トランスセクシュアルと外国人、という連想関係は強くわたしをひきつけています。
「地球潜入レポート」というカテゴリ名に託されたイメージは正にそのものですし、「トランス/ネイティヴ」という術語も好んで使うところです。
「生まれながらの人たち」に対して、「生まれは異なるけれどその人々と社会生活を共にする人々」という意味で、外国人とトランスは非常に似た立場にいます。
こんなことを書くと、「トランスは『心の性別』が生まれの性別と反対なのであって、外国人などとはまったくパラレルな関係にない」と言う方もいらっしゃるかもしれません(最近はいい加減、そういうTS原理主義的、あるいは世俗GID理論丸呑みの論調はあまり目にしなくなりましたが)。
しかし、少なくともまず第一に「希望の環境での生活に適合する」という意味では、「生まれと異なる性別での生活」と「生まれと異なる言語・文化での生活」はかなり共通点があります。
第二に、そこに至ったディテールは別として、何であれ「その文化」での生活を必要・希望している、という点でも外国人とトランスセクシュアルは同等です。
上の批判をされる方なら、以上二点に同意した上で「しかし日本で働くドイツ人は、心が日本人だったわけではない」と言うかもしれません。
こういう愚直で能天気な見解に一々反論するのにも飽き飽きしているのですが、一応繰り返しておけば、トランスは「心が日本人のドイツ人」などでは全然ありません。
先日のエントリで触れた中村美亜さんの『心に性別はあるのか』は正にそのものズバリの問いを正面から論じてくれていますが、彼女ほど親切でも優しくもないひねくれ者の石倉としては、「じゃぁ心に生年月日はあるの?」と混ぜっ返してやりたいです。あるとかないとか言う以前に、この問いの実質的効果がさっぱり見えてこないことでしょう。
もっと言ってしまえば、そもそも「心はあるのか?」という問いにまで戻ってしまうのですが、そこまで行くと一周回って「心に性別があるのか?」のアホらしさが見えにくくなってしまいます。強いて言うなら、日本に住み、日本語を習得し、日本人以上に日本文化に馴染もうとしているドイツ人は、依然として「日本人ではない」かもしれませんが、少なくとも「日本人な何かであろうと一所懸命である人」なのは間違いありません。そして人の「ココロ」とは、このような形で外形から定義される以上でも以下でもありません。
レベルの高いMtFでも、依然として「女ではない」と思いますが、少なくとも「女としての社会生活を送ろうとしている人」なのは間違いありません。彼女の「心の性別」がなんなのかは知りませんが、「女としての社会生活を送ろうとし」ていて、しかもかなりのレベルでそれが達成できているなら、「本当の本当のところなんなのか」などどうでもいいことです。わたしたちが日常使用している「性別」とは社会的に定義されたものに他ならず(普通の人は染色体検査などしたこともない)、その社会的性別とは「日本に同化しようとしているドイツ人」の「日本人っぷり」程度の「男っぷり」「女っぷり」があれば、それを「男」「女」ととりえあず呼ぶ性質のものなのです(しかもそれで一向に困らない)。
またくだらない反論でキーボードを磨耗してしまいましたが、要するに「心の性別」なるものがあるにしても、それは「希望の性別」で生きようとする、その「意気込み」のようなものでしかありません。いっそ「気合い」くらいでも良いかもしれません。
身体を切り刻むのもいとわないものすごい意気込みで女(あるいは男)としての生活を望んでいて、達成できなければ腹を切って死ぬくらいの覚悟があると、「こりゃちょっと頭がおかしいわ」ということで「性同一性障害」合格となります。
それが「ホンモノ」の女や男と比べてどうなのか、という議論は心底どうでもいいですが、例えば大金を払い痛みに耐えて豊胸手術を受けた貧乳の女の子がいたとしたら、彼女は生まれついてのオッパイおねえちゃんよりずっと「心が巨乳」だと思います。彼女こそある意味「真の巨乳」「巨乳以上に巨乳」であり、親から受け継いだ遺伝子のままにダラダラと脂肪を蓄積したホルスタイン女などより、はるかに勇敢で美しく、人生に対して積極的、とわたしには感じられます。
ちなみに豊胸手術は大変な痛みと危険を伴うもので、その苦痛を乗り越えて手にしたオッパイに対して、あたかもズルであるかのように「○○の胸は整形」などと軽く言い放つ一部ネイティヴ男子の低脳ぶりには恐れ入るものがあります。しかもそういう男に限ってツラも人格も仕事の中身も三流以下で、「アンタこそまず顔面整形してよ、よくそのブサイクさで道を歩けるね」と言いたくなりますが。
大分話がズレましたが、「外国人」としてのトランスが生まれと異なる社会で生活する上で必要となるのは、純粋なスキルです。
ドイツ人が日本語や日本の文化を学ぶのと一緒で、ビジネスルールからゴミの出し方に至るまで、ネイティヴを見よう見まねで技術を盗まないといけません。
「スキルなんかじゃない、心が・・」などと言う人は、一生ココロとかスピリットとか唱えていてください。その人の心がどれだけピュアなのかしりませんが、ヒゲの生えたオッサンがミニスカートでウロウロしていたとしたら、『彼女』の「ココロが実は女の子」と解釈される可能性は、五分後にサイレンが鳴り響いている可能性の一万分の一くらいではないかと思います。
ただのスキルですから、練習すれば誰でもあるレベルまでは到達できます。
もちろん「完全にネイティヴとイコール」になるのは至難の業ですし、一般的に言ってほぼ不可能でしょう。
ですが、日常生活に困らないレベル、仕事を普通にこなせる水準、ということであれば、要領の良し悪しは別として、やる気一つで誰にでも可能な程度でしょう。ただ、こんなアホなスキルに時間と労力を費やす人種がそもそもかなり少数派、というだけのことです。とりあえず、就職はむしろ不利になることが多いですから(笑)。
ただ、潜伏型のトランスセクシュアルの場合、日本で暮らすほとんどのドイツ人と異なり、「生まれがドイツ」ということがバレてしまうとマズイ、という前提があります。またトランスセクシュアルの性向として、ドイツのことを徹底して伏せたがる傾向もあります。
そう言う意味では、見た目で判別しにくい韓国人や中国人が日本に溶け込もうとしている状況、さらに言えば「韓国籍を捨てて」日本人に同化しようとしている情景の方が、より近しいと言えるかもしれません。
ここには一つの葛藤があります。
「日本人になろう」としたドイツ人(や韓国人)は、日本人に近づけば近づくほど、自分が決定的に日本人ではないことを思い知らされることでしょう。ただ平凡な日本人として生きたいだけなのに、埼玉出身者にくらべて釜山出身やバイエルン出身が乗り越えなければならない壁はあまりに苛烈です。
ただし、それでは彼・彼女らが「所詮はドイツ人」なのかというと、少なくとも「普通のドイツ人」では絶対にありません。極一般的なドイツ人なら、そもそもそんな犠牲を払って祖国を捨てようなどとはしませんから。
そういう意味では、トランスも外国人も、永遠に宙ぶらりん、「永遠のトランジション」を生きているわけです。
ではこれらの人々の「特殊性」は、生まれとは異なる地に向かって突き進んだその奇特ぶりにあるのでしょうか。
そこでオチをつけてしまうと、やはり欺瞞が残るでしょう。
ここから先は「外国人」の比喩がうまく機能しなくなってくるので、一旦切り離して考えていただいた方がわかりやすいかもしれませんが、トランスが「生まれの性別」に違和感を抱いて「本来の性別」に向かっているのかというと、ちょっと順序にウソがあるのではないかと思うのです。
つまり、「本来の場」と違うから「違和感」があるのではなく、むしろ「違和感」が最初にあり、その解消を目指して「本来」が措定されるのです。
もっと言ってしまえば、実はこの「違和感」はトランスだけのものではなく、誰もがうすうす感じていたはずのものです。ただ多くの人々が「違和感」を飼いならし、「多少ズレた感じでもオッケーなんだ」と馴染んでしまうのに対し、トランスは最後まで徹底して不適応で「自分はヘンなんじゃないか」「こんなに違和感があるのはどこか別の場所に『本来』があるからじゃないのか」とこだわり続けるのです。
これを「繊細」「感受性が強い」「真理から目をそらさない」ととらえるか、「不適応」「要領が悪い」「バカ正直」と解釈するか、それは見る人の価値観次第でしょう(笑)。
要するに根本にあるのは「違和感」そのものです。
「違和感」があるのは、わたしたちの誰もが本質的に「外国人」だからです。
つまり、わたしたちは誰も望んで「ココ」に出てきたわけではありません。言葉だって、やってきてから見よう見まねで覚えたのです。
決して体系的学習の用意などなく、周囲の巨大で無気味な人々の振る舞いや発声を見て「ワタシは今○○として語られている・・」という形で言語経済に果敢に参入したのです。つまり、Legal Alienとして。
しかし多くの人々は、いつの間にやらすっかり自分の異邦人性を忘れ、あたかも「生まれついての=ネイティヴ」であるかのような厚顔無恥ぶりを習得してしまうのです。
ただある種の人々は最後まで自分がAlieanであることにコダワリ続けます。
それがもしIllegalであってくれるなら、話は簡単です。「違和感」は理由十分で、その理由は合法性を司るしかるべき権力によってイヤというほど思い知らされることになりますから。
ところが、この違和感には、まるで罪がありません。
わたしたちは異邦人ではありますが、うんざりするくらいLegalなAlienなのです。
このLegalであることを盾にネイティヴとしての地位に馴染んでいくのは立派な適応ですが、一方でAlienであることからどうしても目を離せない人々がいます。
そういう人たちは理由を探します。
しかるべきオチ、こうむるべき罪状を求めるのです。
この世界に存在する代償として支払うべき代価について、キチンとそろばんを弾きたいのです。
トランスセクシュアルがその唯一の解釈、というわけではまったくありません。
逆に諸variantの一つであることにより、トランスセクシュアリティの本質はより長い射程をもったものへと読み直されるでしょう。
ただしこれは「セックスでなくてもよかった」ということを意味しません。
むしろ「何でも良さそうなものだったのに、どうしてもセックスに落ちていく」という点から、トランスセクシュアリティではなく、セックスの側を再読解していく必要があると思うのですが、これはまたの機会に。
関連記事:
「クウェンティン・クリスプと”Legal Alien” –“Englishman In New York” Sting」
追記:
最後に「またの機会に」と留保した問題について、「女性性器と傷 」というエントリを立てました。参照してみてください。