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〈欺き〉

〈欺き〉

 おそらく、前項で述べたような女装との連続性を、TSも「知って」います。だからこそ「女装フォビア」とでも言うべき激しい反応で身を守っているのです。
 技術的にも人格的にも練度が低すぎる女装者が多く存在することは間違いありません。そしてこれらの女装者がトランスに対する社会的偏見を招いている、というのも一部事実でしょう。また、フルタイムの抱えるさまざまな障害について、パートタイムが無知無神経な傾向があるのも確かです。しかし逆に言えば、それらは技術や個人の資質の問題でしかなく、女装というスタンス自体がTSを脅かしているわけではありません。
 また女装という立場は、社会生活上不便でもあります。極端な話、「趣味の女装」を押し通すことは「性同一性障害」として社会人をやっていくよりずっと大変なことです。ですが実際的な社会生活については、必要に応じて「性同一性障害」を盾に取るなり〈生き方としてのトランスジェンダー〉を主張するなりして切り抜けることも可能です。これらが方便でしかなく、逆に方便としての有効性は多分に備えていることは再三繰り返した通りです。本質的に女装だからといって、あまりイメージの良くないこの言葉を対外的に振り回す必要はありません。もちろん、戸籍上の性別を一切悟られずに暮らすことも一つの方法です。
 加えて「女装と言ってしまうと男扱いされてしまうかもしれない」という恐れもあるでしょう。しかし他者の認識の関する限り、技術的に洗練された女装者はそうそう男とはみなされません。自分が戸籍上男性であることをカムしたとしても、「女装だから男なんでしょう」などと指摘されてしまうのは、単に技術レベルが未熟だからです。もちろん心中で「実は男」という認識は持たれるでしょうが、「男扱い」とは別問題です。有無を言わせない実力を身につけること、人間関係を尊重すること、それからノンパスであれば「女扱いして下さい」と口に出して言うこと、こういった具体的対処で十分にクリアできます。
 ですがこれらをすべて認めたとしても、やはり「女装フォビア」は解消されないでしょう。なぜなら、女装という語には明白な〈欺き〉の響きがあるからです。そしてこの響きが嫌悪され恐れられるのは、TSに〈欺き〉がないからではなく、トランスは〈欺き〉から決して自由になれないからです。女装という言葉は、この逃れられない〈欺き〉の次元を露出させてしまうがために、忌避されるのです。
 一度退歩し、基本から確認しましょう。
 スタンスに関わらず、ノンパスのトランスは辛いものです。パスできないことが苦しいのは、言うなれば「きちんと偽者ができない」苦しさです。ただし、この問題は技術の向上によって解決可能です。では、十分なパスが達成できた時、トランスは解放されるでしょうか。
 今度は「公衆ではパスできても、身体が不完全だ」と訴えるでしょう。プライベートな空間でのパスを問題にする、非TG的TSな視点です。これについては、確かに技術的にも百パーセントは解決しません。人工的なヴァギナは完全とは言い難いですし、他にも色々な問題があります。ですが、ここでは仮にそういった困難もすべて解決できたとしましょう。「めでたしめでたし」でしょうか。
 ここで前項で指摘した問題が露になります。完全に潜伏、つまり誰にも戸籍上の性別を悟られなかったとしても、やはり苦しさは消えません。彼女たちは、自分の戸籍上の性別も過去も「知って」いますし、更に言えばおそらく、存在論的次元での性別の修正可能性すら直観しています。〈欺き〉つまり「本来の自分ではない」という感覚は、姿を変え続くのです。第二章でトランスが常に「世捨て人」的であることに触れましたが、スタンスの如何にかかわらずこの距離感は残るのです。
 ただしトランスは「本当は男であるのに女のフリをするのが心苦しい」と感じているわけではありません。「防衛している」という事実からさらに身を守るためにそう解釈するトランスもいるかもしれませんが、精緻に眺めれば明らかです。
 例えば、「男として」生活していた時のトランスはどうだったのでしょう。何の問題も違和感も感じなかった、というならトランスの必要はありません。心苦しく、解放されない感覚、嘘をついているような重圧感があったはずです。ノンパスであった時も「本来の自分として認識されない」と感じていたでしょう。つまり、男として生きようが女として生きようが〈欺き〉は残るのです。
 〈欺き〉ではない「本当は」の後にくる真の姿とは、「本当は女」「本当は男」などという単純なものではありません。もしも単に「本当は男なのに女のフリをするのが辛い」のであれば、普通に男として生きれば良いことですし、また逆に「心が女なのに男のフリをするのが辛い」のだとしても、「女として」の暮らしを手にしても解放に至らない以上、性自認などが問題なのではありません。要するに、どんな状態であっても〈欺き〉から逃げることはできないのです。TSの防衛が激しいのは、〈欺き〉にこれほどの執拗さがあるからです。

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