価値判断と事実認識 承前

 前回のエントリであまりにも乱暴に書き殴ってしまったので、少し整理しておきます。
 まとめてしまうと、
1 トランスセクシュアルの社会に対する関心は、「自分が何としてとらえられているか」という事実認識に関する問題であり、その「何」について皆がどう思うか(価値判断)ではない。
2 価値判断は変えられるが、事実認識は当人が選択するものでない以上、原則として変えられない。つまり説得が通用しない。
3 説得できない以上、相手の枠組みに合わせて自分が変わるしかない。
 ということです。
 実際には価値判断と事実認識はキッパリ分かれるものではないので、こんな単純にはいきません。
 なぜこんなことを急に書き出したかというと、前回も触れた「理解を求める」というポイントが気になるからです。
 「理解を求める」のは説得の一種ですが、事実認識に説得が無用である以上、「理解」は役に立ちません。それどころか潜伏=埋没生活に危機をもたらす可能性すらあります。
 これで終わりなら超反動的急進同化主義ということになるでしょうが(笑)、もちろんそうアッサリとは終われません。
 というのも、「カラスを白く塗る」同化のためには、医療・法制度の助けがどうしても必要であり、その助けを得るためにはやはり「理解」が欠かせないからです。例えば特例法の成立なども、一定の「理解」がなければどうにもならなかったでしょう。
 またトランジション過程でのサバイバル、身体上の限界でパスできない場合などは、当然「理解」が必要になります。
 「トランスジェンダー」であることを積極的に明らかにしていきたい場合ももちろんですが、これは少し問題がズレます。というのも、上の二点については同化志向であっても考慮する必要がありますが、最後の一つは極端な同化主義者には必要ないからです。つまりステップや能力の問題ではなく、当人の意志である程度選べる問題であり、権利上は「トランスジェンダー派」として分けて考えることができます(そして「同化主義」と「トランスジェンダー派」が二つでひとつである以上、最終的に分けてなど考えられないのは何度も繰り返している通り)。
 要するに、最終的には「理解」は問題ではなくむしろ邪魔なくらいなのだけれど、これを可能にする状況の確立のためには、やはり「理解」が必要になる、という絶対矛盾があるということです。
 この矛盾自体、とても面白く興味が尽きないのですが(そしてこの問題を取り上げた最大のモチベーションは、例によってこのオモシロサ自体でしかない)、それをおいても「理解を求める」が一筋縄にいかないことはわかるでしょう。
 ナイーヴな市民運動的スタンスの方はもちろん、自分を「多数派」だと勝手に思い込んでいる頭の悪い「一般人」の皆さんは、「理解」というともろ手を挙げて素晴らしいことだと思っていることが往々にしてあります。ですが、世の中はそんなにシンプルではありません。
 もちろん「理解」が必要な場もあるわけですが、逆に邪魔になることもあるのです。
 良かれと思ってやったことが悪く働いたとき、意図に免じて情状酌量の余地があるにせよ、やはりそれは「悪い」ことだと思います。「無知」が悪い、という人もいるかもしれませんが、「無知」の悪さは、無知な「その人」に責任をとってもらうしかない、と少なくともわたしは考えています。
 もう一点補足しておきたいのは、「カラスを白く塗」ったとき、そのカラスは果たして「本当は」黒いのか、という問題です。
 「カラスを白く塗る」などと書くと、いかにもメッキな感じで、「白く塗っても『本当は』黒いんじゃないか!」というツッコミが容易に想像できるからです。
 いい加減こういう仮想ツッコミにツッコミ返しをするのにも飽きてきてはいるのですが、まず第一に、この問題の焦点となっている事実認識のレベルにおける「本当」とは、広義の社会的性、もっと言ってしまえば見た目がパスして性器がそこそこできていて保険証の性別が希望のものになっている、という程度のことであり、「本当」も何もありません。
 第二に、もし「心」などと言い出すのなら、命をかけても生まれと異なる性別で生きようとするその心意気とかいった程度のことでしかありません。豊胸手術をする人は「心が巨乳」で「巨乳以上に巨乳」です(「トランスセクシュアルと外国人–Legal Alienをめぐって」参照)。
 以上二点で、トランスセクシュアリティについての一般的な議論なら終わりにしてOKなのですが、個人的には、こうして「本当」を分解した後にこそ、「本当の『本当』」を考えたいです。そういうわざわざ傷跡を開くようなことをやっているのが「真夜中のトランス」の議論だったりするのですが、逆にこの水準での「本当」は知覚の対象とはならないため、現象面では上の二点で終わりにしているのと変わりありません。
 「真夜中のトランス」の議論では「器としての性=存在論的性」を考えていますが、これは男や女のあらゆる属性をはぎとった後に残る入れ物自体ですから、見た目はもちろん、解剖学的状態からは判断できません。それどころか染色体や記憶や記録とも無関係です。そしておそらく、性の本当に面白いところ、トランスセクシュアリティ現象の最もおぞましい淵はここにあるのですが、今回の要旨からは外れるので触れません(「女性性器と傷」の問題系は少しクロスオーバーします)。

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