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「女であること」

「女であること」

 前々回のエントリで「女であること」と「女らしさ」を区別しました。「女らしさ」を百万集めても「女であること」には至らないのは前述の通りです。そして「女らしさ」という、すべからく「男性的」である主体の目から見た対象を、〈女〉という形で整理しました。
 MtFトランスにとって〈女〉は重要な問題ですが、同時にただ「女らしく」することが目的ではないのは言わずもがなです。もしも焦点にあるのが単なる「女らしさ」なら、「男らしくない男」「女らしい男」などいくらでもいるからです。別段性自認を主張しなくても、「男だけれど、男っぽいのは嫌いで、女らしい生き方をします」という選択肢はあり得ます。ジェンダーロール規定の厳格さから実行が難しい場合もあるでしょうし、そのような社会的条件が一種の防衛的適応としてのトランスを生産している可能性は否定できませんが、すべてのトランスをここに還元することは到底不可能です。
 ですから、トランスの問題意識を煮詰めていけば、最後には「女らしさ」の向こうにある「女であること」が析出されてくるはずです。MtFの中には「女」を意識するあまり女らしくなり過ぎている人もいますが、「あまり女らしくないMtF」という存在も十分あり得るのです。ネイティヴの女性が必ずしも典型的な「女」ではないように、MtFにも様々な形があります。その多様性の中で共通して目指されるものを考えるなら、「女らしさ」ではなく「女であること」です。
 それでは、保留にしておいたこの「女であること」とは何なのでしょうか。

 「女であること」は「女らしさ」を入れる容器のようなものです。「女らしさ」は具体的な内容を持つがゆえに、その実質は時間・空間的な変化を被ります。〈女〉の構造的役割が前章で述べたようなものだとしても、実際的な内容やディテールについては流行一つに左右されているのは言わずもがなです。これらの変化にも関わらず、変わらない基体となるのが「女であること」という入れ物です。
 この入れ物はもちろん、生物学的な性ではありません。記述的内容を排除した後に残るもの、それは物理的ではないですが物質的な核、空虚な座です。仮にこれを存在論的性と名付けてみましょう。
 存在論的性は、そこに社会的性という属性の書き込まれる「地」ですから、それ自体としては内容を持ちません。まったくの抽象的想定物と言えるでしょう。中身を入れるための容器ですから、中身に先立って存在していたはずですが、これは論理的時間においてのみ言えることで、実際に「女らしさ」に先立って「女であること」があったわけではありません。しかしながら、「女らしさ」を思考し始めた途端、その先行物として想定せざるを得なくなるのが、容器としての「女であること」、存在論的性です。少なくとも、社会的ジェンダーについての思考を深化させていけば、どこかでこの存在論的性の壁に突き当たるしかなくなります。
 実はこれは、前章で既に考えた〈女以前の女〉に近いものです。〈女以前の女〉もまた、〈女〉より前に想定され、〈女〉の属性を剥ぎ取られたものでした。すると「女であること」とは、突き詰めると女とは言えない何かしか残らないことになります。〈女以前の女〉とは、女たちによって〈女〉以前に仮構的に想定される存在論的性なのです。
 ところで、〈女以前の女〉とはトランスには到達不可能なものでした。すると、「女であること」を極めた存在論的性にも手が届かないのでしょうか。その通りです。
 過去は消せない、染色体は変えられない、といった技術的要素が仮に排除できたとしても、やはりトランスはトランスです。そもそも染色体などは初めから問題ではありません。「普通の人」で染色体検査を受けている人などまずいませんが、仮に検査の結果「性別を間違えていた」ことが判明したとしても、彼/彼女はトランスではありません。
 大切なことは、見た目はもちろん、染色体検査を含むあらゆる検査をパスする極限のトランスが出現したとしても、やはりネイティヴとイコールではない、ということです。なぜなら、存在論的性は記述的内容を持たないゆえに、どんなに中身を入れ替えたところで不変だからです。認識とは無関係です。「森の奥で大木が倒れる音」という禅の公案のような表象がありますが、森の奥でも音はします。言うなれば神様だけが見ている印、それは消えないのです。
 すると、トランスは「女らしさ」ではなく「女であること」を追求するにも関わらず、「女であること」には絶対到達できず、ただ「女らしさ」、そして〈女〉にだけしかコミットできないことになります。

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