Warning: Creating default object from empty value in /home/ssm/www/eternal/wp-content/plugins/accelerated-mobile-pages/includes/options/redux-core/inc/class.redux_filesystem.php on line 29
終わりなき潜伏

終わりなき潜伏

 以下のテクストは、ish☆にアップしていたものですが、ある時期のわたしのスタンスを伝えるものとしてそのまま転載します。
 2004年4月に書かれたものですが、その後多少加筆があります。
 また、そもそもこのテクストは「オモイツキ セクシュアリティに関する覚え書き」への補遺として書かれたものなので、そちらの文章もその下にそのまま転載しておきます。
###
終わりなき潜伏
 前に「オモイツキ:セクシュアリティを巡る覚え書き」を大幅加筆修正の上再掲載してから、およそ半年になります。その間にも、わたし個人を取り巻く状況は相当に変化しました。時間が経過することで、以前よりは明確になってきたこともあります。前の「オモイツキ」を読み直して付け加えたい点について、現時点で考えられることをメモしておこうと思います。
 なお、このテクストは主に「当事者」を意識して書かれていますが、それ以外の人にとっては無関係というわけではありません。また、「オモイツキ:セクシュアリティを巡る覚え書き」をお読みでない方は、できればそちらを先に概観されることをお勧め致します。
終わりなき潜伏
 「オモイツキ:セクシュアリティを巡る覚え書き」の最後で、次のようなことを書いています。わたしはいわゆる「フルタイム」として生活しているが、職場では戸籍上の性別も明かしている以上、正確には「オンナとして」とは違うこと。戸籍上の性別を一切知られずに「潜伏」することがベストとは限らないであろうこと。
 現時点でもおおよその生活様式は変わりません。積極的に「男性として」行動することはまずなく、日常の行動では女性として認識されている場合がほとんどでしょう。一方で、職場の人間はわたしの戸籍上の性別を知っている人が過半数です。入れ代わりの激しい会社なので、わたしより後に入ってきた方には知らない人もいますが、笑い話も兼ねて知らせてしまった場合も少なくありません。もちろん、この人たちがセクシュアリティについての深い知識や理解があるわけではありません。ですから、彼らが正確にどう認識しているのかについてはわかりませんが、「何か変わったヒトみたいだけれど、仕事してるしいいか」といった程度でしょう。
 また、わたしには昼間の仕事と別に、週一日の飲み屋さんの仕事と、個人的に請負っているもの書きの仕事があります。飲み屋さんは、いわゆる「ニューハーフ」であることを売りにしていますから、「男の仕事」です。またもの書きについても、トランスであることを遠慮なく有効利用するつもりですので、積極的に活用させて頂いています(このような「利用」にはTSカルチャーからの批判もあるでしょうが、どんな個人もイデオロギの「人柱」にならなければならない理由などありませんから、生活にとって都合の良いように行動します)。
 一つ大きく状況が変わったことがあります。会社関係で、社外に出る仕事が増えたことです。ライターとしての取材ですが、記名記事ではありませんし、セクシュアリティを「売り」にするわけにはいきません。この場合、原則として「女性として」仕事をしています。つまり、完全にパスすることが任務の一部という状態です。
 パスしていなかったからといって、仕事がまったく成り立たないとは思いません。多少特殊なセクシュアリティの持ち主が仕事場に現れても、ほとんどの人は少なくとも表面上気にしない態度を取るものです。もちろん、あくまで表向きのことで、本心ではどう考えているかはわかりません。仕事に悪影響を及ぼす可能性もあるでしょう。しかしそれでも、人を構成する様々なファクターの一つにすぎませんから、他の諸能力が「デメリット」を補って余りあれば、それなりの評価は得られるでしょう。
 ただし、当然ながら当事者のセクシュアリティは仕事の中心ではありません。そんなことを話題にするために、職場の人やクライアントは会ってくれているわけではないのです。ですから、セクシュアリティがマイナスになるか否かを問わず、パスできている方が安全であることは確かでしょう。わたしのように、一人との接触が数時間しか続かない場合は尚更です。
 「潜伏がベストとは限らない」と書いていたものの、この状況では半ば「潜伏」的に行動するより他にありません。「生きていくためなら辞さない」とも言いましたが、正にその通りになってしまった感もあります。
 複雑な思いです。
 「女として生きる」という理想を考えるなら、非常に恵まれた環境にいるとも言えるでしょう。女の格好で普通に仕事ができるのみならず、社外関係という一歩間違えれば「会社の顔」に関わるような状況にも使ってもらえるのは、本当に有り難いことです。
 一方で、「パスしなければならない」ということがストレスになることは確かです。わたしの声は完全には程遠いですし、容姿にしてもよく観察すればわかることです。「本当は気付いているのに、気をつかって隠してくれているのではないか」などと邪推すると、実に気が重いです。いっそ何もかも喋ってしまおうかと考えますが、相手方の貴重な時間をそんなことで使うわけにもいきません。
 「全人的」に理解してもらえればさざかし楽でしょうが、そんな状況はまずありませんし、そもそも「全人的」理解というのが何かもわかりません。わたし自身にとっても、わたしが誰なのかは謎のままです。セクシュアリティについても、考えれば考えるほどわからなくなることがありますし、一日の中ですら感覚の変動があります。
 そんなことは考えないのが一番です。ですがそうなると、「女なら女」として「潜伏」型に統一してしまった方が安易なのかもしれない、と思いもするのです。「理解」などと簡単に言いますが、浅薄な理解ですら、仕事関係の中で伝えることは簡単ではありません。仕事自体にとっては余計なことでもあります。「理解」などなくてもビジネスは進行しますし、そういう意味では世間の雛形に合わせている方が話がはやいのです(蛇足ですが、「理解者」面をして近付いてくる人間ほど、理解する能力すらないものです)。
 そして、「全人的」「すべてオープン」といっても、何が「すべて」なのかわからない以上、「伝え切れていない」「欺いている」「しっくりこない」という感覚が消えることありません。
 些細すぎてバカバカしい例えをあげます。以前わたしは「職場には戸籍上の性別を明かしているのだから」と、半ば自虐的に男子トイレを使用していました。さすがに現在はそれも苦痛で、周囲も少し迷惑ぎみなので、女子トイレを使っています。ところが、それで解放されるかというと、やはり違和感は消えてなくならないのです(トイレ問題をやたらに取り上げるTSカルチャーをさんざんからかったものですし、今でもアホらしいと思いますが、極めてわかりやすい形で問題と直面する場であることは事実です)。
 こういう思いは、セクシュアリティについてなにがしかの違和感を抱えて生きている以上、仕方がないことでしょう。おそらく、どんな生活形式を手に入れても、完全ということにはなりません。
 一つ注意しなければならないのは、このような問題系を「自認と他者による認識のすれ違い」といった形でまとめてしまうと、取りこぼしてしまう部分がある、ということです。確かに「自分にとっての自分」と「他人にとっての自分」というのはなかなか一致させられるものではありませんし、このズレが多くのトランスにとって負担になっているのは事実でしょう。また、トランスに限らずこの問題、惹いては「アイデンティティ」とやらを巡る葛藤を抱えているのは、一般的なことです。
 ですが、問題は本当に「認識のズレ」などなのでしょうか。トランスの場合は「男/女」というデジタルな性を巡って問題を整理できるのでわかりやすいのですが、わたしたちは誰でもある意味「潜伏」しているのです。「男子トイレでも女子トイレでもどこか後ろ暗い、『オープン』にしても嘘をついている感じがする」。トイレが関門の一つになるのはトランスならではでしょうが、この「何かが残っている感じ」自体は、普遍的であるように思います。
 言うなれば、わたしたちは皆「この世に仮住まい」です。「本当の自分」やら「本当にやりたいこと」などを求めてしまう方は実にお若くてうらやましいですが、そんなものはありません。どこから来てどこへ行くのかもわからず、自分が誰なのかも知らず、とにかくこの世に生きているのです。「何をやっている人ですか」と問われてとりあえず「会社員です」などと答えるものですが、「会社員」であることがその人の本質であるわけもなく、重要なことには、「本質」など誰も関心がなければ、当人にとってもわからないものなのです。そんな恐ろしい問いには「会社員です」という答えで蓋をしておきたいのです。
 わからないままですが、とにかく生きています。生きていれば、行動しなければならないでしょう。自分の本質もわからない人間のやることですから、正しいか正しくないかも絶対ではありません。それでも決断し、責任を負わなければなりません。実に不条理ですが、後ろめたいところがあってもやることはやるのが人生です。逆に言えば、何を選んでも何かしら後ろめたいものなのです。
 「潜伏」は居場所を見つけると同時に居場所の無さを味わうことです。「こここそ本来の場所」として収まりながら、「本当は違うんじゃないか」とズレを感じる。わたしたちが「山田」なら「山田」として生きることの底には、そういう「潜伏」が常に流れています。
 こんな見方を導入したからといって、わたしたちの生活が劇的に改善されることはないでしょう。しかし「自/他の認識のズレ」という考えだけでは、どうしても「自分と他人」というナイーヴな対立軸を偏重してしまうことになります。一見ズレを摺り合わせてより良い環境を作る道具のようですが、「自/他」という軸自体は保存される以上、小さな違いを拡大してしまう可能性もあるのです。
 「終わりなき潜伏」を生きる。どこか悲劇的ですが、希望があるとすれば、そんな人生にもきちんと「終わり」がある、ということです。「終わり」は一般的には嬉しいことではありませんが、「終わり」があるからこそ決断もできるのであって、「仮住まい」「潜伏」という「文法的に暫定的」なものを真の人生として引き受けらられるのでしょうか。
 逆説的にも、謂れなき罪(死刑に値する罪!)こそがわたしたちを生かすのです。
石倉由
19 Apr. 2004
補遺:
 こういったテクストを書き付けていると、「あくまでも男のニューハーフ」という人生を望んでいるのだと誤解される方がいます。
 念のために一つお断りしておけば、以上のようなテクストは、これまでのTS/GIDカルチャーにおける言説を概観した上で成立するものです。予備知識を求めるわけではありませんが、従来の言説にまったく無知な方には、過剰に男性性を誇張しているように読まれてしまうかもしれません。
 わたしとしては、TS/GIDカルチャーの提示する「枠組み」によって自分を説明することに抵抗を感じるだけであり、もしも強引に位置付けるなら、TGもしくは緩いTSということになるでしょう。女装カルチャーについては極めて肯定的印象を持っていますが、「自分が女装している」という意識はありませんし、ネイティヴ女性に容姿の美醜を元に判断されるのは、正直複雑なものがあります(もちろん、むしろ肯定的意図で仰っているのでしょうが)。何度も書いたことですが、「安全な男」が欲しいなら、キチンとお金を払って下さい。
 自分の容姿等に対する社会的フィードバックを極力プラスに活用して生きていこうと思ってはいますが、率直に自分の身体についての思いを書けば、気持ちよくは思っていません。トランスぶりを逆手に取って躁的に振舞うことも少なくないですが、所詮小心の裏返しなのでしょう。ただこんなことは辛気くさいTS/GIDカルチャーで何度も主張されてきたことですし、毎日そんなことを考えても鬱陶しいだけですから、わざわざ言いたくないだけです。
 こういった条件をすべて鑑みた上で、「ニューハーフ」的に社会性を獲得していく生き方に敬意を抱くのです。欠点も長所も見方次第ですから、不快だろうが何だろうが、自らのあらゆる属性を積極的に換金していく手段を探るほうが果敢というものです。
 こんな補遺もまったくもって蛇足なのですが、稀に誤解される方もいらっしゃるので、わたしにとっても読まれる方にとっても不快であるのを承知の上で、一応書き付けさせて頂きます。
追記(8 Jun. 2004):
 やっとで「ニューハーフ業界」から撤退することで、多少フリーハンドとなりました。ヴィジュアルでリードされることはまずなかったのですが、声の完成度が上がってきたことで、いよいよ潜伏形に近くなっています。そろそろ転職の時期でしょう。
 潜伏、もしくはそれに近い形をとることのメリットは、やはり「トランスについて考えなくてよくなる」ということです。トランス問題はわたしたちにとって極めて重要ではありますが、人生のすべてではありません。普通に仕事をしている時は、余計なことで煩わされたくないものです。そういう意味では、性に関しては世間の枠組みにハマっておいたほうが、効率的に仕事がこなせます。
 とはいえ、やはりネイティヴと完全に同化することはありません。周囲の誰も知らなくなっても、わたし自身が忘れない限りは、「潜勢的」ななにかは通低音のように響き続けます。
 一般の方のために、常識的なことを一つお断りしておけば、TS系のサイトでこのように顔を曝して運営されているのは極めて異例な状況です(わたしがTSであるかどうかはかなり疑問の余地がありますが)。なぜなら、完全に潜伏している人にとって、顔を曝してわざわざ戸籍上の性別をバラしてしまうことには何のメリットもないからです。それをこうして写真アリアリでやっているといことは、やはりわたしの場合、トランスとしてのアイデンティティが濃厚だからでしょうし、女としての自信に欠けているのでしょう。ネイティヴへの穏やかならぬ反応もここに根がある気がします。
 「普通の人」の感覚では理解できないかもしれませんが、トランスの人生は半年もあれば別人になっていたりするものです。今後もどれだけ変化していくか、予想もできません。
 とりあえず、刻々と変化していく状況を手短にメモしておきました。  
追記(30 Sep. 2004):
 ますます潜伏に近い状況です。カムすることがかえって相手を煩わせることを痛感します。ただ、やはり親しい人間関係では隠したくないですし、昔からの友人の大切さを日々実感しています。
 技術的な些末事ですが、ボイストレーニングは非常に重要です。見た目がいかにパスしていても、声が出せないのでは生活もままなりません。声のレベルが上がって以降、本当に精神的に解放されました。聾唖者の方の心理が少し理解できた気がします。思ったことを遠慮なく話せるということは、素晴らしい経験です。当事者の方には、辛抱強い努力をお勧めします。
 ほとんどこれを唯一の目的としてやっていた電話のお仕事を退職しました。正直、最初は笑われることもしばしばで、ネイティヴに対して心底悔しい思いをしました。声にはまるで自信がなかったので、修行だと思って一番苦手な世界で鍛えてきました。甲斐があったというものです。
 どんな技術でも言えますが、最良のトレーニング方法は「それができないと生きていない」環境に無理矢理身を置くことです。そういう意味では、多少ノンパスでもフルタイム実践は大切です。もちろん、生活面での配慮は必要ですが、これがクリアできるなら根性で取り組んでみるのも一つの方法です。但し、初期にかかるストレスは尋常なレベルではないですから、気力・体力に自信のない方は緩やかな方法を選ばれた方が良いかもしれません。
###
オモイツキ セクシュアリティを巡る覚え書き
はじめに
 このページを最初にアップしたのは、確か2002年の終わりごろでした。その後2003年中ごろまでは、随時修正を重ね、トップからのリンクを外しプロフの奥にしまいつつも、閲覧可能な状態にしておいてありました。
 2003年の秋に、一度ファイルを消しました。そうやって徐々に押し入れの中にしまい込んでいったのは、ある意味、この問題についてのわたしなりの整理が一段落ついていったからです。
 気持ちが落ち着かないうちは、考え書き直し、試行錯誤をしなければなりませんが、今は以前と比べれば色々な意味で(比較的)安定し、敢えてこういった暗い側面をネット上にさらしたくなくなったのです。
 余計なことは考えないのが一番です。うまくいっている時は、人はものごとの原因や仕組みなどについて考えないものです。何かが躓いた時に、初めて「どうしてこんなことになってしまったのか」と考えはじめるのです。
 そこで「原因」が見つかり、「解決法」が見い出されることもあるのでしょうが、私見では、むしろそいった因果的過程よりも、ただ「問題」を巡ってぐるぐる周り歩くことが「解決」につながるのでは、と思っています。歩いている内に、歩き疲れて「問題」を忘れてしまえればしめたものなのです。忘れることに成功した時には、変わっていないようで何かがやはり変わっているのです。
 だから逆に、ほどほどに「調子に乗れている」ときは、ややこしいことは考えたくないものです。考えても、ロクなことにはなりません。ただ行動あるのみです。わからないなら、試しにやってみれば良いのです。やってみなければ本当のことはわかりません。動いてみれば、良きにつけ悪しきにつけ、何かが変わるでしょう。そこでまた次の一手を打てばよいだけの話です。
 ですから、今回再びこのような形で大幅なリライトと再アップを試みるにせよ、積極的に表層的な思考を滑らそうというのではありません。また、明確な形で「自分の立場」をマニフェストとして示すつもりもないし、そんな必要も断じて認めません。
 基本的に、わたしはやりたい放題に好きなことををやっているだけのチンピラです。そんなに深いものではないですし、深いことは自分が辛いですから、適当に受け流したいです。深いことをいかにも深そうにやってみせて、「かわいそう」を演出している極一部の人たちには辟易します。
 ですが、本当に鈍い方に勘違いされてしまうのは、それはそれで少し問題です。別に構わないのですが、勘違いされた時に「やるだけはやっています、ここに書いてありますよ」というイクスキューズを用意しておいた方が、保険になるというものです。
 そんな下らないことが、再アップの理由の一つです。
 今一つは、「本当に必要とされている方」に、某かのメッセージが送れればよい、ということです。
 現在、gender identityの問題については、操作概念を駆使した半ば社会学的見解がスタンダードとしてまかり通っています。もちろん、これらの有効性を認めないわけではなく、わたしも大いに活用させて頂いております。ですが、ある種の人々にとっては、やはりこれでは不十分なのです。整理がつかないのです。
 メジャーな論法で納得してしまう人、納得できなくても考えないでいられる人は、それはそれで何の問題もありません。ですが、現にわたしという失敗例を知っている以上、似たトラップに陥っていしまっている人たちをただ傍観しているというわけにもいきません。
 とはいえ、別段優しく手を伸ばしたりなどという気持ちもなければ、器量もありません。ただメモを残すだけです。
 問いを開いてしまった者には、相応の責任があります。既に、ここに答えが一つあります。その問いを開いたのが他ならぬ自分だ、ということです。結局のところ、ある種の人々にとって必要な答え、しかも始めからわかり切っている答えというのは、それだけです。
 ですが、そこに書いてある答えを答えとして再認するためには、やはりそれなりに歩き疲れる必要があります。問いを巡り、当て所もなく彷徨い、叫び涙し、地を打つ時間が要求されます。
 疲れて下さい。疲れるものを残します。
自認を巡って
 性自認について、わたしは以前、「ユニ」という言葉を濫用していた時もあり、また敢えて「わからない」と答えてもいました。現在は、もし「あなたのgender identityは?」と尋ねられれば、「オンナです」と即答します。
 理由の一つには、わたし自身が試行錯誤の末変わっていった、ということがありますが、今一つは、gender identityというものが、要するにその程度のことだと、見切ってしまったからです。
 わたしが「わたしの性自認はオンナです」と答えたところで、それが何だというのでしょう。確かにわたしは、なれるものならオンナになりたいとは思っています。容姿・身体・声・社会的受容等々、様々な点で「オンナ扱い」されることをほぼ一通り望んではいます。
 ですが、後述するように逆立ちしてもオンナそのものになることはできませんし、わたしが男性として生まれ、男性として育てられたのも事実です。染色体も男性です。どちらも恥ずかしいことでもなければ隠すことでもありません。
 結論から言えば、現在のgender identityを巡る言説は、ヘテロセクシャリズムという「唯一の装置」の釈迦の掌であって、批評としての真の有効性を備えたものではありません。要するに便宜的なものでしかない、ということです。
 もちろん、繰り返しになりますが、このような操作概念の有効性をわたしは大いに認めますし、活用もします。それらは本当に「使える」ものではありますから、必要な方はどんどん利用されたら良いでしょう。ネット上にも溢れるほど情報があります。わたしなどが付言できることは何もありません。
 ですから、ここには敢えて、少しズレた観点からの思考の枠組みを一つ置いていこうと思います。おことわりした通り、この文章の想定上の読者は、gender identityを巡るTS的分脈では納得し切れない方々だからです(それを必要としない、という意味ではありません)。
 女性というのは、社会的に、男性の欲望の「対象」として評価されるという宿命を背負ってしまっています。だから女性の心には、「対象として認められたい」という部分と、「ただの対象になってしまったら、『本当の私』はどうなるの? 『本当の私』を見て」という葛藤があるように思えます。ひどい場合には、それが原因で神経症的になってしまうこともあります。もちろん、これは個々人の意識についていっているのではなく、構造についての話です。
 いずれにせよ、このような構造が文化のコードを下支えしている以上、少なくともMtFの場合について考えた時、単純にオトコ>オンナと立場を転換する、という見方はできない筈です。一部の性的快楽だけを目的としたTVの方に見られるような、男性のファンタスムの内部にしか存在しない「女性像」を演じる、というゴッコ遊びではないのです(ゴッコ遊びは遊びとして、別段悪いことでは全然ないと思いますし、むしろある種の「健全さ」すら感じますが)。
 それでは、MtF的状況において本当に問題になっている系とは何なのでしょうか。一つ、これもまた操作的にすぎないのかもわかりませんが、モデルを提示してみましょう。
 結局、「オトコかオンナか」ではないのです。
 あえて二分法を使うなら、「男/女文化」と、「それ以外」とでもなるでしょうか。この方法を敷衍してみるなら、世の中のほとんどの男性は多かれ少なかれ「男/女文化」に属することになります。それはファルス中心的な文化で、非常に平たく言ってしまえば、広い意味での「やりたい」で駆動されている文化です。
 この時、男性にとっての女性は、彼らのファンタスムというフィルターを通しての女性でしかありえません。どんなに迂路を経ていても、やっぱりそれは「幻想のオンナノコ」になってしまいます。だから、女性がちょっとそのファンタスムから外れる言動をしたりすると、すごく傷付いてしまう時もあります。人はファンタスムの中に登場人物として登録されてこそ、安定して「人間」でいられるからです。
(この分脈では余談になってしまいますが、これは特定もしくは不特定の男性の「ファンタジー」の中に登記される、という意味ではありません。むしろこの場合、男性こそが他者の欲望として、ファンタスムの一項に登録される、ということです。ここでは立論の性質上、どうしてもオトコとオンナという視点を尊重せざるを得ませんが、批評としては、第三項的他者を考えに入れなければ、何も理解できません)
 世の中の女性もまた、「男/女文化」に属している人がたくさんいます。ただ、男性に比べるとその絶対数は少ないでしょう。なぜなら、この文化は、基本的に男性の欲望によって成り立っているものだからです。その中で、女性は対象としてしか位置付けられない以上、特に思春期の女性は、自分のあり方について大いに悩んだりすることもあります。というのも、自分が求められるポジションが、自律的なものではなく、他者の欲望に規定されているからです(さらに追捕すれば、実のところは、他者の欲望によって主体化さえるという点に男性も女性もないのですが)。
 これはいわゆる「女性の性欲」を否定するものではありません。圧縮表現してしまうなら、「女性の性欲」は既に「男性の性欲」の一部である、と言っているのです。
 このような一極的象徴回路が「社会」をドライブしている以上、どうしても残りができます。網ですくいきれない部分が残るのです。男性でもそこに転がり込む人がいます。女性ではかなり多くの人が、少なくとも人生のある一時期に「それ以外」を通過します。
 そこはとても「子供っぽい」場所ではありますが、ヒトである限り残り続ける部分です。ヒトの性は言語にからめとられてる以上、「本能」すらも既に構造化されています。「本能」が「ある」のではなく、振り返った時に見えるもの、それを「本能」と呼ぶだけです。わたしたちはそれ程スッキリと「オトナ」にはなれません。
 「それ以外」から見ると「男/女文化」はすごく暴力的でガサツに見えるものですし、逆に「男/女文化」から眺めると幼稚で話がまどろっこしく映ります。ヘテロセクシャリズムの一効果です。
 当然のことながら、これはあくまで構造的モデルであって、「わたしはこっち、あなたはそっち」というような分類の道具ではありません。ただ、わたし自身も含め、少なくない人々が、何らかの形で「それ以外」に足をとられてどうしようもないのです。
 「わたしはオンナだ、ただしすごくヘンなオンナだ」とでも言えばわかりやすいでしょうか。これは一部TSの分脈に見られる「奇形」という概念とも少し違います。
 「ヘン」というのは、男性の欲望の対象としての自らを望みつつ、常にそこから距離をおこうとする、ということです。実はよく考えてみると、これはむしろ多数派の女性がとっている行動様式なのですが、ことMtFとなると、見落とされがちな点です。少なくとも、一部の男性や、服装性倒錯者にとっては理解し難いことでしょう。
 一時期わたしは、「わたしはオンナっぽいオトコじゃない、オトコっぽいオンナだ」などと半分おふざけで語っていたのですが、要するにこういうことです。また、わたし個人のMtF状況においては、自分の中の「男性的部分」を全否定する気はさらさらない、というのもあります(果たして、「男性的部分」のないオンナとは一体?)。
 このようなスタンスから、長い間、わたしにとってGIDという概念は馴染みにくいものでした。DSMに代表されるような、アメリカ的現象的診断基準に取り込まれることに対する疑問を払拭しきれなかったからです。これらのものの見方こそ、まさに一元的ヘテロセクシャリズムの一エテュードに他ならないからです。それらの効能を大いに認めつつも、です。
 もう一つ言えば、ホルモン投与、去勢(文字どおりの)、SRSといった所で、結局オンナそのものにはならないということがあります。
 最も自殺率が増えるのがSRS後だという話を伺ったことがありますが(真偽は確認していません)、それもうなずける話です。「これ以上やることがない」という段階になってハタと気付いたら、不幸というより他にないでしょう。何が得られて、何が不可能なのか、慎重に自分に言い聞かせて進める必要があります。
 戸籍を変えた所で同じことです。もちろん、世間で流通している商品としての「女」には果てしなく接近できることは間違いないでしょう。しかしこれもまた、「男/女」分化の釈迦の掌ですから、わたしとしては、敢えてただそれだけのものを真の「女」とは呼びたくありません。オンナがオンナであること、それは究極的には取り残されるものだからです。
 「女らしさ」を百万集めても「女」にはなりません。逆に、女性だからといって、必ずしも「女らしい」とは限らない、ということは、身の回りの女性を見渡せば一目瞭然でしょう。
 少なくともわたしは、オンナではありたいと望みますが、オトコの視線から見た一方的な幻想の「女らしさ」に単純に憧れているわけではありません。また、そういう女性も余り尊敬しません。これはただの個人的趣向ですが、男女に関わらず、「男らしくないヤツ」は好きになれません。
 ポエジーをもって一気に圧縮表現するなら、私は孕めない限りにおいて永遠に「オトコ」です。そして性自認は「オンナ」です。
 とはいえ、果たしてそこで取り残されるオンナというのが、どれほどのものか、というのは疑問もまた残ります。
 結論から言えば、正に「対象」としての自分を認めることこそ、オトナになることと言ってもよいでしょう。少なくとも、オトナのオンナというのはそういうものです(とはいえ、何人たりとも真に「オトナ」になどなれないのは言わずもがなですが)。この点で、私が去勢やSRSを否定しているのだと誤解しないで頂きたいのです。
 第一に、わたしは(わたしに限らないと思いますが)ただ「幻想のオンナノコ」だけを演じるつもりはありません。
 第ニに、あらゆる「治療」も、わたしをオンナそのものにはしないでしょう。
 これらを十分に吟味した上でなお、わたしは今よりも少し、「まがいもの」の身体を手に入れることを望んでいます。
 「奇形」を治療しようとしても、より一層「奇形」なものになるだけです。また、「奇形」が「悪」なわけでもなければ、「治療」が幸福を約束してくれるわけでもありません。この点は十分に了解して進まなければなりません。
 これらについてのわたしの検討が未だ十分でないのはわかっていますし、だからこそ一定の慎重さを留保してはいますが、それでもやはり、「治療」を受け入れる方向へと進んでいってはいます。「まがいもの」だとしても、少なくとも今までよりはずっとマシであろうからです。
 果たして「本当の身体」とは何なのでしょうか。「自然さ」という反吐の出そうな素朴還元論の向こうに、夢のような実体でもあるとでも言うのでしょうか。まるで野に「女」が生えているかのような、脳天着な夢物語には付き合っていられません。わたしたちは、ここに生まれた時点で、すべからく「まがいもの」なのです。
 問いを立ててしまったのが、他ならぬ自分である、という諦念においてのみ、義務としての自由があり得ます。この自由の名のもとに、わたしは「まがいもの」として生きることを選択したいです。
 フェイクだけがリアルなのだから、それで良いのです。
両性との関係、この頃
 ついでというわけではありませんが、男性/女性とのおつき合いについて、少しだけメモを残しておこうと思います。
 上のような言説を吐いてしまうと、どうしても「オンナより」に見えてしまう部分があるかもしれません。ですが、わたしは別段「オンナの味方」のつもりもなければ、生まれた時からオンナである(と信じておられる)方々と「同性」だとも思っていません。率直に言って、男性、女性、どちらも「異性」としか考えられません。
 一時期、男性に対する不信感をつのらせていたことがありました。上記のような回路を巡らせているうちに、男性というもの一般が不潔に思えてならなかったのです。また、世間から見て「女装」「オカマ」と一くくりにされてしまうものを、男性の方がより嫌悪する傾向にあるように見受けられます。この点からも、わたしには男性を必要以上に警戒していた時期がありました。女性に近い立場に立てたかのような勘違いをしていた時です。
 しかし、これはただの経験から言うことなので一般論として成り立つかどうかは大いに吟味する余地があるのですが、ある一定の段階までこちらの意図が伝わった時、寧ろ「味方」的に振舞ってくれたのは男性の場合の方が多かったのです。
 どのような形であれ、評価が頂けるというのは嬉しいことです。それがただの性的対象であれ、女性のオモチャとしてであれ、無視されてしまうよりはずっとマシです。
 ですが、わたしが「ちょっとかわいい男の子」で、メイクや女装をして遊んでいるのだと思われても、それは誤解というものです。もちろん、ネット上でそういう扱いの上で閲覧し楽しまれる分には、止める理由もなく、寧ろ一「芸人」として歓迎したくらいですが、実生活の上でそんな関係が続けば、苦痛であると言わざるを得ません。
 「こいつは命をかけている」「本物のバカだ」ということが理解して頂けた時、経験上は、あくまで比較の問題ですが、女性の方が離れて行き、男性の方がポツポツと「味方」になってくれます。これはただ単に、男性が「こいつは完全に自分の領野から離れた」と安心されているだけかもしれませんが、単なる現象の記述としては、このように見えます。もちろん、繰り返しますが、これはただの経験則の上、結局は個々人の性質に因るものですから、「男性/女性」にナイーヴに還元してしまってよいことではありません。
 当然ですが、他人はそうそう理解などしてくれるものではありません。そんなことを当たり前に望んでいるわけでもなければ、期待もしていません。努力は惜しみませんが、報われればラッキー程度のことです。
 ですが、「理解のある」風にして接近されたとしたら、やはり困惑しないわけにはいきません。そうそう理解しあえるものではない以上、余程時間をかけるなりした上でなければ、「同類」様に振舞うことなどできない筈です。
 わたしは男性の性的玩具でもなければ、女性の着せ替え人形でもありません。そのような「商品」としての一側面が自分にあることは否定できませんが、そうだとしても、無償でオモチャになったりはしないでしょう。
 「安全なオトコ」は、「後腐れのないオンナ」と同様に、お金で買うものです。
おわりに
 なんとも攻撃的なことばかり書いてしまいました。
 正直、自分でも嫌になります。一応の話の筋道として、閲覧可能な状態にはしておこうと思いますが、あまり積極的に読ませたいものではありません。
 必要以上に警戒感だけをつのらせていると受け取られてしまっても仕方ないですし、実際、わたしにはそういう小心な一面があります。ですが、現実に自分の周りを見渡して、そこまで不躾な人間も沢山はいないという事実くらいは認識しています。客観的に見て、わたしは友人に恵まれています。ちょっと奇跡的なまでに、運の良い道を歩いていると思います。
 ですから、このテクスト自体、冒頭におことわりした通り、一応の防衛線と一部の方の為の思考の道具として提供されているだけのものと了解いただければ幸いです。
 最後になってしまいましたが、最近になって少し考えていることを書き付けておきます。
 現在、わたしはいわゆる「フルタイム」として生活しています。
 ただし、それは「オンナとして」社会生活を送っている、ということとは違います。ただ単に女性の格好をして女性のメイクをして働いている、という、それだけです。
 履歴書には戸籍名から何からすべて事実を書いています。道を歩いている分にはオンナと認識されているでしょうが、職場関係等では皆わたしの素性を知っています。要するに「ちょっと変わったオトコ」として生きているだけで、「オンナとして」ではありません。
 もしも「オンナとして」というなら、それは周囲の誰にも戸籍上の性別を悟られずに生きる、ということでしょう。これを実現している方は沢山おられますし、望んでいるTSはその数百倍もいるでしょう。
 もちろん、わたしも「パス度」を上げていきたい、という人並みな欲求はあります。そのための努力も継続しています。
 ただ、言ってみれば「潜伏」という形で就労できたとしたら、それで幸せであるかというと、必ずしもそうではないのではないかと思います。実現できてもいないわたしが言っても何の説得力もないのですが、仮にそういうチャンスがあったとしても、何も考えずに飛びつけるかというと、少なくとも逡巡はするでしょう。
 わたしは以前、多くの方々と同様、セクシュアリティについてオープンにできない環境で、男性のスーツにネクタイという格好で働いてた時がありました(バレバレのようでしたが)。もちろん、苦痛で仕方がありませんでした。
 しかし、もしも完全に「オンナとして」働くとしたら、それはこの時の丁度裏返しをやっているだけになってしまうのでは、とも思うのです。
 わたしがいかにgender identityにおいて「オンナ」を主張しようとも、戸籍を変更したとしても(その意志は今のところまったくありませんが)、男性として生まれ男性として育てられ、男性として生きてきた事実は消えません。その過去を消してしまいたい、という欲求も当然ありますが、全否定したくもないのです。
 すべて事実なのです。わたしが男性であることも、わたしが女性であることも。少なくともわたしにとって、最大の苦痛は、「ココロの性」なるものを抑圧して生きることではなく、事実を隠して生きるということです。わたしが努力したいのは、事実をわざわざ喧伝することではありませんが、問われた時に素直に答えられる環境に身を置くことに向かってです。
 考えようによっては、これは「オンナとして」生きる以上に困難なことかもしれません。ですから、ただの理想ととって頂いても構いません。今後状況によっては、むしろ男性の方を隠さざるを得なくなることもあり得ます。生きる為に必要であれば、何でもやるでしょう。ただ、自分が望んでいることは、と問われれば、やはり上のように答えたいのです。
 これは現時点での「欲」でしかありませんし、今後変わっていく可能性もあるでしょう。もちろん、こんなトチ狂ったことを認める「寛大な社会」など別段望んでもいません。あらゆる問題に対し、個別に辛抱強くかつ柔軟に向かっていくしかありません。
 ただ一部の、「オンナとして」生きることに過大な期待をされてしまっている方々に対して、僭越ながら再考を促したい気持ちから、勝手なことを書かせて頂きました。
 以上、読む方によっては大変不快であったろう拙文に最後までお目通し頂き、ありがとうございました。
27 Oct. 2003 石倉由

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする