罪を越え不安へ

 一つ些末的な反論に答えながら、次に進みましょう。
 「本当の姿を問うなど青臭い考えだ。人はそうそう理想通りには生きられないのだ」という意見です。世間の大勢を占める考えかもしれません。「大人」派と仮に名付けてみましょう。
 最初に指摘しなければならないのは、TSの求めているものは、「大人」派の考える単なる理想イメージといった生易しいものではないことです。現状では社会生活もままならない人もいます。TSの考える〈本当の姿〉とは、予め自らに刻印されていた印のようなものであり、単に未来に想像される漠然としたイメージではありません。しかもこんな型通りの意見を軽々に口にする人は、大抵大した理想すら持っていないものです。「名誉の撤退」を気取りながら、その実矮小な現状を「諦めた結果」であるとしてプライドを守っているのです。ただし、これについては程度の差異に還元することも可能かもしれません。というのも、「大人」派といえど単なる夢ではなく宿命のように負ったものを諦めている場合があるからです。
 さて、注目すべきなのは、ここで導入した「大人」的発想とTS的防衛には、奇妙な共犯関係があることです。共通しているのは、明瞭度の違いがあれ、どちらも〈本当の姿〉を想定していることです。現状とのギャップに苦しむのも、泣く泣く諦めるのも、〈本当の姿〉との関係が苦痛を生む点では同じです。
 いずれの立場についても、現状を「仮染め」として「本当の自分」を守る態度、と心理学的に切ってしまうことは可能でしょう。しかし〈欺き〉にはもう少し先があります。それは負債、負い目という視点です。
 わたしたちが受動的決定により主体として産み落とされます。モノであった自分から切り離され、全体ならざるものとして部分=主体が成立します。この時刻印されるのが「名」「刻印」であり、存在論的性の次元でした。「かつて自分であったもの」を差し出すのですから、譲渡のようですが、むしろこれは一つの負債と呼ぶべきです。なぜなら、モノとしての自分、大切な肉片と引き換えに手にするのは、一つの−(マイナス)、象徴回路に空いた穴だからです。穴であり、中身がないからこそ、主体という空虚な座として言語経済の中で様々な言葉を引き受け、「わたしは男である」「わたしは天秤座である」と流れていけるのです。
 負った負債とは、「本当の名」、つまり〈本当の姿〉です。「わたし」が誰であるのか、「男」も「天秤座」も全的には示してくれず、負債は永遠に繰り延べられます。これを罪と言い換えることもできるでしょう。わたしたちは最初に罪状を言い渡され、その後の人生を罪の償いに当てるのです。生とは、借金の返済であり、罪の償いであると言えます。
 だから、ある意味で負債あるいは罪というのは必ずしも都合の悪いものではありません。それはわたしたちの生に意味を与えてくれるのです。罪を償い終わるまでは、生きている資格があるのです。懲役刑の長さが人生の長さです。罪、あるいは負債とは、物質の時間化した姿です。これは実際の罪や負債について考えてみればよくわかるでしょう。一瞬の犯罪が償いという時間に換算されますし、借金とはそもそも「時間を買う」ことです。モノとしての自分が、人生という時間にかえられたのです。TSと「大人」派に共通しているのは、〈本当の姿〉という想定により、時間を買っているところです。
 だからこそ、「それは欺きではない、罪などないのだ」「本当の姿とは、トランスであることそれ自体だ」という解放的立場には限界があるのです。罪はあってくれないと困るのです。本書前半で「呪われてあること自体が目的なら、呪いからの解放には意味がない」という暗い観測に触れました。もちろんTSが意識的に「呪い」を望んでいるわけがありませんが、「呪われてある」という立場によって身を守っている面があるのです。
 また一方で、「真の姿を考えることなど馬鹿げている、あるがままに生きればいい」という「自然」好きの視点が無効であることもわかります。あるがままではなく、「偽者」という形で〈本当の姿〉から距離を置くからこそ、主体はあり得るのです。
 ここで重要なのは、〈本当の姿〉は背中に刻まれた文字であり、自らの視界からは隠されていることです。しかしその内容が知れないからこそ、時間は稼げます。より正確には、「汝は……」として与えられた「名」に対して、即座に一致してしまわない時間差こそが主体なのです。だからTSがいつまで経っても充足されないことには意味があります。充足しないことそのもの、〈欺き〉があり罪のあることが、主体なのです。
 トランスが男として暮らしても女として暮らしても、ノンパスでもパスでも、結局〈欺き〉という地位に残るのは、〈本当の姿〉が自分自身にもわからないからです。わかっていれば、〈欺き〉のない生き方もできるはずですし、わかってしまっては困るのです。
 「ありのまま」派のナイーヴさは、この点からも理解できます。「ありのまま」も何も、〈本当の姿〉が不可知である以上、「偽者」である可能性からは何人も逃れられないのです。
 さらに言えば、これにより「ネイティヴ」という概念すら危うくなることがわかります。ネイティヴとは「生まれながらの女あるいは男」という意ですが、そもそも本当に「生まれながら」などないのです。ネイティヴとは「生まれながらと自分では信じている者」、正確には生まれのことなどそもそも問わない人たちです。
 存在論的性のことを思い出してみましょう。この性は、刻まれた「名」です。最初に引かれた切断性であり、主体とはこの受動性から生まれるのでした。だからこそ性は根源的であり、自己決定などできないのです。
 ですが、存在論的性とは内容としての認識論的性、つまり広義の社会的性からは一切独立しています。性と言いながら、男とも女とも同定できないものです。染色体検査を含む極限のパスを越えて変更不可能であり、さらに自分自身の認識からのも独立しています。ということは、結局誰にもわからない、ということです。〈本当の姿〉とは、この存在論的性という不可知の審級です。
 しかし、この過程が成り立つ為には、大きな想定が必要になります。それは〈本当の姿〉を知っている者が少なくとも一人いる、ということです。本当に誰一人〈本当の姿〉を知っている者がいないとしたら、「偽者」であることすらできなくなってしまいます。「偽者」という罪を引き受けることは、自分にはわからない〈本当の姿〉を知っている証人の想定と表裏一体なのです。罪によってTS、さらに「大人」派が守っているのは、主体というよりもこの証人なのです。
 しかしこの証人とは一体誰のことでしょう。神様のような絶対の第三者が、ここでは想定されています。もちろん、文字通りに神様と考える必要はありません。「わたし」を産み出したのは、もの言わぬモノのような者に語りかけた大人たちの語らいです。証人とは、この語らいの全体性のことです。「人間」という集合と考えても良いでしょう。
 すると奇妙なことがわかります。「わたし」は「わたしたち」という全体性によって産み出され、これにより証し立てられていますが、一旦「わたし」が成立した後、その「わたし」も「わたしたち」の中に加えられるのです。逆に言えば、主体を産み出した時の「わたしたち」という証人は、既に存在しないのです。最初の証人は、「わたし」の誕生それ自体によってズラされ、抹消されてしまうのです。
 もしも証人が不在だとすると、主体は根拠を失い、「偽者」としての地位すらなくしてしまいます。「偽者」とは本物であり得ること、この可能性自体です。実現せずに可能的な状態のままであるゆえに、時間を稼ぐことができるのですから、可能性がゼロになってしまっては「偽者」であることは意味を失います。茫漠とした寄る辺ない地平へと放り出されてしまうことになります。
 「偽者」の罪状は、より根源的なこの決定不可能性から身を守る機能を果たしています。隠されているのは、〈本当の姿〉ではなく、〈本当の姿〉の決定不可能性、〈本当の姿〉の危うさそれ自体です。わたしたちは「本当は○○なのに××のフリをしているのが辛い」のではありません。本当は何なのかわからないのです。しかも、本当のことを知っている絶対的目撃者、わたしたちの「名付け親」は既に去ってしまっています。
 しかし、このことはわたしたちが「偽者」も「本物」もなく「ありのまま」であることを意味するのではありません。少なくともかつて一度は、読めない「名」を与えられることで産み出され、そしてその瞬間に「名付け親」が去ったのです。〈本当の姿〉の証人が消えてなお、「偽者」でしかあり得ない、という絶対的な不安がここにはあります。「偽者」であるという形で本物である可能性を守り、不安に目を覆うためには、失踪した証人に返済金を振り込み続けるしかありませんが、この証人は二度と帰ってこないのです。
 ただし、証言台までもが消えてしまったわけではありません。「わたしたち」は「わたし」が加わることで変容し、かつての「名付け親」ではなくなりましたが、再び全体性を構成しています。つまり、今度は「わたし」が証言する番なのです。
 主体は受動的に斜線を引かれて生成されますが、その時から既に、なけなしの一票として「決定する側」に与しています。絶対の目撃者、わたしたちが本当は誰なのか教えてくれる者を求めて振り返ったはずが、見えたのは後ろを振り返っている自分自身の背中だったのです。もちろん、この背中の発見は主体として産み落とされた後でしか可能にならない以上、依然として自己決定は不可能です。にもかかわらず、改めて目撃者を探した時、返ってくる答えは「自己決定せよ」というものでしかなかったのです。
 しかもこの決定は、自律的で自在なものなどではありません。群れの中の一人として叫ぶだけです。さらにこの決定の自己言及的なことからわかる通り、決定へと参与した瞬間に、主体は元いた位置を失います。量子力学的な同定不可能性により、自己決定した瞬間に決定された自分と決定に参与した自分は弾け、予想もできない位置に再び置かれるのです。不安の中で命がけの証言台に立っても、その証言自体により自分が自分でないものになってしまうのです。もちろん、ここで得られるのは「本物」ではありません。永遠の「偽者」であることを証すために、再び存在を投機すること、これが自己決定する不安です。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする