「この世に仮住まい」だからこそ責任がある

 わたしはよく「ノンカム完全潜伏」という言い方をします。
 周囲の人間に戸籍上(あるいは染色体上)の性別をカムしないで生きることです。
 その是非や解釈・意義については何度も書いていますが、ここで考え直してみたいのは「潜伏」という表現自体です。
 わたしにはしっくりくる言い方ですが、あまり使わない言葉かもしれません。「何も悪いことをしていないのに暗い言い方をするな」「本来の状態に戻っただけ」という反論もあるかもしれません。確かにわたし自身、今の暮らしでは性別のことなど忘れていることがほとんどです。「普通の人」というのはそんなことを考えないものですから、いくらかマトモになったのかもしれません。それでも、どこか「潜伏」という表現には馴染みの良いものがあります。
 念のためお断りしておきますが、トランスセクシュアルは「本当の性別」を隠しているわけではありません。「割り当てられた性別」に違和感を持っているだけです。「希望の性別」こそ「本当」とも言えるわけで、何が「本当」なのかはナイーヴに振り回すことのできるものではありません。
 それでも「潜伏」という「隠れていること」を暗示する表現を使っているのは、やはり何か「本当」が別にあるような気がするからです。
 繰り返しますが、この「本当」は戸籍や染色体の性ではありません。一つの解答は「トランスセクシュアルであること自体」でしょう。
 ですが、それでも何か言い足りない気がします。確かに圧倒的な現実として、わたしたちはトランスセクシュアルです。何かズレを感じる理由の一つは、トランスはトランスになりたくてトランスなわけではない、という何度も指摘している問題がありますが、ここにある違和感は、この二律背反ではなく、また別の箇所にあるように思えます。
 つまり、「本当」が名指せないこと自体です。
 「潜伏」といったからといって、かつてジャニス・レイモンドやカテリーヌ・ミロといった愚劣な本質主義者が揶揄したように、トランスセクシュアルが「家父長制のスパイ」なわけではありません。スパイだとしたら、「正体」があり、その「正体」はわかりやすい属性に還元されるはずだからです。
 しかし「正体」などそもそもないのです。
 単に性別がよくわからない、というだけでなく、つきつめていけばわたしたちが誰なのかは知りようもありません。トランスセクシュアリティはこの「誰」の問題を性別の問題とすり替えてしまっている、良く言えばわかりやすい形で再提示しているところがありますが、わたしの感じる「潜伏」感とは、このわからなさのことなのです(トランスジェンダー/トランスセクシュアルと「誰」の問い」)。
 自分の正体がわからない。わからないながらも、今日も何者かとして社会に参加しなければならない。そこでは誰もがわたしの正体などはっきりしているものと思っているし、疑いを持つこともない。わたしも疑わない。それでも実は、答えなど少しも手にしていないのです。
 考えてみれば、このわからなさというのは、トランスセクシュアルに限ったことではありません。わたしたちは誰でも「この世に仮住まい」です。「潜伏」しているのは皆一緒なのです。
 それをトランスセクシュアリティと結びつけてしまうのは、ただ単にわたしがトランスセクシュアルだから、というだけかもしれません。また穿った見方をすれば、トランスセクシュアルの一部には、この誰にもある本質的な「仮住まい」性を、チープな性の問題とすれ違うことで防衛している傾向があります。極端な場合「性別違和のせいで、社会参加できないのだ」といった逃げ口上にもなります(実際に社会参加上問題になることもありますが、当事者が一人で騒いでいるだけのことの方がより多く見受けられます)。
 一方で、トランスセクシュアリティがこの「仮住まい」性を極めてうまく表象しているのも事実であり、単なる偶然とも思えません。トランスセクシュアリティという道具立てを使えば、この「誰」と「何者」の問題が、両方のトイレを使った経験にまで卑近化することができてしまうのです。
 このことはおそらく、性の持つ不完全性そのものに由来しています。
 バイナリーなジェンダー・システムが不完全だ、という意味ではなく、そもそも男/女というもの自体、不完全性の表象としてある、ということです。
 わたしたちが男であったり女であったりするのは、ニンゲンというカテゴリーの中の「男」タイプか「女」タイプに分類される、ということではなく、自己完結し語る必要もない完全なる「人間」であることに失敗したからです。この失敗があったからこそ、わたしたちは語られ語る人間として、ディスクールの網の目の上に漂っているのです。もしも完全であったとしたら、わたしたちは語らいの中で流動することができず、石のようなモノであるしかないでしょう。
 流動する、ということは、わたしたちを名指す言葉がその時々で変化していくことです。わたしたちは一個の主体でありながら、「会社員」であったり「二児の母」であったり「通りすがりの女」「高校のクラスメイト」「日本人」であります。そのどれもが一面の真実であり、その場その場でのわたしたちの「何者」を規定はしてくれますが、どれ一つとしてわたしたちが結局「誰」なのかは示していません。「誰」がわからないからこそ、様々な「何者」であれるのです。
 つまり、わたしたちの「仮住まい」性は、つきつめると男/女という形で一番最初に自閉した完全性から切断されたところとつながっているのです。「男/女」と書きましたが、これは「男か女か」ということよりはむしろ、「全体(完全)/男」「全体(完全)/女」という二種類の失敗のタイプがあった、と考えるべきです。より正確には、最初の分断が、その原理から言って「二つに分ける」ものだからこそ(全体/部分)、性は二極的なのです。
 ここまで考えると、トランスセクシュアリティが「仮住まい」性と親和することも理解できます。トランスセクシュアリティは、最初の切断を二重化し、より馴染み易いかたちで再演しているのです。トランスセクシュアル当事者の一部に「病気としての性同一性障害」を盾に取り、責任を回避する傾向があることも、このことから考えることができます(間違ってもこの点にトランスセクシュアリティを還元するものではない)。
 一つ忘れてはいけないのは、「仮住まい」であることは日々の社会生活からの撤退を意味するのではない、ということです。
 「逃避」型の自称トランスセクシュアルなら責任回避の方便に使うかもしれませんが、それが通用しないのは、わたしたちの誰もが「仮住まい」であることを考えれば自明です。「仮住まい」とは、「誰」がわからないながらも、その時々で変わる「何者」かとして他者とコミットしていくことです。「仮住まい」は決して逃避的態度ではなく、むしろ社会参加と責任のための条件でもあるのです。逆説的ですが、わたしたちは「仮」だからこそ、「本物」として不完全ながらも世の中と関係できるのです。
 わたしは「ノンカム完全潜伏」として暮らしながら、時々亡命者か旅行者のような気分になることがあります。ネイティヴの女性に混ざってはいますが、やはり過去の来歴などで決定的な違いがあるのは事実です。一方で、普通の男性とはどう考えても違います。男/女というより、この世の中全体に対して「余所者」的なところがあるのです。
 そうは言っても、世の中に対して徒に斜に構えたり第三者を気取ったりするわけではありません。他では得られない特別な「旅行者的体験」があるのも事実で、生まれた国にいながら旅行記の書ける気分になるのも確かですが(これはこれで非常に面白い人生です)、一方で一人の亡命者としてこの世界に非常にお世話にもなっています。むしろ地元人より日々感謝を感じることが多いようにすら思います。
 亡命旅行者は自分が「仮」であり、しかも「仮」でありながらその土地に参加することを全的に引き受けなければなりません。そうでなければ、見知らぬ土地で生きてはいけないからです。「仮住まい」はモラトリアムなどでは決してなく、サバイバルするリアリティに満ちているのです。
 一つ薄ら寒い予言を残すなら、トランスセクシュアリティの一つの効能は、(当事者であるなしを問わず)これを通じて「逃げようのなさ」を確認することにあるのかもしれません。トランスセクシュアリティは、「仮」のどうしようもなさを再演しなぞるものだからです。
 尤も、これを通じて本当に「観念」し「更正」できるなら、それはそれで結構な方便の使い方ではある、と擁護はしておきます。普通の人間の社会参加など、誰でも似たり寄ったりです。

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