トランスジェンダー/トランスセクシュアルとフェミニズム

 トランスとフェミニズムについてメモしておきます。
 「性」を巡る語らいであり、しかもセクシュアリティというよりはジェンダーを問うものとして、トランスとフェミニズムには何か関わりがありそうです。実際、フェミニズムによって構築されてきた理論には、レズビアン/ゲイ・スタディーズと並んで学ぶべきところが多くあります。しかし少し考えてみれば、フェミニズムとトランスは、それほど簡単にすり合わないことがわかります。
 フェミニズムにはMtFトランスに対し排斥的な動きがありました。ジャニス・レイモンドはその1979年の著書の中で「トランスセクシュアルは皆、女性の身体を人造物におとしめ、それを自分たちのために流用するという形で、女性の体をレイプしているのだ」と弾劾し、トランスセクシュアルはホルモン・手術療法による創造物だとしています。身体的特徴や過去の経験といった共通項の欠けるところから、MtFを徹底して「女」ではないものとして扱います。
 このような身体的還元論は、その後のジェンダー概念の確立によりフェミニズムの流れのなかで退けられていくことになります。しかしここにはまた別の問題があります。
 一つには、ジェンダーによる理解は性を社会構築物として相対化することでもありますが、そもそもトランスは運動に逆行する存在です。TS的主張では「本来の身体を回復する」ものなのですから、トランスにとっての性自認は絶対的なものであり、遺伝的ではないにせよ何らかの変更不可能な根を持つものです。性の変更、あるいは修正という形で論を立てることは、「男/女」という既成のメカニズムを強化することです。
 これについては留保すべき点もあり、トランスにも大雑把に言って、性を変更することで既成システムに埋没していこうとする「同化派」とトランスであること自体にアイデンティティを求める「トランスジェンダー派」があります。「トランスはトランスであること自体を目的とするのではない」限りで「同化」的要素がトランスの本質にあることは間違いありませんが、一方で完全にネイティヴと等価になることはないことから、「トランスジェンダー派」的理解を放棄することはできません。この意味で、両者は相反する思想を持ちながら簡単にグループとして二分できないものです。「トランスジェンダー派」は 社会構築主義の思想と共鳴しますが、そもそも相対化しきってしまったら「トランス」という概念自体が成り立たないことを忘れるべきではありません。
 もう一つは、ジェンダー/セックスというナイーヴな二元論により、かえってセックス自体の自然性が保存されてしまうことです。「それはそれ、これはこれ」という形で身体的・生物学的次元が揺るぎないものとして措定されてしまうのです。
 この二元論とトランスは複雑な形で関係します。二元的にセックスを保留しジェンダーで考えることはトランスの好むところですが、一方で外科的処置などで「セックスの変更」を迫るのがトランスでもあります。また性自認の変更不可能性という点で、セックスを外野に放り出す引き換えに、今度はジェンダーの根に自然的要素を見出そうとしてしまっています。
 しかしTSが求める「生物学的性の変更」が性器や胸の膨らみなどの社会的特徴に集中することからもわかる通り、トランスにとっての「セックス」とは、極めて社会的なものです。「ジェンダー・アイデンティティに生物学的性を一致させる」といった論が散見されますが、実はトランスは最初から最後までジェンダーのことしか問題にしていません。
 それならそれで二元論に丸く収まってめだたしめでたしかというと、ことは簡単に進みません。セックスは常にジェンダーに汚染されていますし、さらに言えばセックス自体ジェンダーによって構築されたものです。「ジェンダーに先立つ」裸の自然など存在しません。社会適応という次元では二元論で事足りるかもしれませんが、思想的には齟齬をきたす面が出てきてしまいます。要するに「同化派」トランスは本質主義から排斥されるにも関わらず思想的には極めて本質主義的で、構築主義とも相反するのです。求めている「本質」がトランスとフェミニズムではズレがあるのです。
 トランス、とりわけFtMがしばしば取り上げる実例に、マネーの双子のケースがあります。いわゆる「ブレンダ」問題です。性自認は臨界期までの環境により決定されるという思想に基づき、手術ミスでペニスを失った男の子が女の子として育てられた例です。この子が成人後、手術を受け直して男性として生きていたことがコラピントにより暴露されて以来、性自認は変更不可能としてトランスの間で頻繁に取り上げられるようになりました。しかしそれ以前は、逆に変更可能な実例として社会構築主義フェミニストによって流用されてきた歴史があるのです。
 言うまでまでもなく最大の問題は都合の良い実例だけをあげて空虚な論を重ねることです。だからといって、構築主義的相対化の果てに「トランスもフェミも仲良く」などという境地があるわけがありません。「トランスジェンダー派」なら構築主義と馬が合いそうですが、両者が触れ合う臨界点はほとんど「男/女」の解体であり、そこでは今度はフィーメールやトランスといった概念すら無効になってしまいます。何らかの帰属性によって論を立てるなら、両者はどこまでもすれ違いますし、何ら帰属性を抜きにしてはそもそも言説を組み立てることが難しいでしょう。
 個人的には、むしろフェミニズムはMtFトランスを排除して構わないと考えています。「トランスジェンダー派」なら、トランスのトランスとしてのアイデンティティを主張する限りで、「女」から退けられることを肯定的に考えるべきでしょう。わたしが排斥是認するのはこの理由からではありませんが、極めて「同化」的傾向を強く持ちながら「同化」仕切れないトランスの本質を抉出する意味で、アクションとしては対立があった方が実りがあると考えます。
 最後に、経験的な些末事を書き添えておきます。社会的に男性から女性へと移行してみて感じるのは、「ガラスの天井」というのが嘘ではないということです。これはどちらかというとウーマンリブ的な一昔前のフェミニズムの論点ですが、ナイーヴな意味での「女性差別」というのがいまだに存在します。実はMtFトランスは、男よりも女よりもこれを実感できる立場にいます。ネイティヴであればすっかり訓化されてしまうかもしれませんが、トランスは移行の過程で嫌でもこの点を意識するのです。
 最初「トランスだからナメられているのか」と感じていたものが、潜伏度が上がるにつれて「実は女というものはナメられているものなのだ」と気づいたとき、愕然とする思いがしました。社会的に男性として生きていたときには、正直十分に感じられていなかった領域です。男女共にまったく意識化できない水準で、ほとんど文化的な「ナメ」が存在しています。男は「ナメている」と思わず、女も「ナメられている」とはとらえない、知識では理解できない微妙な違いです。
 そして「ナメられている」事実を不快に思いながらも、「女として認識されている」という卑小な喜びも禁じられない自分に、反動的で危険な匂いを感じないではいられません。いかに「トランスジェンダー派」を気取ったところで、トランスは「同化」幻想から自由になれない危険分子です。
 なお右で紹介している『”ポスト”フェミニズム』での荻野美穂さんのテクストは参考になります。荻野さんは端々でトランスを意識した発言をされていて、個人的に注目しています。『情況』2004.11の『「反射する当事者性」と身体の政治』も非常に面白いです。
 また『猿と女とサイボーグ』(ダナ・ハラウェイ)第7章もフェミニズムとトランスを考える上で参考になります。

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