はよく女の子に「間違えられ」る子ではありましたが、だからといって成人後に女と認識されるような容姿だったわけではありません。どこからどう見ても「男」でした。
では「心」の方は女だったのかというと、それも全然違いました。
1としての「女」、つまり「女として生きる!」意気込み、少なく見積もっても「女の外見を手にする!」強い意志はありましたが、だからといって考え方や感じ方が「女らし」かったわけではないですし、立ち振る舞いや言動が女っぽかったこともないです。
個人差が著しいので自分を標準とするつもりはないですが、一般的にも、そういう「女っぽい男」はオネエ系のゲイという分類になって、MtFにはならないものです。むしろどう見ても女としてパスしているレベルなのに「身体がまだだから」と意地になって男の服を着るMtF当事者もいるくらいです。
だからこの段階でわたし(という一ケース)を「普通の男」から隔てていたのは、1としての「心」でしかありません。ただ、一般の方々が1の「心」を安く見積もりすぎているというだけです。一見無意味なことにかける人間の意気込みというのは、時に狂気を思わせる域にまで近づくものです。命をかけて高い山に、しかも冬登る、という人もいますし、全財産を投げ打って仮面ライダーグッズを買い集める人だっているのです。
GID当事者を良く知らない人が「(MtFは)男が好きだから女になりたいのかな?」と勘違いする場面がよくありますが、常軌を逸した情熱を自分のよく知っている「恋愛」というモチベーションから理解しよう、という試みでしょう。ですが、エベレストに登る人は女の子にモテたかったりお金が欲しかったりして登るわけではありません。そういう気持ちもちょっとはあるかもしれませんが、どんなに女好きの男でも、「エベレストに登って注目される」という手段がモテるメソッド優先順位の一万位以内に入っていることはないでしょう。自分でもさっぱり意味がわからないけれど、とにかくエベレストに登りたいし、エベレストに登らなければ自分が自分でなくなってしまいそうなくらい、切実にエベレストなのです。
話がズレましたが、その後脱毛やホルモン治療、身体改造、その他諸々の涙ぐましくもバカバカしい研究・努力を通じて、外見的にかなり女性化していきました。自分で言うのも何ですが、本当によくやったものだと思います。もう一度やれと言われてもとてもできません(笑)。社会的にはまったく無価値なことですが(「『認められないこと』の価値を認める」 )、お陰で「人間、本気になったら何でもできる」という妙な自信がつきました。カムしている数少ない親しい女友達に昔の写真を見せて「アンタなんでもできるよ。月だって行けるよ」と言われたことがあります(笑)。
また脱線してしまいましたが、そうした経過を経て、ある時点からいわゆる「フルタイム」、つまり女性の外見で常時行動する生活に入りました。
この時点では職場の人間等はわたしの染色体上の性別を知っていたわけですから、「女として生活する」というのとは違います。声もまだ不完全でした(わたしはこのような社会的ポジションの移行のたびに職場を変えています)。
よくフルタイム開始をもって(MtFの場合)「女としての生活」と言う人がいますが、潜伏=埋没(周囲が染色体上の性別を知らない)とフルタイムは全然違います。人間は何を知っているかによって大きく認識や行動を変える生き物です。良くも悪くもカム・フルタイムは「第三者」であって、MtFはMtFです。女社会の深層についても、開いているようで遠慮があります。今にして思えばまだまだ「お客さん」でした。
ただ、大きく変わったこともあります。外見と社会的なキャラクターです。
フルタイムを違和感こなせたということは、外見についても相応のレベルまで行っていたとは思うのですが、フルタイム直前に会った友人と二ヶ月後に再会したとき、あまりの進歩に驚かれました。
考えてみれば当然です。週一回の英会話レッスンと留学生活では上達スピードが違うでしょう。何でもある技術を身につけようと思ったら「それなしでは生きることもままならない」環境に無理やり身を置くことです。最初のうちのキツさは尋常ではないですが、レベルアップの速度も比ではありません。些細なことを言えば、例えば顔というのは微妙な筋肉の使い方を意識を研ぎ澄ませてコントロールするだけでも相当変えられるものですが、最初は気を抜くとすぐ戻ってしまうので、電車の中でも絶対眠りませんでした。
人格、つまり言ってみれば2の「心」の変化も興味深いものがありました。狭義の「女らしさ」という意味ではむしろ今より女っぽかったでしょう。染色体上の性別を知られている以上、女としての説得力を持つには普通の女以上に「女」を強調する必要がありましたし、また多くのトランスセクシュアルが経験するように、希望の性別の実態をよく理解していないことからくるジェンダー・バイアスもありました。
外見的にはその時以来劇的に変化したということはないですが、その後潜伏=埋没生活に移行することで、さらに心理面が変化していきました。過度な「女らしさ」が抜け、より普通の女、「男にとっての女」よりはむしろ「女にとっての女」へと近づいていったのでしょう。
望んで歩んだとはいえ、これは必ずしも「楽」な方に向かう過程ではありませんでした。社会的・経済的・身体的に相当な負荷があり、「普通」を目指したはずがちっとも「普通」な暮らしではありませんでした。ネイティヴに対する妬みもありました。染色体上の性別を明かさざるを得ないオフィシャルな局面での屈辱に加え、日常過去を語ることのできない息苦しさ、友人関係にも恋愛関係にも積極的になれない不自由さもありました。
「カム・フルタイム」と「ノンカム・完全潜伏=埋没」のどちらが望ましい社会適応なのか、というのは興味深い問題なので別稿で論じたいですが、大雑把に言って、親しい人間関係ではカムしている方が気が楽です(絶対カムできないような相手とはそもそも親しくならないのかもしれませんが)。また良くも悪くも「第三者」なポジションを利用することもできます。一方、就労・仕事や部屋探しといった公の局面になると、まったく反対になります。カム状態は圧倒的に不利ですし、ノンパスだったりすれば目も当てられません。
そしてとうとう、SRSを受け、戸籍も社会生活上のものに一致させました。
戸籍はまだ変わったばかりなので長期的な影響はわかりませんが、少なくとも今感じているのは、素晴らしい安心感と余裕です。考えてみれば「普通の人」は皆この程度の安定を持っているわけですし、これまではそれを妬ましく思うこともあったのですが、手にしてみると喜びと安心感の方がずっと大きく、何かと良し悪しを比べようという心は早くも後退してくれました。
これで「アガリ」というほど人生甘くはないので、これからの人生で何が待ち構えているのか予想もできません。ただ、一つ面白いと思うのは、「心」が社会的ポジションの変化とともに変わっていったということです。これは別段珍しいことではありません。一人の人間でも学生から社会人になることでキャラクターが変化するものですし、仕事や職場でのポジションによって、少しずつでも広義の「人格」が変わることはあるでしょう。まして性別という、普通は不変と思われている「ポジション」を移行したのです。まったく変わらなかったらその方が無気味です。
すると奇妙なことがわかります。
「心に合わせて身体を変える」と言われているトランスセクシュアルですが、実は心(2)の方がトランジションに連れて変化していっているのです。
もちろん単純に逆になって「身体に合わせて」心が変わっているわけではありません。身体も変わるし、社会的性別も変わるのですが、心もそれと互いに響きあうように変わっていくのです。
最初にあるのは心(1)です。つまり意気込みと意志です。
これにより、身体・外見・社会生活が変化します。
すると心(2)が変わります。「性同一性障害」で一番話題になるあの「心」(2の心)が、一番最後に変わるのです。
少なくとも心(2)と身体について言えば、どちらか片方が「アルキメデスの点」なわけではありません。どちらも支点ではないし、どちらも付随的なものではありません。ですが、心(2)を狭く取れば取るほど、少なくともわたしの場合は、一番最後に遅れてやってきたことが多かったように思います。
お名前を思い出せないのですが、ある精神科医か心療内科医のダジャレな名言に「サイコは最後」というのがあります。
精神状態が身体に影響することがあるのは言うまでもなく、場合によっては生命の危機をもたらすケースもあります。ですが、例えば胃が痛かったときに、原因として一番最初に疑うべきなのは「ストレス」ではありません。その可能性ももちろんありますが、まずは身体的・器質的な検査を十分に受けるべきです。その上で一番最後に心理・精神面を疑いなさい、というのが「サイコは最後」です。最後で良いけど、最後には忘れないように、という意味です。
ですからこの台詞の背景とはまったく関係ないのですが、トランスセクシュアリティにおける「サイコ」も、同じように最後にやってくるようです。最後ですが、確実に最後には変わります。というより、変わらないと社会的に問題です。
これは場当たり的で、根拠のない軌跡でしょうか。
「心に合わせて身体を治療する」という文言に忠実であろうとするなら、「治療」の正当性を揺るがすものとは言えるでしょう。
しかしトランスセクシュアリティに限らず、人生というのは「20の質問」のようなものです。
「20の質問」とは、答えを知っている出題者に、「それは食べ物ですか?」「一番最後に食べたのはいつですか?」等と質問をなげかけ、「それ」の正体を言い当てるゲームです。
このとき、20の質問全部を予め用意しておかなければならないとしたら、まず正解に至ることはできないでしょう。
とりあえず思いついた質問を投げてみて、それに対する答えをフィードバックする形で、次の質問を考えるのです。回答を得た時点から見たら無駄な質問をしていたことにもなるでしょう。ですが、そのムダも含めて質問をしてみなければ、次のステップは思いつくこともできないのです。
そして投げてしまった質問は撤回できません。「良い質問」も「悪い質問」も後付けでしか語ることはできず、大切なのはとにかく質問することです。
トランスセクシュアル当事者が気にする心(2)や外見・身体は、いずれも「その時は妥当に見えた質問」です。それが「良い質問」だったのか「悪い質問」だったのかは、答えを手にしてから考えれば良いことです。
ただし、「20の質問」とは違う点が一つだけあります。「最終的な答え」を手にすることがない点です。死ぬ瞬間に幸福であれば「勝ち」という価値観なら、それが答えかもしれません。死後の生を信じるなら、死んでみないと答えがわからないかもしれません。
とりあえず今できるのは、次の質問を考えることです。
(次のエントリ「原因」 で、残された問題について補遺しています)
追記:
このことから、逆説的にもGID言説は本質主義フェミニストの言説と親和的です。どちらも「女そのもの」(FtMの場合は「男そのもの」)を想定しているからです。違いはGID言説がMtFも備えていると主張する「女そのもの」が、本質主義フェミニストにとっての「女そのもの」に含まれるか否か、ということですが、少なくともかつてトランスセクシュアルを強制的へテロセクシズムの作り出したモンスターと罵ったような本質主義者は、もちろん含まれるとは認めないでしょう(笑)。
さらなる皮肉は、むしろ「女そのもの」の無さにこそ、MtFが「女」として認められる契機がある、ということです(「『純粋な身体』とGID」 参照)。「女そのもの」を手放してしまうことはMtFトランスセクシュアルにとって極めて危険な賭けですが、この命がけの飛躍によってのみ、MtFは「『女そのもの』はない、それでもわたしは女なのだ」という極北の女でありえます。「同化対象を持たない同化主義」とでも呼べば良いでしょうか。
この飛躍はフェミニストにとっても同様に命がけでしたが、MtFトランスセクシュアル、とりわけ「フェミニスト意識のあるMtF」という新たな存在の出現により、社会構築主義者はその危険を再認識せざるを得なくなります。しかし、これはフェミニストにとってプラスの試練なのではないかと、わたしは(身勝手にも)考えます。少なくとも、これを乗り越えられないような社会構築主義にわたしは何の希望も見出せません。
ことわっておきますが、この議論は「脳の性分化」あるいは何らかの遺伝的因子(染色体とは別の?)といった形で、「女そのもの」の対応物が発見されない、と断じるものではありません。そのようなものはあるかもしれないし、ないかもしれない。重要なのは、あったとしても社会的ジェンダーとは無関係なのはもちろん、トランスセクシュアリティが「踏み絵」として受け入れられるような代物ではない、ということです。
そもそも本質主義者は染色体検査を受けてその主張を確信したのでしょうか。ちなみにわたしは二万ほど払って受けましたが(笑)。
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