生涯女装

 「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」という本サイトの中心テクストは、当初『生涯女装』というタイトルでまとめようかと考えていました(その意味は実際のテクストに当たっていただければご理解いただけるでしょう)。
 このフレーズは、わたしの着想ではありません。
 あるブログ系サイトのタイトルにあったもので、運営者は社会的にほぼ?女性として暮らしているMtFトランスセクシュアルのようでした。
 彼女の論は実に切れ味鋭く、非常に共感を感じたのですが、わたしが見つけた時には既に更新停止状態で、連絡を付ける方法もないままwebの闇の中に消えてしまいました(もしこれをご覧になっていたら、是非一度ご連絡ください)。
 「生涯女装」。
 言うまでもなく、「女装」という言葉は「ニューハーフ」以上にMtFトランスセクシュアルの忌避するところです。「女装」という以上、男であると言っているに他ならないからです。
 わたしもこの言葉は好きではありませんし、トランジション初期に「女装」と認識されるととても悲しい気持ちになりました。一方で女装業界にお世話になっていたこともありますから、「女装者」と言われる人々の中には、いわゆるトランスセクシュアルにかなり親和的な人物も多く見られることを知っています。それどころか、TS、あるいは「性同一性障害のひと」を自認する人々より余程率直で理性があり、自然な「女」としか思えない方も少なくありませんでした(一方でただの「プレイ」派なオジサマもたくさんいらっしゃいましたがw)。
 そんな「女装」とうい語を敢えてタイトルに冠し、非常にリアルで聡明な言葉をつづる彼女のサイトは、とても魅力的に見えました。「生涯女装」。なんと含蓄に満ち、悲哀と覚悟の込められた逆説でしょうか。
 たった四文字でわたしの感じていたトランスセクシュアリティに関する疑問や憤り、そして愛着と執念を表してくれていました。
 「真夜中のトランス」の最終項「女装する女–名もなきモノへ」は彼女へのリスペクトとを込めたオマージュとして綴りました。
 「生涯女装」は、単に「どんなにあがいても一生ニセモノ」という卑屈な心境を表しているだけではありません。
 MtFトランスセクシュアルの多くにこの子供じみた心理が多少なりともあることは間違いないでしょうし(わたしにもあります)、さらに「性同一性障害」という語ともなれば「かわいそうな人」一色ですが、一方でこの語には、「文句あるのか」という良い意味での潔い開き直り、そして「生涯女装だからこそ強く美しい」という誇りすら感じられます。
 安易な「トランス至上主義」は、結局のところ良きにつけ悪しきにつけ自分を特別なものとして位置づけることであり、「かわいそうな性同一性障害者」の裏返しにすぎません。それに無自覚なら幼児的に過ぎますが、わかってなお半ば自嘲を込めつつそこにプライドを賭けるなら、悪くない「侠の生き様」だと思います。
 結局「任侠ニューハーフ」で語ったような論点に戻ってしまうのですが(この辺りについての詳しい理論的背景は「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」を参照してください)、さらにこの「ケジメ」論を延長すると、実に恐ろしい着想にも至ります。
 これまた現在の性同一性障害治療とはまったくすりあわず、多くの当事者の心理とも相違すると思われるので、個人的暴言として認識していただきたいですが、SRSには刺青に似たところがあります。
 自ら「傷」を負うことで、「何かの欠如によって『完全さ』を得る」のです。この視点は政治的TSがいかにも糾弾しそうな文化人類学的観点や精神分析学的解釈に通じるところがあり、今こうして筆を取りながらも戦々恐々としているのですが(笑)、一面の真理を言い当ててはいるように思います。
 刺青を入れたからといって、自分の本性が決定付けられるわけではありません。何も決着はつきません。
 それどころか、名前を彫った恋人と別れて激しい後悔を迫られるかもしれません。
 でも刺青を入れたいのです。
 激痛に耐えながら、「取り返しのつかない傷」を刻印したいのです。
 それはちぎれてバラバラになってしまいそうな心身をこの世界につなぎとめておくための碇のようにも見えます。
 「わたしがいなくなってしまっても、わたしがわたしであることがわかるように」。
 腐乱死体の身元を確かめるときの歯科治療痕のようなエロティシズムが刺青にはあります。
 まったく暴論ですが、SRSにも類似した愚劣さと美しさがあります。
 さらに言ってしまえば、それが刺青の変形版だったとしても構わないではないですか。
 刺青は美しいです。SRSは美しいです。それは人の生死の際を表しているからです。
 「そんな趣味のようなことで戸籍変更の法改正を許せるか」と言われるかもしれません。
 しかし「趣味のような」根拠も冷静さもないことで回っているのが世の中なのですよ。そういう「良識派」の行動が、いかに数千の趣味と好悪によって方向付けられていることか、一度鏡というものをご覧に入れたいです。
 ついでに戸籍の話をするなら、そもそもこの制度自体どこかの権力者の都合良く作られた究極の趣味でしょう(悪趣味と言うべきかな?)。市井の趣味との違いがあるとしたら、それが既に力を持っていて、なくなったりコロコロ変わったりすると多くの人に動揺を与えかねない、ということでしょう。これは決して小さな影響ではないですし、「何の根拠もないけれどとにかくデファクトスタンダードであることの価値」は認めます。ですが、それ以上の特別な意味も価値もそこにはありません。
 命の危険を冒し、社会生活を犠牲にしてまで健康な身体にメスを入れる。しかもそんなものはただの「趣味」かもしれない。なるほど愚劣です。
 唯一つ言えるのは、今わたしの心に、SRSについての迷いなど一片もないということです。
 わたしもそんな大バカ者の一人ですから。

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