トラニーチェイサーの謎 2/2

 トラニーチェイサーの中には「女嫌い」を公言される方がいらっしゃいます。ネイティヴの女性を受け付けず、トランスだけを対象している場合です。ただしゲイという意味ではなく、あくまでも女、ただしネイティヴではないトランスを好んでいるのです。
 トラニーチェイサーがトランスに向かって「女嫌い」と言うときは、「ネイティヴではなくトランスなあなたが良いのだ」とポジティヴな意味を含んでいます。しかし、トランスから見るとなかなか複雑な一面があります。

 女装と割り切っている場合はともかく、少なくともTSカルチャーにおいては、MtFは紛れもなく女です。自分を女だと感じている人に向かって「女は嫌いだけどあなたは良い」と言うとしたら、それは「お前は女じゃない」と同じことで、いささか無神経な話です。
 加えて、もしもこの世に「女嫌い」がいるとしたら、果たしてMtFほど暗い心情を抱え得る存在が他にあるでしょうか。大抵のトランスの心には、ネイティヴの女に対する憧れと同時に、羨望とでも言うべき嫌らしい感情があるはずです。もちろん、これはただのやっかみですから、そのまま表出してしまっては、トランス以前に人として問題です。まともなトランスであれば、羨む気持ちを少しはかかえながらも、乗り越え肯定的にものを見ようと努力しています。そんなトランスに対して安全な場所から「女は嫌いだ」などと公言し、その上トランスを口説き落とそうというのですから、少し想像力に乏しいと思われても仕方ないでしょう。
 「女嫌い」を口にするトラニーチェイサーの中には、「トランスは努力しているから好きだ。女は怠けているから嫌い」という人がいます。確かに、少なくないトランスが、ネイティヴの倍ほども「女であること」に身を削っています。
 ですが、まず第一に、ネイティヴの女とはいえ、何もせずに「イイ女」になれるわけではありません。鈍い男たちが気付いていないところで、凄まじい努力をしているものなのです。〈女〉とは作るものです。女自身が無意識に演じてしまうほど深く刷り込まれていることがあるだけで、あくまでも人工的な構築物です。気付かないのは鈍い男性だけです。
 第二に彼らが「怠けている女」を嫌うのは「怠けていながらこんなに自分を魅了してしまう女が憎い」からです。つまり根底にあるのは「女好き」です。彼らを魅了する魅力とは、実は男性自身が勝手に付与したものです。トランスについてなら、自分たちと同じ地位から出発していることから、自分の魅了され方に対し相応の犠牲を払っていると納得できるのです。
 最後に、トランスが「頑張って」いるのは、彼らの「大嫌い」な女になるためです。いささか矛盾を見ないわけにはいきません。
 「女嫌い」を自称したとしても、彼らの求めているものは一貫して「女以上の女」です。あんまり女が好きすぎて普通のネイティヴでは満足できず、〈女〉に向かって特別な「頑張り」をみせるトランスに惹かれているのです。皮肉な言い方をすれば、ネイティヴの必ずしも女らしくないことに耐えられず、徹底して「幻想のオンナノコ」を追求しているのです。
 「幻想のオンナノコ」を求めること自体を否定しようというのではありません。ファンタジー自体は誰でも持っているものであり、女の側としても「幻想のオンナノコ」を積極的に演じる場合があります。両者のバランスが取れているなら、ファンタジーの一つや二つあるのは健全な恋愛です。ですが、相手の立場を踏み倒して思い込んでしまったら、それはファンタジーというよりただの妄想です。その相手が女であろうがトランスであろうが、一方的な押しつけととられて拒絶されるのが当然でしょう。
 もちろん、この妄想をお金を払って職業ニューハーフに実現してもらうなら問題ありません。ニューハーフではなく普通の水商売の女性に貢ぐのでも一緒です。きちんと契約成立しています。貢ぐ心理の中には「仕事なんだろうけど、少しは本気もあるんじゃないか」という夢があるのは当然ですが、その夢に対してお金という形で代償を支払うのは、立派な大人の態度です。逆に言えば、犠牲も払わず妄想を振り回せると思ったら大間違いです。
 また、一見すると「女嫌い」とは反対のタイプに「男とか女とか、細かいことはやめようよ」という方がいます。「寛容な社会」の一助となろうという、なかなか見上げた人たちです。当事者に対してこういった声をかけるのは、気をつかってあげているのかもしれません。世の中がこんな人ばかりだったら、トランスにとっては生き易くなることでしょう。
 ですが、現実は違うのです。理想の社会がどうであれ、とにかく世の中の大勢は「男/女」でできています。卑近な例では、履歴書には丸をつける欄があり、トイレは二種類しかないのが実状です。まったくの些末事ではありますが、とにかく当事者は今日も電車に乗って会社に行くのであって、お題目を唱えて世の中が変わってくれるのを待っている余裕などありません。仮に本人が「男とか女とか決めつけたくない」と考えていたとしても、社会的にはどちらかの性で生きざるを得ません。そして一つに決めたなら、徹底してそれを通さなければ、生活もままならないでしょう。
 そんな現実に向き合わないまま「どうでもいいじゃないか」などと安全圏でリベラルぶっても、説得力に欠けていると言わざるを得ません。「わたしは進歩的精神の持ち主ですよ」という、望まれてもいない報告を一方的に押し付ける結果になっています。
 「どうでもいいじゃないか」派のトラニーチェイサーは、そう言いながらも実は女のことだけを考えているのです。「女好き」でも「女嫌い」でも、断言してしまうとトランスを特別に評価する理由がなくなってしまいます。「女好き」に好かれればトランスは喜ぶでしょうが、女好きが高じてトランス好きに転じているとしたら、ある意味彼女たちの自然な「女ぶり」を否定していることになります。「女嫌い」は尚更です。「どうでもいいじゃないか」とすることで、トランスを「トランスだから」と評価する道筋を立てているわけです。実際、彼らが「純男」を対象とする、つまり通常のゲイとしての関係性を結んだ話など聞いたことがありません。彼らもまた、「女以上の女」を求める一ヴァリアントなのです。
 こうして見てみると、トラニーチェイサーはいかにもMtFの幼児的面を反映しているようです。たからといって、トラニーチェイサーのありようを全否定しているわけではありません。〈女〉を求めてやまないこと自体が罪のわけはありませんし、人の欲望など一皮剥けば誰でもこの程度です。
 また、翻って、MtFの幼児性自体を思考する契機として、有効に活用することもできます。
 恐ろしいことですが、おそらくは、トランス自身にも「女以上の女」であろうとしている面があるのではないかと思われます。これが恒久的に続くということは考えにくいですが、少なくともトランジションの一時期に「超人的」高揚感を覚えたトランスセクシュアル/トランスジェンダーは少なくないはずです(わたしには身に覚えがあります)。正に一時期フェミニストから加えられていた中傷通りなのですが、単なる事実として、そういった心情もなくはない、という程度は認めても構わないはずです(言うまでもなく、ここにトランス現象を還元することなどはできません。長期的視野に立て場、トランジションという不安定な状態を乗り切るための防衛反応、と理解する方が妥当でしょう)。
 更に言えば、トランスには、普通の女であるよりも期せずして「女以上の女」になってしまうことがあるのです。わかりやすい戯画的な例えとしては「女以上に女らしい」職業ニューハーフを想起してみれば良いでしょう。仕事上の演出もありますが、人格的にもすっかり刷り込まれているケースがままあります。
 要するに、「女以上の女」というのは「普通の女」よりイージーなのです。トランジション初期におけるジェンダー・バイアスには、これがわかりやすく表れています。
 加えて、トランスの二律背反を解く一つの鍵になると思われる恋愛自体、どこか幼児性の拭えないものです。この場所に留まることは許されませんが、何らかの形で、こういった耽溺を人生の一部に取り入れることは、人としてのバランスを考える上でも有効であると思われます。
 トラニーチェイサー当事者にとっては辛辣な内容が多くなってしまいましたが、今後も彼らのありようについては、観察していく価値があると思っています。

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