「くたばれジェンダーフリー」でかなり乱暴なことを書いてしまったので、少しだけ捕足しておきます。
「多様な性」という能書きを否定したからと言って、MtFがネイティヴの女性とイコールになれるなど考えているわけでは全くありません。
主張の要諦は、「二分的な分節構造を徹底すると、その枠組みに納まらないものが結果的に産出されてしまう」ということです。その結果の部分だけ見ると「多様な性」と言いたくなりますし、実際そういうスタンスを主張しておかないと世渡りが厳しいのも事実です。ですが、「多様」な現象が現前するからといって、「初めに多様な性ありき」というわけではありません。この現象を導いたのは、「多様」などでは決してない、非常にシンプルな言語的構造です。一本の線が引かれる、という、「A/non A」の関係です。この単純さを極めたはずの場所から、さっぱりワケのわからないものが出てきてしまっている、といういのがトランスという現象なのです。
この状況を正確に理解しようとすれば、「多様性」よりはむしろ「納まらなさ」「失敗」という観点の方が展望があるはずです。出来上がったものだけ見て「性はグラデーション」など言うのではなく、生成のダイナミズムと非整合性にこそ注目すべきなのです。「色々な人がいる」などと言ったところでミもフタもありません。また、言うまでもなく生物学的還元論では話になりません(それが「原因」として与しているにしても)。
「世渡り」というのは万人にとって重要な課題ですから、「ジェンダーフリー」という武器も決して無意味ではありません。ただ、どうやらわたしという人間は二重に「失敗作」らしく、そもそもの始まりは何だったのか、気になってしまって仕方がないのです。
率直に言って、「MtFがネイティヴと同格になれる」などという発想は、かなり最近まで、本気で信じられる人が世の中にいるとも思えませんでした。現実には「女の仲間入り」気分で浮かれているMtFが存在し、しかも決して少数派ではありません。
某女史と話していると、「いかに自分がネイティヴ女性に受けいられれているか」を喜々として語るMtFが沢山いるようですが、はっきり言えばバカ丸出し、しかも男のバカさ加減がスパークしています。「性転換」の時も書きましたが、一見「仲間入り歓迎」に見える態度も女社会の力動から出ているものがほとんどですし、基本的には「変わったヒト」、さらに言えば「変わった男」を面白がっているだけだと思っておいたほうが身の為でしょう。
ついでながら、「女」の仲間入りをして「女らしく」をやたらに強調するMtFというのも理解に苦しみます。
わたしがネイティヴについて一番うらやましいのは、「男らしく」できる点です。彼女たちはいくら「男らしく」振舞ったところで、男と間違えられることはありません。自分個人について言えば、現在に至まであらゆる面で「女」技術を研鑽していっているのも 逆説的ですが「男らしく」したいからです。正確には、自分の「男の部分」を過度に隠したくないからこそ、「紛れもなく女」と認識される技術を磨いているのです。
お昼ご飯を誘いあって食べてワキャワキャしている女子文化には反吐が出そうですし、わたしと友達になったネイティヴはみな、そういう女子社会に不適応だった方ばかりです。これは美意識の問題なので一般化しようとは思いませんが、危険を承知で単独行動できるのでなければ、男でも女でも値打ちゼロだと信じています。はっきり言って原則として女嫌いです。
また、MtFには「女といる方がリラックスする」という人がいます。確かに、本当に仲良くなった女友達といると、実にテキトーというか、「素」になれます。スッピンを見せられるのもコイツらくらいのものです。「最もリラックスする相手」ということでは、極少数の「侠気」な女友達になるでしょう。
ですが、一定以上の距離がある場合について言えば、どこをどう考えても対男の方が楽です。世の中、なんだかんだ言っても異性には甘いものですし、MtFにとっては、非常に楽をして自分の「女」を実感できる手段でもあります。
「オモイツキ」でも書いていますが、「女であること」と「女らしいこと」は全く別問題です。「女らしさ」を百万集めても「女」にはなりません。実際の女性が必ずしも「女らしい」人ばかりでないのは、周囲を見渡せば自明でしょう(では「女とは何か」という深遠な問いが開きますが、深すぎるのでここでは保留)。
MtFの中には滑稽なまでに「女らしさ」モデルを模倣する人が存在します。確かに「不馴れ」な一時期バイアスが振れ過ぎてしまうのは、よく理解できます。ですが、試行錯誤の粋を越えて「女らしさ」に拘泥しているとすれば、これまた逆説的にも「男っぷり」を露呈していることになります。なぜなら、究極的には「女らしさ」とは男の幻想だからです。「女らしさ」の結晶が男の中からしか生まれないのは、職業ニューハーフを想起すれば容易に理解できるでしょう。
ちなみに、こんなことは少なからぬ女性にとって実に簡単な理屈と映るはずです。正確に言語化できていなかったとしても、女性としての境位を生きていれば、イヤでも思い知らされる構造だからです。この点に限って言えば、鈍いのは男だけです。
もしも「女である」ことが「典型的に女らしい」ことなのだとしたら、わたしは女として生きたくなどありません。求めるのは、「ちなみに性別は女です」という「女」です。普通の人間は自分の性別のことでクヨクヨ考えたりしません。そんなアホなことに脳を浪費しているのはトランスだけです。考えないで生きられる性、それは「ちなみに」程度のものなのです(ただし、おわかりのように、この「女」は「女らしい女」より技術的に遥かに高度です)。
トランスは自分にとって生涯の課題でしょうし、性についての諸問題を脳から追放できる日が来るとは思いません。ですが、そんなことばっかり気にしていては日常生活が実に窮屈です。実際、振り回されてばかりの毎日で、まったくもって気苦労が絶えません。そういう意味で、「性別? とりあえず女ってコトで」とさっさと片付けておきたいのが本音です。
可能な限り戸籍上の性別を隠したくはありませんが、ある程度の理解を共有できる関係でない限り、面倒なので「女ってコトで」通しておきたいのです。周囲の人間も、大抵はそんなことに興味がありません。
こうなると、一周回って「ジェンダーフリーを言わないこと」が、社会生活上の便利に一致する局面すらあります。ただし、かなりどうでもいい関係についてだけの話ですから、この点をあまり強調する必要はないでしょう。
まったくの余談ですが、最近の個人的オモシロ宿題は、「男っぽいセリフを女が言う時の発声」だったりします(笑)。ガサツなようで、実はイントネーションからして男とは違うことが最近わかってきました。
「女として自然にこなしたい」最終目標のセリフは、「オレの女になれよ」です(笑)。
補遺:こんなことばかり書いているので、時々わたしが文字通りに「男らしさ」を追求しているのだと思ってしまう方がおられますが、そういう意味ではありません。「男女に関わらず持っている男の部分、女の部分を、なるべくリラックスして出していきたい」ということです。
えーとですね、自分で書くと果てしなくウソくさいのですが、意外と女らしいですよ、イシクラさんは(笑)。
実際にどうなのかは、会ったことのある人にでも聞いてください。