クウェンティン・クリスプ。
この名前を聞いてすぐにピンとくる日本人はほとんどいないでしょう。
1908年ロンドン南東の町サットンに生まれ、幼い頃からこっそりお母さんの服を着るのがすきだったクエンティン。デザイナーとして活動しつつ、当時は珍しかった「女装するゲイ」として人気を得、第二次大戦を経てヌードモデルやダンス教師などを転々。『オルランド 』という映画にはエリザベス女王役で出演されています(このあたりの詳細については歌川泰司さんによるAll Aboutの「クィア列伝! 1 ぱちぱちのクィア・ノート」が詳しいです)。
こう書くと「あぁ、また『歴史的トランス』の話か」と思われるかもしれません。よくある展開です。「昔からトランスセクシュアルは存在して・・」という下り。正直、わたしもうんざりしています。
クェンティンが今で言うところのトランスセクシュアルであったのかどうか、本人の「自認」がトランスだったのかゲイだったのか、それとも別の何かだったのか、そのあたりについてわたしはほとんど知識を持っていませんし、興味もありません。
大体、トランスセクシュアルが太古の昔から存在しようが、20世紀以降の一時のトレンドだろうが、現代医学の作り出したモンスターだろうが、そんなことは取るに足りないことですし、多くのネイティヴには理解しがたいことでしょうが、実はそんなことはトランスの「本質」とも関係ありません。
もっと言ってしまえば、この人物を「彼」と呼ぶか「彼女」と呼ぶか、この(極めて狭い世界でだけ)「重大」とされる問題についても、どうでも良いと思っています。
わたしがクェンティンを知ったのは、おそらく日本では最も可能性の高いミーハーな窓口、スティングの”Englishman in New York”のビデオクリップ主演を通じてです。
かなり有名な曲ですし、Shineheadのコピー?”JAMAICAN IN NEW YORK”もよく知られていますから、ご存知の方も多いと思います。
中学の頃、一瞬ポリスのコピーをやっていたお陰でスティングとは縁が深いのですが、このビデオを最初に見たのもこの頃でした。 白黒の映像で映し出されるニューヨークの街。カメラが追うのはスティングともう一人、「年輪」と呼ぶにふさわしい見事な皺の刻まれた老婆。
当時既に八十歳近かったわけですが、わたしの記憶に残っている一番の印象は「美しい」ということでした。
映像の妙もあるでしょうが、顔つきの陰影や質感、派手ではないけれどセンスよくまとまったシンプルなファッションが、NYの風景が実によくなじんでいました。
MTVの解説か何かで「実はこの人は男性なんですね〜」というのを聞いたのですが、その事実には別段インパクトを受けませんでした。
それよりも風景と容姿、そしてEnglishman in New Yorkの楽曲との調和が見事であったこと、加えてEnglishman in New Yorkの歌詞の意味深さをよく覚えています。
この歌のサビの部分では、
I’m An Ailen I’m A Legal Alien
I’m An Englishman In New York
というフレーズが繰り返されます。
ニューヨークのイギリス人。”Legal alien” 合法的異邦人。
スティング自身のことでもあります。
もちろん「Legal」であって、何らやましいものではありません。一般的には「Alien」という語が用いられる場面ではありません。
わたしたちアジア人から見たら、「イギリス人」も「ニューヨーカー」も英語圏ネイティヴで、多くの場合見分けることすらできないでしょう。
しかし、おそらくだからこそ、スティングはAlienという語を使います。
違いがわずかであり、しかもその差が容易に認容されてしまう「異国人」。ほとんどの場合、すれ違ってもそれと気付かれることすらない「余所者」。
「コーヒーじゃなくて紅茶が好き」などといった「違い」が強調されるのは、多くの場合違いがそもそもほとんどなく、しかも重要でない場合です。
「東北の人はやっぱり我慢強いね」などと言うとき、誰もその「我慢強さ」が本当に重要であるなどとは考えておらず、また本当に東北の人がおしなべて「我慢強い」とも思っていません。違いなどほとんどなく、あったとしても実質的な意義を持たないからこそ、差異のゲームを走らせるのです。
そう、その違いは致命的ではありません。
違いがあるにせよ、個人差の方がずっと大きいものです。
「バレた」からといって、まずは殺される性質のものではありません。
多少驚かれることがあったとしても、五分もすれば日々の話題の中に紛れ込んでしまう程度の瑣末事です。
しかしだからこそ、正にそれゆえに徹底的に「Alien」なのです。
合法であるからこそ、違いを許容不可能なものとしてラベリングされないからこそ、「致命的に」異邦人なのです。
ミュージック・クリップの解説者は、確か「ゲイである」という意味でこの「合法性」と「異邦人性」に触れていた気がします。つまり、この世界の中に確かにい続けながら、「ちょっと違う」といった程度の含意です。
セクシュアリティではなくトランスセクシュアリティの観点から、同じことを語ることもできます。
「彼」が「男性」にとってもつ「合法性」「異質性」とも言えますし、あるいはパスして「潜伏」している「彼女」についても、やはり同様に「意外なほどあっさり許容されてしまう異質性」があります(ちなみに”Englishman In New York”の歌詞では、おそらくクウェンティンを指してHeという代名詞が使われています)。
一応excuseしておきますが、少なくない場面で決してこの異質性が認容されない、というのもまた事実です。
忘れてはならないことですし、この非常に低レベルな「不寛容」に対してキチンと撃ち返しておくのも重要なことです。わたし自身、日々神経を尖らせています。ですが率直なところを言ってしまえば、実はあまり興味がありません。
そんなことは忘れたくても忘れられませんし、こんなところで安い「不寛容」に妥協してしまえる人は端的に頭が悪いだけなので、単に相手をしたくないのです。時間の無駄ですから。
本題の方に戻りますと、ここで着眼すべきなのは、「ゲイ」という見方からでも、「男性性」「女性としての立場」のどちらからでも、「合法性」「異邦人性」が成り立ってしまう、ということです。
つまるところ、ここでLegal alienと呼ばれているあるあり様は、「ゲイかトランスか」「(本当は)オトコかオンナか」などといった話題よりずっと根の深いものであり、そのような狭義のジェンダー・セクシュアリティ的枠組みをすべて排除したとしても、依然として解消されない「ズレ」、わたしたちと世界の根本的な関係様式なのです。
気をつけなければならないのは、狭い意味での「性」の問題以前からLegal alienは存在していた、ということです。
一見ジェンダー・セクシュアリティに問題の根源があり、それゆえに「違和」が生じた(そしてこれを解消するために「治療」を受ける!)ように見えますが、本当のことを言えば順序が逆です。
わたしたちははじめからalienであり、例えば「ジェンダー・アイデンティティ」などといった浅薄なタームは、後から捏造された「理由」に他なりません。
ただしそれは「性」が重要ではない、という意味ではありません。
狭い意味での「性」(性別)などといった些事が問題なのではなく、むしろSEXとはそもそもこのような違和自体、「なじめなさ」自体にこそ根源があるものなのです。
SEXとは、人間の二種類(n種類??)のことなどではまったくなく、人が世界に向かい合うときに常に既に生じている致命的なズレ、わたしたちがわたしたちであるために必要とする失敗、「人間のできそこないであること」そのものです。
最も救いようがないのは、この「なじめなさ」がちっとも罪ではない、ということです。
うんざりするくらいlegalなのです。
どこをどう考えても「ここは外国」で、「自分は余所者」としか感じられないのに、誰もこの点を指摘しないし、気付いてすらくれない。この合法性こそが、最も致命的です。
この「問題にされない違和感」こそが、わたしたちのSEX、「人間のなりそこないであること」「モノから堕落した様式」です。誤解を恐れずに断じるなら、トランスセクシュアリティとは、多くの人が(幸いにも)感覚を麻痺させて慣れてしまうこの違和から、(繊細かつ幼児的にも)上手に離脱することができず、文字通り「物理的切断」をもってして形を与え、言語化し、受け入れる運動そのものです。
象徴的切断の排除が、不可能な現実として回帰したのです。
だから、やはり、問題はもう一度SEXに帰ってきます。
スティングがI’m An Ailen I’m A Legal Alienと歌うとき、クウェンティン・クリスプを素材として召還したのは偶然ではありません。
それは「他の何かでもありえたはずなのに、この不恰好で奇妙な姿でいる」きまりの悪さです。
間違っても、その「他の何か」と足し合わせると「補完」されて「完全」になる、などといったことはありません。男と女を足しても人間という和集合はできあがりません。
なんともきまりが悪いのは、「他の何か」と足しても引いてもいっこうに「全体」が析出されず、ただただ失敗のvariantだけが新型ウィルスのように冷たく数学的に算出されていく、ということです。
思えばクウェンティン・クリスプは、わたしにとっての「トランス初体験」だったのかもしれません。
あまりにも当然のことになりすぎて、長らく言葉にするのを忘れていた気がします。あるいは何らかの目的のもとに防衛的忘却が働いて、「焦点を外しておいた」のかもしませんが。
ただはっきり覚えているのは、この人物が男だとか女だとか、そんなことはあの「少年」の関心を少しもひかなかったということです。
ニューヨークの街角にたたずむ皺くちゃの老婆。
覚えているのは、その人物が摩天楼のようにアスファルトのように、あるいは落書きだらけの公衆電話のように、透明で美しかった、ということです。
ちなみに”Englishman In New York”の収録されている”Nothing like the sun”はスティングのソロ二枚目のアルバム。名曲ばかりで非常にバランスの取れた名盤です。おそらくスティングのアルバムの中で最も評価されているのではないでしょうか。
個人的には、ポリス時代の「バランスゼロだけど勢いと濃さが半端じゃない」ノリも好きなのですが、スティング&ポリス未体験の方にも安心しておススメできるのは、この時期のスティングでしょうね。
ポリス関係のディスクで一度も聞いたことがないものはほとんどないと思うのですが、かなりプッシュできる一枚です。トランス云々は別にして、一度は聞いてみて欲しいです(笑)。
“Nothing Like the Sun” Sting
トランスセクシュアルとLegal Alienについては、イロイロ思うところがあるので続けてメモしておきます。
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