トランス業界は経歴詐称のオンパレードです。
といっても一概に悪く言っているのでもなければ、彼/彼女らが単に虚勢を張っているというのでもありません。
GID自体が操作概念のため、診断に合致しようとするトランスセクシュアルはどうしても自分史を多少ねじ曲げる傾向があります。
もちろん、中には「絵に描いたようなGID」という方もいらっしゃるでしょうが、トランスセクシュアルもいろいろです。あまりそぐわない発言をして「アンタただの女装」とか言われてお薬がもらえなくなると困りますから、多少の演出も入るというものです。パット・カリフィアはその様子を「メサドンをもらうためには何と言ったら良いか知っているヘロイン中毒者のよう」と表現していますが、言い得て妙です。
大体「GIDくさい」とされるエピソードが貧相です。自分史の提出の時気張って書きすぎて「これじゃ多すぎる! GIDに関するものだけにして」と突き返されたワタクシは「どんなのがGIDに関係するのですか?」と質問したのですが、返ってきた答えは「赤いランドセルがよかったとか」というものでした。
……それって、単に赤が好きな人じゃないんですか?
幼稚園の時、男の子はドッヂボール、女の子は砂場、というのが定番でした。わたしはドッヂボールが死ぬほど嫌いで、ずっと女の子と一緒に砂場で遊んでいました。でも「女だから砂で遊ぶ」などと考えていたわけではありません。単に砂遊びが好きだっただけです。乱暴な言い方をしてしまえば、ものは言いようです。
「言い方による演出」や「過去のねじ曲げ」に対し、”生き方としてのトランスジェンダー”派は憤るかもしれません。カリフィアの論にも似たところがあります。「卑屈になるな」「病気化を許すな」ということでしょう。
ですが、「GIDの真贋問題」でも触れたように、そもそもGIDなどただの操作概念に過ぎません。病気の名にも値しないものです。本気になって過去を変えたり深刻さを訴えるのも哀れですが、バカ正直に「正しい」過去にこだわる必要もありません。たかだが性別を変えるだけのことで、そんなに気張って真正直になることはありません。
大体、「本当の自分史」などが解釈から独立して存在するわけがありません。もっと言ってしまえば、「過去は変えられない」などという信念が既に妄想です。これはトランス業界に限らないことで、過去の物語とは解釈の時点においてこそ句読点が打たれて完結するのです。
「過ぎ去ったことは忘れて未来を自分の手でつかみ取るのだ!」などとハリウッドくさい幻想に浸ってポジティヴに生きちゃったりするくらいなら、過去こそ変える方が美しいです。未来のことはさておいて、過去をつかみ取りましょう。
常々思いますが、トランス業界全般にユーモアと美意識が低すぎます。TSも社会運動系もポエジーが全然感じられません。一部女装系には多少「見られる」部分もありますが、ほとんどが醜悪の極みです。ゲイの世界の方がずっと面白いです。
せっかく「一つしかない」過去なのですから、1クール毎くらいにリニューアルしましょうよ。
『パブリック・セックス』 パット・カリフィア 青土社 2,940円