原因

 「心は最後に変わる」で、「心の性別に身体の性別を合わせる」という定型的なGID観に対し、社会的人格と不可分であると想定されている「心の性別」(心2)は一番最後に変わる、ということを指摘しました。
 つまり最初にあるのは「意気込み」「意志」(心1)で、これにより身体上の特徴・外見が変わり、社会的ポジションが移行し、それに連れて心2が変化していく、ということです。
 もちろん、こう単純にリニアにことが進むわけはないですし、そもそも心2の「性別」というのはかなり曖昧で、それとして切り出せるような何かの実在もおぼつかないものです(だからこそ当サイトでは重視してこなかったのですが)。ただ少なくとも、外見・所作や振る舞い・声や言葉遣いといった「外的」要素が一定以上のレベルに達していないのに社会的ポジションを移行する、ということは現実的ではありません。「できている」と思っている当事者が稀にいますが、はっきり言ってそう思っているのは当人だけです。そして社会的ポジションが移行しなければ、真の意味で希望の性別の一員として生活していることにはなりませんし、この共同体の中に「同性として」入り込まない限り、その性別の社会的属性を習得することはできません。なぜなら、この意味での「心の性別」とは、そもそもその性別に生まれ育ち生活することによって醸成された諸属性の集合にすぎないからです。仮にこれと独立して「脳の性分化」や超越的ジェンダーアイデンティティ(?)を想定するとしても、それらの「絶対的性別」と心2の「性別」は別問題です。
 さて、そうなると問題は心1の「意気込み」がどこから来たのか、ということになるでしょう。
 「心は最後に変わる」でも触れましたが、この「意気込み」は尋常なレベルの心意気ではありません。もちろん、人間が何かある具体的な目標について並々ならぬ執着を見せること自体は珍しいことではありませんが、その目標が特異であるために、レベルの真剣みが伝わりにくい可能性はあります。「性同一性障害」がこのような仰々しい名前でそれとして取り上げられる理由には、医療・法制度的な問題だけでなく、目標設定の特殊性があるでしょう。
 これは医療者や周囲の人々にとってそうであるだけでなく、当事者自身にとってもなかなか了解できないことなのです。だからこそ「本来の性別に戻る」「心の性別に身体の性別を合わせる」といった表現が一般化したのでしょう。
 断っておきますが、再三これらの表現を否定したからといって、当事者がそのような心理を抱く可能性を否定しているわけではありません。むしろ、この感覚は一当事者として非常によく理解できます。指摘したいのは事実認識の正確な描写としては妥当ではない、ということであり、「感想」の言い方でありません。ただ、「感想」のレトリックに振り回されていてはいつまで経っても事態が整理できないだけです。
 話がズレましたが、結局問題は「意気込み」の源泉です。
 これについて思考するには、一旦「性同一性障害」の枠組みを括弧に入れてやる必要があります。というのも、「性同一性障害」とは操作的診断の用具にすぎず、操作的診断は病因論的領域に立ち入らないことで成立しているからです。
 本サイトの考え方で言えば、ここで問題になるのが心3、「存在論的性」が軸となる領域です(「真夜中のトランス前編 後編」)。
 もう少し一般的なアプローチをするにしても、精神分析学的視点が不可欠になるでしょう。
 しかし注意しておかなければならないことが二点あります。
 この二つのポイントは、注意点であると同時に、探求の方法そのものと深くリンケージしています。
 第一の点は、「性同一性障害」と精神分析学は相性が悪いということです。少なくともトランスジェンダリズムとは犬猿の仲と言っても良いでしょう。『セックス・チェンジズ』第三章でも、トランスセクシュアリティと性別適合に否定的な見解を示す精神分析学者カトリーヌ・ミロが槍玉に挙げられています。考えてみればこれは当然のことで、原因についてはひとまずおいておく「性同一性障害」(を定義している操作的診断)の文脈と、原因にアプローチする方法論が親和的であるわけがないですし、そもそも「トランスセクシュアリティは病気ではない」とするなら、これを何らかの「異常」としてとらえ「治療(この場合は矯正治療)」しようとする考えに対して肯定的であれるはずがありません。もちろん、それを「病気」と捉えることの意義は一概には言えず、単に便宜上の方便とするなら「病気」という単語に殊更神経質になる必要はありません。また現在精神分析学に何らかの形でコミットしている人びとがミロのような反動的思想の持ち主であるということもありません。
 ちなみに、ミロに影響を与えたとされるリチャード・ストローは「ジェンダー・アイデンティティ」という語の発案者として知られています。現在に至るまでの混乱の種を蒔いてくれた張本人というわけですが(笑)、この発想からしてそもそも精神分析学らしくなく、彼のバックグランドはアメリカ流の俗化した自我心理学にあるようです(余談ですが、gender identityの仏訳はidentité sexuelleになっています。これがミスリーディングな訳であることは確かですが、フランス語のgenreはtypeのような意味で、genderや日本語の「ジェンダー」のような連想はすぐには働かない気がします。gender dysphoriaはdysphorie de genreなのでタームとしては成り立たないわけではないのでしょうが、社会的genderという概念自体がそもそも特殊アメリカ的である例証のように思います)。
 ここからもわかることなのですが、実はカリフィアが攻撃している(トランスセクシュアリティと相性の悪い)「精神分析学」というのは、アメリカナイズされた自我心理学や個人心理学です。ラカンの名も挙げてはいますが、失礼ながらカリフィアにはラカンの文献に直接あたったような形跡はなく、ラカンのいくつかのフレーズのアメリカ的な受容に対して反応しているようです。アメリカでラカンを読んでいるのはフランス文学と現代思想の関係者だけで、広義の「心理療法家」や精神科医がまともに参照することはまずないでしょうから、曲解が曲解を生んでしまっていても無理はありません。おそらく「は存在しない」等の「名台詞」が独り歩きしているのを、フランス語の読めない反動的医療者か心理療法家が都合よく取り上げて、最後にカリフィアを怒らせたのではないでしょうか(わたしもちゃんと理解しているとは到底言えないのですが・・)。
 ともあれ、歴史的思想的背景としては、「性同一性障害」と病因論的アプローチは仲良くありません。実を言えば、このサイトで「病因論的」と取られかねない議論ばかりを書いていて、いつ叩かれるやらとビクビクしているくらいです(笑)。ですから、このような方法を試みる場合は、法・医療制度および社会的処遇の改善のための「性同一性障害」というものに十分配慮した上で慎重に進める必要があります(何度も書いていますが、この意味での「性同一性障害」には何ら批判を差し向けるものではないですし、わたしも非常にお世話になっております)。
 これらの前提を受け入れた上でなら、例えば狭い意味での精神分析学的アプローチにより「原因」を思考することには一定の価値があるでしょうし、今後そのような研究が進む可能性もあります。
(このような精神療法的方法ではなく、脳の性分化等の器質的視点から「原因」を探す研究ももちろん可能で、かつ流行りですが、考え方という意味では上と大差ないためここでは論じません。ただし、「脳の性分化」探しは「ゲイ遺伝子」探求と同じく、一歩間違うと大変危険な言説となることは忘れてはいけません)。
 しかし個人的には、より重要な第二の点に着眼したいです。それは、そもそも「原因」について思考するとは何なのか、という問題です。
 「ラプラスの悪魔」的なナイーヴな視点に立つなら、ものごとには総て原因があり、その原因もまた何かの結果であり、といった因果の連鎖が続いているような気がします。もちろん「原因」「結果」を構成するitemをどの単位で切るか、という問題はあり、複合的itemをさらに細かく分析し「原子項目」のようなものを想定することもできるでしょう。
 しかしまずそもそも、古典物理学的なモデルを心的現象にそのまま援用することには無理があり、例えば心的力動が「原子項目」として何を単位とするのかすら、うまく想像することもできません。
 加えて、仮に「ものごとにはすべて原因がある」としても、わたしたちは普通、すべてのものごとについての原因など考えない、ということがあります。「当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、これは「原因」について思考する上で決定的なポイントです。
 精神分析学に対する大衆的イメージは、何か「困ったこと」についての過去の原因を自由連想などの方法により探り出し、(今更取り除くことはできないにしても)これに光を当てることで「治療」する、といったものではないでしょうか。フロイトも最初期の頃はこれに近いことを考えていたようですし、アメリカ人は今でもそう思っているようです。しかし重要なことは、原因を「特定」することではありません。心理療法はパンク修理ではないのです。
 ラカンは「原因はうまくいかないときにしかない」ということを言っています。わたしたちが原因について思考するとき、それはうまく行っていないときです。「うまく行っているときには、諸効果(effets)だけがある」のです。屁理屈だと思われるかもしれませんが、原因について思考し始めているという正にその状態、治療者の門を叩いているという状況自体を織り込まなければ、「原因」について何ら有効な言説は紡ぎ出せないのです。「治療者の門」は別段病院である必要はありません。自助グループとか教会とかハローワークとか家庭裁判所とか、似たようなものが沢山あります。そしてここで言う「有効な言説」とは、「原因」をズバリ言い当てるような「神託」ではなく、「原因」を巡ってぐるぐる歩く助けとなるものです。
 正確には、「困った人」は常に「神託」を求めてきます。ですが、病院なりハローワークなりで待っている人はイタコでもイエス・キリストでもありません。ただ、自分が「神託」を求められていることを「知って」はいます。ですから、ここでの「有効な言説」とは、この期待(転移)を利用しながら「原因」の周りをぐるぐる歩くものである必要があります。
 大分回り道をしましたが、「意気込み」を抱いてしまったとき、果たして問題は「原因」なのでしょうか。
 「原因」の場合もあると思います。少なくともわたしは「原因」につかまりました。その周りをぐるぐる回って、沢山の言葉を紡ぎださないではいられませんでした。「原因」についてできること、それはひたすら歩いて言葉にしてみることだけです。わたしがそこで得たものは、上で触れた「真夜中のトランス」のテクストのほか、「トランスセクシュアルと外国人」「女性性器と傷」などにも反映されています。同じように「原因」が気になる方にとっては、多少は寄与できるものもあるでしょう。
 しかしここでは、より大切なこととして、問いに対する仮の答えというよりはむしろ、問いを立てること自体に目を向けてみたいです。つまり、多くの「性同一性障害」当事者は、そもそも「原因」にあまり興味がない、ということです。
 これはかなり驚くべきことです。というのも、彼・彼女らは別段困っていないのです。
 普通、精神病院に行く人はかなり困っています。ハローワークに行く人も困っています。
 ところが「性同一性障害」の人たちが精神病院に行くのは、はっきり言えば診断書が欲しいからであって、少なくとも鬱で自殺しそうな人ほど心の問題で困っているわけではないのです(もちろん中には同じような困り方をしていて、死んでしまう方もいらっしゃいます)。確かに彼・彼女たちも困ってはいるのですが、それは健康保険証の性別欄にヘンな性別が書いてあったり、見た目がパスし切れなかったり、親族と揉めていたり会社をクビになったり、といった問題であって、普通精神科医が対象とするような問題ではないのです。
 「だから『性同一性障害』は病気ではない」と言いたいのではありません。そういう問題系は確かにあるのですが、ここで議論したいのは別のことです。つまり、「困っていない」とこと自体が、広義の「性同一性障害」の重要な症候である、ということです。
 特別な「意気込み」があります。しかし「意気込み」を抱いている当事者はその原因を考えるより、「意気込み」をそのまま了解してしまい、「意気込み」の内容を素直に実現しようとしているのです。
 一日に三時間も手を洗わないと不安で仕方がない人がいます。彼・彼女は、自分の手が衛生上問題なほど不潔なわけではないのを「知って」います。知っているのですが、洗わないではいられないのです。洗わないとものすごい不安に襲われるので、洗っている方がマシなのです。だから困っています。困って精神病院に行きます。
 ですが、「性同一性障害」の人は、洗うことにはそれほど疑問をもっておらず、むしろいかに効率よく手を洗うか、とか三時間という時間をいかにして捻出するか、といったところに関心があるのです。
 普通、こういう人びとに対して、狭い意味での旧来の精神療法はあまり有効ではありません。「神託」を期待していないからです。ラカン的文脈で言えば、神経症親和的というよりはむしろ精神病親和的です。
 彼・彼女らに「原因」の周りを歩かせることはかなり困難です。その代わり、別のことで困っています。例えば、手術をしたいのにお金がありません。ではこれは単純に経済力の問題なのかというと、ちょっと違うのが「性同一性障害」です。
 本当にお金だけを問題にしている場合もあるので一概には言えないのですが、少なくとも平均的社会人と比べたとき、そのお金の無さに対するアプローチがあまりにも杜撰なケースがままみられます。わたし自身がそうだったのでよくわかるのですが、現実的問題を問題として掲げているにも関わらず、これに対して現実的な解決を迫ろうとしていないのです。やってできないことのわけがないのに、場合によってはぎゃぁぎゃぁわめいているだけで、少しも事態を改善しないのです。なぜでしょうか。
 容易に想像できるのは、「原因」に対して防衛機制が働いているということです。「原因」のことは問題にしたくない。問題は別の場所にある。しかしその問題があっさり解決してしまうと「本当の原因」を相手にしなければならないので、解決されても困る。
 このとき、無理やりにでも「本当の原因」を問題にするとなると、ミロ同様に反動的病因論者の謗りを避けられませんし、実際優秀な「治療者」とは言えないのではないかと思います。とても不思議なことですが、なだめたりすかしたりしながら「現実的問題」の方を解決に向けて進めてやると、彼・彼女らの「困ったこと」は本当に解決してしまうのです。そして正にこの解決、目指しているように見せかけながら実は巧妙に避けていた解決が訪れ、しかも解決してしまっても別に世界が崩壊するわけでもなく、十分普通に生きていけることに気付かされてしまうと(解決された状態に慣れてしまうと)、この人たちは結構あっさり「治癒」してしまうのです。平たく言ってしまえば、そんなやり方でオトナになれてしまうのです。
 すると面白いことがわかります。ここで行われる「治療」というのは、結局現在(不十分な点はあるにせよ)実践されている「性同一性障害」治療とほとんどイコールなのです。上のような考えの下に「治療」されている医療者の方というのはあまりいらっしゃらないでしょうが、一周回ってやっていることはほぼ同じになるのです。
 ではこのとき、「本当の原因」はどうなったのでしょうか。
 常識的に考えれば、手付かずのままです。その件については、保留したきりなのですから。
 しかし本当にそうでしょうか。「原因はうまく行かないときにしかない」のです。うまくいかなかったものは、なんとかうまくいくようになりました。ある意味、これは「原因の消滅」です。
 レトリックだと思われるでしょう。しかし、わたしたちが原因について思考するとは、そういうことです。認識の及ばぬ場所に「知られざる原因」があるのではなく、「原因を問う」という態度が存在するのであり、原因とはこの態度により遡及的に措定されるのです(point de capiton!)。
 もちろん、誰にとっても原因が消えたわけではありません。少なくともわたしはまだいくらか原因が気になりますし、もっと気になって仕方がない人もいるでしょう。
 ただし、それは「性同一性障害」の病因ではありません。原因が気になって困っている人、それはあなただからです。
 「性同一性障害」の人たちは、原因を移動させました。しかしパズルのピースは連動していて、それだけで終わりにはなりません。一つのピースが移動すると、別のピースもつられて動きます。移動したのは、患者の場所です。
 というわけで、もし問いを立ててしまっていたとしたら、門を叩くのはあなたの番です。誰の門を? 「性同一性障害」の人を訪ねて、「あなたはなぜ・・」と尋ねましょうか? あまり役に立つ答えは期待できないでしょうが、何せ「当事者」ですから、何かを知っている可能性はあります。
 犬が草むらに入って「キャン!」と鳴いて飛び出してきたとしたら、そこで彼の身に何が起こったのか、知っているとしたら彼自身しかいません。ただ彼(あるいは彼女)は何も語りませんし、その日の夕飯にありつく頃には、何が起こったのかも忘れてしまっているかもしれません。ともあれ本人はそれで「困って」いないのですから。
 わたしたちが、彼らの症候なのです。
注意:上で図らずも分析についてのことを偉そうに書いてしまいましたが、わたしは別段精神分析の専門家でも何でもありません。かつて学んでいたことの関係等で、普通の人よりはかなり洗脳されましたが、職業的にコミットした経験などは皆無です。「プロ」から見たら一笑に付される内容もあると思います。本当は「精神分析」という単語を使わずに説明したかったのですが、どうにも無理が出てきて開き直ってしまいました。不適切な内容があったら(多分あります)申し訳ございません。

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