「純粋な身体」とGID

 『「女の身体」をめぐっては、それを本質化したいセクシスト、それを解放の根拠にしたいフェミニスト、それを獲得したいMtFが、「純粋な身体」という人類未踏の高峰に向かって、我先にと駆け上っているようだ』。
 翻訳を担当させて頂いたパトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ』に寄せられた竹村和子先生の『「セックス・チェンジズ」は性転換でも、性別適合でもない」』の一節です(p582)。このような慧眼を備えた先生がこの本に解説を寄せるには色々と複雑なお考えがあったことだろうと思います。わたし自身が正に「純粋な身体」を巡る「愚行」の最たるものたるSRSを終えた今、改めてこの問題を整理してみたいです。
 まず、何らかの形で「純粋な身体」の想定がなければ、トランスセクシュアリティは成立しません。
 「純粋」という語が極端過ぎるなら、よくFtM業界などで使われる「正しい身体」でも良いでしょう。とにかく「自分にふさわしい普通の身体」のことです。
 トランスセクシュアル(いわゆるGID当事者)とは、自らの身体に強い違和感を抱き、生まれと反対の性別に同一感を抱くものである、とされています。ここで希求されるのが「ふさわしい正しい身体」です。
 実際に行われる「治療」には様々な程度があり、各当事者が最終的に落ち着く身体の状態も多様でしょう。また必ずしも「希望の性別」との同化を望まず、「トランスジェンダー」としてのアイデンティティを尊重する生き方もある得ます。しかしいずれの場合でも、少なくとも「純粋な身体」の想定があります。これに対してどのようなスタンスを取るかとは別に、「生まれと反対の性別」の身体イメージがあるはずです。
 しかし何度も指摘しているように、いかなる医療技術を駆使したとしても、完全な「希望の性別」の身体を手に入れることはできません。これには技術的限界という側面もありますが、より重要なこととして、そもそも「純粋な身体」などというものはどこにも存在しないからです。それゆえ、トランスセクシュアルはどこまでもトランスセクシュアルでしかありません(まったく悟られずに希望の性別で社会生活を行うこと自体は十分可能ですが、それとは別問題です)。
 一方で、逆説的にも、この「純粋な身体」の無さにこそ、トランスセクシュアルが望む性別として生きる希望があるとも言えます。わたし自身がカムしている親しい女友達に言われて非常に心安らいだ言葉に「色んな形の女がいるからね」というものがあります。(MtFの場合)「女」と一口に言っても骨格や肉付きなど実に多様であるのは言うまでもありません。「純粋な身体」がどこにもないからこそ、「これでも女」という地位にたどり着けるのです。
 すると奇妙なことになります。
 「純粋な身体」の無さゆえに永遠にトランスセクシュアルでしかない当事者が、同じ欠如によって希望の性別の地位を獲得できる、というのは、明白な矛盾であるように見えます。
 話を簡潔にするため、例によってMtFに限局して「女」の話にしてしまいますが、こうした見た目の矛盾が発生するのは、最終的に「女」というものが一切の中身を持たないただの空っぽの容器だからです。これについては真夜中のトランス(前編 後編)に詳述したので是非そちらを参照していただきたいですが、強引にまとめてみると、
1 「女であること」は「女らしさ」とは違う(フェミニストの議論を待たずとも、女らしい女も女らしくない女もいる)。
2 MtFが「女」を主張する以上、それは染色体の性別とも異なる(もとよりMtFの求める「女の身体」はかなり社会的に規定されたものだが・・)。
3 つまり、「女であること」は生物学的・器質的要素にも、社会文化的・言語的要素にも還元できない。
4 「女であること」は中身を持たない存在論的な器自体、「名」である。
 『セックス・チェンジズ』には、染色体上の性別や生活史の違いによりMtFを排除しようとした「フェミニスト」ジャニス・レイモンドについての記述がありますが、彼女は正にこの主張自体によって、自らの礎であったはずの社会構築主義的立場を否定する結果となってしまっています。「女らしさ」がセクシストの捏造であり、それを否定してなお「女」を言えるとすれば、その「女」とは一切の属性を剥ぎ取られてなお「女」というような、絶対零度の「女」であるはずです。かつてそれが染色体などと同一視されたのかもしれませんが、誰も自らの染色体に基づいて「女」を主張しておらず、また「色々な女がいる」と訴える以上、「女」そのものは何ら条件を持ち得ないのです。
 性同一性障害(GID)の文脈では、フェミニズム的な社会構築主義と対立し、脳の性分化を根拠に「本当の性別」を考える向きもありますが、実はそんなものは必要ありません。必要ないというより、あったとしても役に立たないのです。なぜなら、究極的な「女」とは名前にすぎず、一方で名前こそが絶対的な差異そのものだからです。
 「そんなものは詭弁だ、現実に社会で生きていくためには何らかの根拠を示して希望の性別としての地位を獲得しなければならないんだ」と言われるかもれしれません。その通りです。実際、わたし自身も社会生活上はありきたりのGID言説に頼って生きていますし、サバイバル条件として重要性には一片の異論もありません。しかし逆に言えば、これは生存のための策術であって、わたしたちを駆動しているもう一つの現実の実態とは異なります。「こうなってしまった以上」、どのような理屈を振りかざしても生き抜かなければなりませんが(少なくともわたしはそうします)、「なぜこうなったのか」「なぜこう生まれてきたのか」は別の問題です。
 MtFが「女」であるとしたら、それはSRSを経たからでも「ジェンダー・アイデンティティ」が女だからでも、脳が女性として分化しているからでも、まして戸籍を女に変更できたからでもありません。女であるものは端的に女であるだけです。これの丁度対偶にあたるのが、同じく『「セックス・チェンジズ」は性転換でも、性別適合でもない」』にある「すべての人はトランスセクシュアル」という表現でしょう。
 では結論として、わたしたちは「純粋な身体」という幻想を手放すべきなのでしょうか。わたしはそうは思っていません。
 もちろん「純粋な身体」は存在しないし、それを女に求めるセクシストにもMtFトランスセクシュアルにも、失敗が約束されています。しかしだからこそわたしたちは「純粋な身体」の幻想とその希求を手放すべきではない、と考えます。なぜなら性とは人間が失敗すること自体だからです。
 性とはある切断線、完全さが分割されていることそのものですが、この分割は「純粋な身体」の想定と表裏一体です。わたしたちが「ちゃんとした出来損ない」になるためには、少なくとも一定期間「純粋な身体」と格闘する季節が必要なのです。
 おそらくはこの「季節」こそが、GIDと呼ばれているものの核心でしょう。最近「元GID」という表現を耳にするようになりましたが、一度GIDになって「治癒」するというのは、必ずしも「希望の性別」の身体や社会生活を獲得することではありません。第一に、そのような方法を取らないでも一定の精神的安寧を得る場合があること、第二に「治療」も万能ではない以上、「獲得」されるものにも限界があり、結局「治癒」のためにはどこかで手を打つ必要があるからです。さらに言えば、この第一と第二はほとんど一緒のことで、要するに「もがくだけもがいて、共生のポイントを見つける」としか言いようがないのです。
 「それなら最初から諦めればよい」などという理屈が通らないのは当然で、やはりわたしたちにはどうしても受け入れがたい何かが存在します。現象としてのGIDは実在します(それが病因論的概念ではない、というだけで)。「諦めろ」などというのは、「死ぬくらいなら生まれてこない方が良かった」というくらい愚劣な議論です。
 だからもがきます。苦しみます。完全が不可能と知ってなお、奇形をより深くするだけかもしれない治療のために命を削ります。
 この過程で常に基調低音として響いているのが「純粋な身体」です。
 これは幻想であり、どこにも存在しないばかりか、場合によっては単なるセクシストの捏造物かもしれない馬鹿げたイメージです。ですが、そんなことはフェミニストに言われないでも知っているのです。
 そこで出来上がるのが男なのか女なのか、あるいは生まれついたのが(染色体に基づき)男なのか、(「ジェンダー・アイデンティティ」に依拠し)女なのか、それは一概には談じられません。ただ言えるのは、この愚昧を知ってなお進むものとして、わたしが生まれついた、ということです。
 多分、わたしは男に生まれたのでも女に生まれたのでもないでしょう。
 男に生まれ「GID」なる現象を見せ、女に似た身体と女の社会生活を獲得し、それをもって「GIDの治癒」とする者、そのような者として生まれ、死ぬのです。
 墓標に刻まれる名など知らないし、興味もありません。

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