心は最後に変わる

 自身がSRS、戸籍の性別変更を済ませたところで、一つまとめておきたいことがあります。今までさんざんバカにしてきた「心」についてです。
 まず、今までの議論を簡単に整理してみます。
 「性同一性障害」についてのよく聞く定型句に、「心の性別に身体の性別を合わせる」というものがあります。当サイトでは再三これを疑問視する記述をしてきました。当事者が社会生活を行う上で、このようなわかりやすいモデルが有効であることはもちろんですが、「心の性別」というのは「心の生年月日」と同じくらい意味のわからないのもので、もしも「心」に「性別」があるとしたら、それは希望の性別でなんとしても生きようという「意気込み」程度のものです(「トランスセクシュアルと外国人」ほか)。
 一方で、真に性の本質について思考しようとすれば、究極的には名としての性、一本の切断線に到達してしまう、ということを「真夜中のトランス前編 後編」で書きました。「性同一性障害」と操作的に呼ばれているこの現象について考えるにせよ、最終的にはこの点をレファレンスに持つべきです。ただし、この次元の性は外見や記憶、身体・社会性とはまったく関係なく、性を巡るあらゆる属性をはぎとられているものですから、GID当事者にとっても一般の方々にとっても、ほとんど興味の対象とはならないでしょう(これについては「女性性器と傷」も関連します)。
 まとめてみると、
1 「意気込み」「意志」
2 人格と一体となっていると想定され、時々「身体の性別」と不一致になったりするらしい「心の性別」(態度や振る舞いに表出される性向? でもジェンダーロールとは独立している?)
3 名としての性(入れ物としての性、「存在論的性」)
 となります。
 一般に「性同一性障害」が語られるときに想定されているのは2ですが、この領域は社会的に規定された性別にプラスアルファした程度の重みしかもっていません。さらに言えば、明白に外見・身体上の特徴と深くリンケージしています。
 しかしこれを明示してしまうと、GID言説にとっては都合の悪いことになります。というのも、(MtFで考えた場合)女らしい女も女らしくない女もいるように、「女そのもの」は「女らしさ」といったジェンダーロールから独立しているはずで、「女らしい男ではなく女なのだ」という点を死守するためには、問題が「女そのもの」(なる想定物)の方にあると主張しないわけにはいかないからです。そうでなければ、GID言説はジェンダーロールを絶対化する危険な保守反動言説となりかねません(実際、そう主張するフェミニストやレズビアン・ゲイ・アクティヴィストもいます)。加えて「手術そのものだけが問題なわけではない」と訴えるためには、手術を必要としかつそれに相応しい「心」(もしくは「動かしがたい何か」)を想定する必要があります。だからこそGID言説は「脳の性分化」などの仮説により器質原因説を強化しようとしたり、「ジェンダーアイデンティティ」不変神話を主張したりしてきたわけです(註:追記)。
 しかし現実に当事者や「治療」の現場で問題になるのは、ジェンダーロールや外見・身体上の特徴と深く絡み合った「女(な心)」であって、これらと独立した「女そのもの」や、その極北としての「存在論的性」などではまったくありません。結局そこで語られているのは、フェミニストがさんざん批判してきた社会的性別にプチ整形をミックスした程度のものでしかなかったわけです。
 このような乖離が生じたのは、GID当事者および周辺医療者に、社会構築論者の攻撃をかわし「治療」を正当化し、安全な社会生活確保を優先する必要があったためでしょう。これはこれで仕方のないことであり、サバイバルと社会的権利獲得を最優先し戦ってこられた先人の偉大さをいささかも削ぐものではありません。わたし自身、その恩恵で「普通の暮らし」を享受できているわけです。加えて、ある一個人がステレオタイプなロールを引き受けること自体は別段罪ではありません(ロールを規範として絶対化することが問題)。
 ただ、純粋に言論だけを抽出してみると、あまりにも稚拙で面白みに欠けていたのも事実です。だからこそこのサイトでは、敢えて1と3についてのみ考えるようにしてきました。
 しかし個人的に大きな区切りを迎えたところで、2の部分に含まれる「心」について、自身を振り返る形で考えてみたいと思います。これはわたしが新たに手にした「特権」の、わたしなりの「有効活用」です。
 トランス過程を歩みだしたばかりのころ、わたしはまったく「男」にしか見えませんでした。子供の頃はよく女の子に「間違えられ」る子ではありましたが、だからといって成人後に女と認識されるような容姿だったわけではありません。どこからどう見ても「男」でした。
 では「心」の方は女だったのかというと、それも全然違いました。
 1としての「女」、つまり「女として生きる!」意気込み、少なく見積もっても「女の外見を手にする!」強い意志はありましたが、だからといって考え方や感じ方が「女らし」かったわけではないですし、立ち振る舞いや言動が女っぽかったこともないです。
 個人差が著しいので自分を標準とするつもりはないですが、一般的にも、そういう「女っぽい男」はオネエ系のゲイという分類になって、MtFにはならないものです。むしろどう見ても女としてパスしているレベルなのに「身体がまだだから」と意地になって男の服を着るMtF当事者もいるくらいです。
 だからこの段階でわたし(という一ケース)を「普通の男」から隔てていたのは、1としての「心」でしかありません。ただ、一般の方々が1の「心」を安く見積もりすぎているというだけです。一見無意味なことにかける人間の意気込みというのは、時に狂気を思わせる域にまで近づくものです。命をかけて高い山に、しかも冬登る、という人もいますし、全財産を投げ打って仮面ライダーグッズを買い集める人だっているのです。
 GID当事者を良く知らない人が「(MtFは)男が好きだから女になりたいのかな?」と勘違いする場面がよくありますが、常軌を逸した情熱を自分のよく知っている「恋愛」というモチベーションから理解しよう、という試みでしょう。ですが、エベレストに登る人は女の子にモテたかったりお金が欲しかったりして登るわけではありません。そういう気持ちもちょっとはあるかもしれませんが、どんなに女好きの男でも、「エベレストに登って注目される」という手段がモテるメソッド優先順位の一万位以内に入っていることはないでしょう。自分でもさっぱり意味がわからないけれど、とにかくエベレストに登りたいし、エベレストに登らなければ自分が自分でなくなってしまいそうなくらい、切実にエベレストなのです。
 話がズレましたが、その後脱毛やホルモン治療、身体改造、その他諸々の涙ぐましくもバカバカしい研究・努力を通じて、外見的にかなり女性化していきました。自分で言うのも何ですが、本当によくやったものだと思います。もう一度やれと言われてもとてもできません(笑)。社会的にはまったく無価値なことですが(「『認められないこと』の価値を認める」)、お陰で「人間、本気になったら何でもできる」という妙な自信がつきました。カムしている数少ない親しい女友達に昔の写真を見せて「アンタなんでもできるよ。月だって行けるよ」と言われたことがあります(笑)。
 また脱線してしまいましたが、そうした経過を経て、ある時点からいわゆる「フルタイム」、つまり女性の外見で常時行動する生活に入りました。
 この時点では職場の人間等はわたしの染色体上の性別を知っていたわけですから、「女として生活する」というのとは違います。声もまだ不完全でした(わたしはこのような社会的ポジションの移行のたびに職場を変えています)。
 よくフルタイム開始をもって(MtFの場合)「女としての生活」と言う人がいますが、潜伏=埋没(周囲が染色体上の性別を知らない)とフルタイムは全然違います。人間は何を知っているかによって大きく認識や行動を変える生き物です。良くも悪くもカム・フルタイムは「第三者」であって、MtFはMtFです。女社会の深層についても、開いているようで遠慮があります。今にして思えばまだまだ「お客さん」でした。
 ただ、大きく変わったこともあります。外見と社会的なキャラクターです。
 フルタイムを違和感こなせたということは、外見についても相応のレベルまで行っていたとは思うのですが、フルタイム直前に会った友人と二ヶ月後に再会したとき、あまりの進歩に驚かれました。
 考えてみれば当然です。週一回の英会話レッスンと留学生活では上達スピードが違うでしょう。何でもある技術を身につけようと思ったら「それなしでは生きることもままならない」環境に無理やり身を置くことです。最初のうちのキツさは尋常ではないですが、レベルアップの速度も比ではありません。些細なことを言えば、例えば顔というのは微妙な筋肉の使い方を意識を研ぎ澄ませてコントロールするだけでも相当変えられるものですが、最初は気を抜くとすぐ戻ってしまうので、電車の中でも絶対眠りませんでした。
 人格、つまり言ってみれば2の「心」の変化も興味深いものがありました。狭義の「女らしさ」という意味ではむしろ今より女っぽかったでしょう。染色体上の性別を知られている以上、女としての説得力を持つには普通の女以上に「女」を強調する必要がありましたし、また多くのトランスセクシュアルが経験するように、希望の性別の実態をよく理解していないことからくるジェンダー・バイアスもありました。
 外見的にはその時以来劇的に変化したということはないですが、その後潜伏=埋没生活に移行することで、さらに心理面が変化していきました。過度な「女らしさ」が抜け、より普通の女、「男にとっての女」よりはむしろ「女にとっての女」へと近づいていったのでしょう。
 望んで歩んだとはいえ、これは必ずしも「楽」な方に向かう過程ではありませんでした。社会的・経済的・身体的に相当な負荷があり、「普通」を目指したはずがちっとも「普通」な暮らしではありませんでした。ネイティヴに対する妬みもありました。染色体上の性別を明かさざるを得ないオフィシャルな局面での屈辱に加え、日常過去を語ることのできない息苦しさ、友人関係にも恋愛関係にも積極的になれない不自由さもありました。
 「カム・フルタイム」と「ノンカム・完全潜伏=埋没」のどちらが望ましい社会適応なのか、というのは興味深い問題なので別稿で論じたいですが、大雑把に言って、親しい人間関係ではカムしている方が気が楽です(絶対カムできないような相手とはそもそも親しくならないのかもしれませんが)。また良くも悪くも「第三者」なポジションを利用することもできます。一方、就労・仕事や部屋探しといった公の局面になると、まったく反対になります。カム状態は圧倒的に不利ですし、ノンパスだったりすれば目も当てられません。
 そしてとうとう、SRSを受け、戸籍も社会生活上のものに一致させました。
 戸籍はまだ変わったばかりなので長期的な影響はわかりませんが、少なくとも今感じているのは、素晴らしい安心感と余裕です。考えてみれば「普通の人」は皆この程度の安定を持っているわけですし、これまではそれを妬ましく思うこともあったのですが、手にしてみると喜びと安心感の方がずっと大きく、何かと良し悪しを比べようという心は早くも後退してくれました。
 これで「アガリ」というほど人生甘くはないので、これからの人生で何が待ち構えているのか予想もできません。ただ、一つ面白いと思うのは、「心」が社会的ポジションの変化とともに変わっていったということです。これは別段珍しいことではありません。一人の人間でも学生から社会人になることでキャラクターが変化するものですし、仕事や職場でのポジションによって、少しずつでも広義の「人格」が変わることはあるでしょう。まして性別という、普通は不変と思われている「ポジション」を移行したのです。まったく変わらなかったらその方が無気味です。
 すると奇妙なことがわかります。
 「心に合わせて身体を変える」と言われているトランスセクシュアルですが、実は心(2)の方がトランジションに連れて変化していっているのです。
 もちろん単純に逆になって「身体に合わせて」心が変わっているわけではありません。身体も変わるし、社会的性別も変わるのですが、心もそれと互いに響きあうように変わっていくのです。
 最初にあるのは心(1)です。つまり意気込みと意志です。
 これにより、身体・外見・社会生活が変化します。
 すると心(2)が変わります。「性同一性障害」で一番話題になるあの「心」(2の心)が、一番最後に変わるのです。
 少なくとも心(2)と身体について言えば、どちらか片方が「アルキメデスの点」なわけではありません。どちらも支点ではないし、どちらも付随的なものではありません。ですが、心(2)を狭く取れば取るほど、少なくともわたしの場合は、一番最後に遅れてやってきたことが多かったように思います。
 お名前を思い出せないのですが、ある精神科医か心療内科医のダジャレな名言に「サイコは最後」というのがあります。
 精神状態が身体に影響することがあるのは言うまでもなく、場合によっては生命の危機をもたらすケースもあります。ですが、例えば胃が痛かったときに、原因として一番最初に疑うべきなのは「ストレス」ではありません。その可能性ももちろんありますが、まずは身体的・器質的な検査を十分に受けるべきです。その上で一番最後に心理・精神面を疑いなさい、というのが「サイコは最後」です。最後で良いけど、最後には忘れないように、という意味です。
 ですからこの台詞の背景とはまったく関係ないのですが、トランスセクシュアリティにおける「サイコ」も、同じように最後にやってくるようです。最後ですが、確実に最後には変わります。というより、変わらないと社会的に問題です。
 これは場当たり的で、根拠のない軌跡でしょうか。
 「心に合わせて身体を治療する」という文言に忠実であろうとするなら、「治療」の正当性を揺るがすものとは言えるでしょう。
 しかしトランスセクシュアリティに限らず、人生というのは「20の質問」のようなものです。
 「20の質問」とは、答えを知っている出題者に、「それは食べ物ですか?」「一番最後に食べたのはいつですか?」等と質問をなげかけ、「それ」の正体を言い当てるゲームです。
 このとき、20の質問全部を予め用意しておかなければならないとしたら、まず正解に至ることはできないでしょう。
 とりあえず思いついた質問を投げてみて、それに対する答えをフィードバックする形で、次の質問を考えるのです。回答を得た時点から見たら無駄な質問をしていたことにもなるでしょう。ですが、そのムダも含めて質問をしてみなければ、次のステップは思いつくこともできないのです。
 そして投げてしまった質問は撤回できません。「良い質問」も「悪い質問」も後付けでしか語ることはできず、大切なのはとにかく質問することです。
 トランスセクシュアル当事者が気にする心(2)や外見・身体は、いずれも「その時は妥当に見えた質問」です。それが「良い質問」だったのか「悪い質問」だったのかは、答えを手にしてから考えれば良いことです。
 ただし、「20の質問」とは違う点が一つだけあります。「最終的な答え」を手にすることがない点です。死ぬ瞬間に幸福であれば「勝ち」という価値観なら、それが答えかもしれません。死後の生を信じるなら、死んでみないと答えがわからないかもしれません。
 とりあえず今できるのは、次の質問を考えることです。
(次のエントリ「原因」で、残された問題について補遺しています)
追記:
 このことから、逆説的にもGID言説は本質主義フェミニストの言説と親和的です。どちらも「女そのもの」(FtMの場合は「男そのもの」)を想定しているからです。違いはGID言説がMtFも備えていると主張する「女そのもの」が、本質主義フェミニストにとっての「女そのもの」に含まれるか否か、ということですが、少なくともかつてトランスセクシュアルを強制的へテロセクシズムの作り出したモンスターと罵ったような本質主義者は、もちろん含まれるとは認めないでしょう(笑)。
 さらなる皮肉は、むしろ「女そのもの」の無さにこそ、MtFが「女」として認められる契機がある、ということです(「『純粋な身体』とGID」参照)。「女そのもの」を手放してしまうことはMtFトランスセクシュアルにとって極めて危険な賭けですが、この命がけの飛躍によってのみ、MtFは「『女そのもの』はない、それでもわたしは女なのだ」という極北の女でありえます。「同化対象を持たない同化主義」とでも呼べば良いでしょうか。
 この飛躍はフェミニストにとっても同様に命がけでしたが、MtFトランスセクシュアル、とりわけ「フェミニスト意識のあるMtF」という新たな存在の出現により、社会構築主義者はその危険を再認識せざるを得なくなります。しかし、これはフェミニストにとってプラスの試練なのではないかと、わたしは(身勝手にも)考えます。少なくとも、これを乗り越えられないような社会構築主義にわたしは何の希望も見出せません。
 ことわっておきますが、この議論は「脳の性分化」あるいは何らかの遺伝的因子(染色体とは別の?)といった形で、「女そのもの」の対応物が発見されない、と断じるものではありません。そのようなものはあるかもしれないし、ないかもしれない。重要なのは、あったとしても社会的ジェンダーとは無関係なのはもちろん、トランスセクシュアリティが「踏み絵」として受け入れられるような代物ではない、ということです。
 そもそも本質主義者は染色体検査を受けてその主張を確信したのでしょうか。ちなみにわたしは二万ほど払って受けましたが(笑)。

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