女装する女–名もなきモノへ

 「できちゃった結婚」というのは美しい言葉です。
 「できちゃった」という語には失敗の響きがあります。ですが、とにかくそこで子供ができたのです。しかもその後になって、取り繕うように結婚という形式が整えられます。「結婚>妊娠>出産」という外面の良い物語に反し、遡及的に後から結婚が設えられるのです。「できちゃった」のは避妊の失敗ゆえでしょうが、それは否認の失敗でもあり(不覚にも認知!)、非人の失敗でもある(不覚にも人間!)、と詩的にうたうこともできます。
 わたしたちは誰でも、自ら望んで生まれるわけでもなければ、産み出した者にとってすら「計画通り」とは言えない形で誕生します。わたしたちは「できちゃった結婚」の「できちゃった子供」です。トランスにはこの失敗ぶりが見事に集約されています。どうしてこんなことになったのかはさっぱりわかりませんが、とにかく納まりの悪いものが産み出されたのです。
 この納まりの悪いものを納める場所を探したり、ないなら作り出したり、収められるように無理矢理形を整えてみたり、ただ納め場所がないことを嘆いたり、なぜ納まらないのか考えたり、色々な受けとめ方があります。しかし一番核心にあるのは、この納まりの悪さ自体、「なんなんだこの変テコなものは」というわけのわからなさそのものです。そこにあるのは、吹き出した原油がそのまま燃えているようなグロテスクな物質性です。
 トランスの一つの宿命は、この不安な物質性を生き切ることにあります。
 限られた者だけが、不安の中に愚かにも歩を進めます。そしてトランスの文脈で言えば、この勇敢な愚は女装という言葉にこそ回付されるのでは、と感じられてなりません。
 〈欺き〉とは女装の追いつかなさの陰画でした。トランスはトランスである限り〈女〉の還元を運命付けられていますが、再構成は常に「本物」に遅れをとります。この論理的時間差、剰余にいかに対するかが、トランスの分かれ目である、と断じたのでした。そして今また、永遠に手の届かない〈本当の姿〉にいかに向き合うかが問われています。
 スポーツを真面目に練習したことのある人なら誰でも、「分解練習」とでも呼ぶべきプロセスを経験したはずです。ある動作を分解し、一つ一つの動きがどういった身体操作から生まれるのか研究する段階です。テニスをプレーするのではなく、スウィングのフォーム、さらにグリップの微妙な感覚まで、動作をバラバラにしていく作業です。還元の過程と言えるでしょう。
 しかし、この営みだけ繰り返していても上達は望めません。上達のためには必要な段階ですが、どこかで乗り越え、もう一度動作全体を一つのまとまりとして実現する必要があります。ジャブの練習をすることは大切ですが、ジャブという動作をボクシング全体の中で位置付け実行できなければ、ジャブの天才にはなれても良いボクサーには程遠いでしょう。スポーツ指導者が最後には「思いきりやれ」等としかアドバイスできなくなる所以です。
 トランスとは出来上がった何かではなく、遂行するものであり、一つの行為です。最終目標を達成することができなかったとしても、いやできないからこそ、トランスは性=生の様式です。もちろんただ「思い切りやれ」というだけでは話になりませんし、むしろ「思い切り」のためにこそ分解し、還元する必要があります。
 内面に沈潜し、剰余に名前を付けて実体として措定してしまうことは、むしろこの営みから撤退することです。性自認であれ何であれ、固定化したものの前で座していることは、〈本当の姿〉を知っている証人の帰りを待つことであり、罪により身を守ることです。名付け得ないまま剰余への抵抗を生きること、あるいは剰余という抵抗を生きること、それは要素を極めながらなお最後には不安の中へ「思い切り」飛び出す選択です。
 あくまで要素しか信じないリアリズムには、女装の名がふさわしいでしょう。ただし、この女装は極限まで還元を極めた果てに「思い切る」ものであり、部分的な〈女〉のトレースで事足れりとするようなものは論外です。女装することを用具として自己から切り離すのではなく、卑屈な方便として「女装ですよ」と呟くのでもありません。永遠の「偽者」であることを引き受けつつ、一方でこれをただ是とするのでもなく、与えられた「本物」にかしずくのではなく、「偽者」でありながら新たなる「本物」の創造に自己を賭ける、命がけの「女装」です。ポエジーをもって圧縮表現するなら、この者は女装して生きる女のことです。
 この道は、多様性について論じた時にあげた「自らをゴミとする」道です。決して自足した「自己決定」などではありません。自らを撃ち、半ば狂気の中へと進み、なお「偽者」として生まれ変わる道です。これはトランスをトランスする挑戦ですが、越えた瞬間に再び失墜します。そして失墜の地点は予想もつかず、ただ地に墜ち、一人のトランスであることを確かめるのです。
 そこはただ風が吹き抜けるだけの無辺の草原です。方角もわからなければ、道しるべもありません。どの道が正しいとも知れなければ、知っている人もいないのです。
 あまりの寄る辺なさに、目眩がするかもしれません。足元がふらつき、身体を支えようと足を踏み出すでしょう。この時、とにかく一歩が刻まれるのです。生まれ持った名など知らず、知る者も知らず、ただ一瞬の主体の失神から、前とも後ろともわからない方角に進んでしまうのです。
 「ああ、あれは偶然の一歩だったんだ、自分でもそうしようと思わず、ただ踏み出したんだ」
 方角を決めたのは、確かに「わたし」であった誰かですが、既に「わたし」は新たな「わたし」となり、もう歩いています。真贋の彼岸、罪の向こうへ、性別すら忘れた者として。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする