トラニーチェイサーの謎 1/2

 トラニーチェイサーについて少し考えてみます。
 「トランス好き」の男性のことで、業種によっては「ニューハーフ好き」「女装娘好き」などと言われている人々です。以前はMtF独自の現象なのかと思っていたのですが、「FtM業界におけるトラニーチェイサーとは」で呼びかけてみたところ、似たようなポジションの人々というのがFtMにとっても存在するようです(もちろん、対称形にはできていないでしょうが)。ここでは、わたしの個人的な知識の問題から、MtFにとってのトラニーチェイサーに話を限定しておきます。

 トラニーチェイサーの存在が興味深いのは、「トランスの含む二律背反と恋愛」「乙女心は染色体を越える」「『認められない』ことの価値を認める」などで再三にわたり取り上げてきたように、トランスはトランスでありたいわけではないのに、究極的にはトランスであり続けるより他にない、という矛盾を抱えているからです。自らの身体を受け入れ難く感じはするものの、同時に完全にネイティヴとイコールになることはあり得ませんから、何らかの形でやはり「渋々ながら受け入れる」オチの付けどころをわきまえないと、「不幸」のスパイラルに陥りかねません。とりわけ、ポストオペのカウンセリングなどではもっと重視されて良い問題です。
 これを考えるとき、トランスであることを逆に評価するトラニーチェイサーの存在は、なかなかに興味深いものがあります。ことわっておきますが、ここでトラニーチェイサーの存在を肯定的に見よう、というのではまったくありません。MtFで言えば、「トランスであること」がプラス評価の対象になるということは、ほとんど「男であること」を認められているようなもので、不快極まりないのが基本です。実際、わたし自身、トラニーチェイサーとはなるべく関わり合いになりたくありませんし、自分の存在を全否定されているような気持ちにすらなります。はっきり言えば、この世で最も憎悪している対象です(すべてのトラニーチェイサーが人格的に問題である、という意味ではありません。また「ストライクゾーンの狭すぎる同性愛」で触れたように、わたしの方こそトラニーチェイサーなのかもしれませんが笑)。
 そもそも、「違和感と折り合いをつける」などということがあっさり達成できるなら、トランスセクシュアルなどという存在はそもそもあり得ません。どうにも我慢ならないからこそトランスなのです。正にここにこそ絶対矛盾があるのですが、だからこそ、その矛盾をわかりやすく体現しているトラニーチェイサーという存在には一考の価値があるのです。
 なお、この「身体との関係」という問題は、性暴力被害者における身体の肯定評価ともリンケージするように思われます。これについては、「性的虐待を受けた人のポジティヴ・セックス・ガイド」「誰のせいなのか、誰かのせいなのか」で取り上げていますので、興味のある方は参照してみて下さい。
 トラニーチェイサーにもいくつかのタイプがあります。ほとんどの人は「女好き」つまり異性愛者を公言していて、トランスは女性扱いという考え方をしています(ここでの「トランス」には女装者からポストオペ・トランスセクシュアルまでの幅広い人々が含まれます)。「身体も女性に近付けている手術済みニューハーフがいい」という人と「ニューハーフは仕事で女らしさを使ってしまっているから、女装している時間に『女』を賭けている女装者がいい」という人がいます。ニューハーフ業界一般について言えば、いわゆる「アリアリ」、つまりプレオペの方が「商品価値」が高い傾向にあります。
 いずれにせよ言えるのは、普通の男性以上に「女の中の女」を求めている、ということです。その追求の仕方として、「身体的完成度」の方に行くか、「気持ち」を重視するか、というヴァリエーションがあるだけです。これほどまでに〈女〉を追求するようになった経緯を見ると、これも大きく二通りあります。
 一つは「女遊びは一通りやって飽きてしまったけれど、男に行くのもどうしたものか」という遍歴の末、トランスにターゲットを絞ってきている人です。個人的に「Jターン」と呼んでいます(笑)。世の中をよく知っている人生経験豊富な方たちです。もう一つは「女にモテないので女装者に走っている」というタイプです。当然、少し面白味に欠けた方たちです。ただし「モテない」と一口に言っても、本当に相手にされない人もあれば、女性に対する幻想が激しすぎて生身の女に耐えられない場合もあります。いささか人格的に問題のある人も少なくなく、「患者さん」という隠語もあるくらいです。「Jターン」と「モテない派」に共通しているのは、女に対する幻想と期待が激しい点です。
 これがさらに極まると、「男も女もダメで、トランスしか受け付けない」という純粋トラニーチェイサーに到達します。当然ながら、一番熱心にトランスにアプローチしてくる人たちです。昔は女と付き合っていたけれど色々な経緯でトランスしか愛せなくなった人、さらに一度も女とおつき合いしたことがなくトランスまっしぐらな方、とにかくトランスしか眼中にない人たちです。
 彼らの心理として確実に言えるのは、多少なりとも自分自身にトランス願望があるということです。「年齢的に自分がするのは厳しいから」という名誉の撤退を決意してトラニーチェイサーに徹している人もいます。トラニーチェイサーとトランスは男と女の関係ですが、人間のタイプとしてはかなり似通っているのです。程度の差やスタンスに大きな違いがありますが、共に「男が女になる」ということの周りを回っているのであって、落ち着くポジションが反対なだけです。
 ちなみにわたしは、「女装娘になるか女装娘好きのオヤジになるか迷って、才能があるので女装した」というすごい発言をされる方に会ったことがあります。言葉通り、まったく女にしか見えないレベルの高い自称「女装者」でした(実際は「女装」という言葉から連想されるような浅い気持ちの方ではないと思われます)。
 こうして眺めてみると、トラニーチェイサーというのは「男と女の間」を追求したりしているのでは決してなく、女のさらに向こう、「女以上の女」を求めていることがわかります。現実の女ではあり得ないレベルまで〈女〉であるような存在、それがファンタジーの中核にあるのです。実際、トランス業界界隈の男性で「男しかダメ」という人はまず見当たりません。そういう人はゲイという別の世界に属しているのです。
 一般の方、とりわけネイティヴの女性は誤解されていることが多いのですが、トランスとトラニーチェイサーの関係は、同性愛の世界とはかなり異質のものです。トランス業界での恋愛モデルは、基本的にヘテロを模したものです。少なくとも自分を「ホモ」として認識している人はほとんど見かけません。同性愛者呼ばわりされると怒り出す人すらいます。「女の中の女」を追求するものが、男性同性愛と等しいわけがないのです。
 ネイティヴの女性がこの辺りを誤解されるのは、「異性の同性愛は美しく見える」という一般的傾向があるためでしょう。自分と同性の側について考えてみればわかりますが、同性愛嫌悪の刷り込みというのは、相当に根の深いものです。異性に関しては「トランスでも同性愛でもどっちでもいいじゃない」と思えても、いざ自分が関わるとなると激しく峻別しようとする防衛が働くのです。かつてのフェミニストたちによる中傷ではないですが、トランスには同性愛嫌悪の一変種としての面がある可能性も否定し切れません。
 また、極めて完成度の高いトランスに関して言えば、そもそも同性愛などという認識が成り立ち得ない場合もあります。ネイティヴ女性であれば、偶然出会った男性と恋に落ち、ある日その人が戸籍上女性であると判明した状況を想像してみて下さい。相手が戸籍上同性であるとわかっても、自分のことを「実はレズビアンだった」とは考えないでしょう。実際、それくらい「見分けのつかない」トランス(この場合はFtM)は掃いて捨てるほどいます。
 ただし、これはトランスのパートナーとなるネイティヴに関してだけ断定できることであり、トランス自身の心の内は、もう少し微妙な場合が多くなります。つまり、「男性としておつき合いしていた相手が戸籍上女性だった」とわかったネイティヴが今さら自分を同性愛者として認識することはあり得ませんが、トランス当事者の側は最初からこの関係の複雑さを了解しているのです。性自認・性対象に関する一通りの知識を持っていて、明白にTS的スタンスをとっていたとしても、依然としてネイティヴとイコールではないですし、何か「欺いている」気持ちは残るはずです。この辺りの微妙な心情については、ここでは割愛します。
(つづく)

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