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存在論的性、失敗

存在論的性、失敗

 言うまでもなく、実際のトランス現象では正確には「女であること」そのものとは言えない「女らしさ」の断片をもって「女であること」を仮に実現しようとしています。心理・社会面だけ考えるなら、容器ではなく中身だけでも十分です。しかし、この現象を煮詰めていけば、どうしても原理としての存在論的性とこれを巡るトランスの矛盾があぶり出されてきます。

 存在論的性は内容を持たないものであり、言うなれば「名」「刻印」そのものです。識別の可能不可能や認識とは独立したものです。これを「男であること」「女であること」と表記しましたが、この「であること」は男あるいは女のあらゆる属性を剥ぎ取られた剥き出しの存在自体である以上、「男」「女」という修辞をつけることすら不正確です。そして「であること」は存在するものではなく存在自体ですから、モノと考えることもできません。あるのは「男/女」を分ける「/」です。存在論的性とは、言語経済における社会的ジェンダー記述が書き込まれる差異性自体ですから、基底にあるのは「A/non A」、「○○ではない」という否定のスラッシュだけです。
 〈生き方としてのトランスジェンダー〉では「多様な性」「性のグラデーション」といったことが語られます。第二章ではこれについて一定の意義を認めました。しかしトランスが焦点とするはずの存在論的性を極めると、そこにあるのはグラデーションどころか「/」だけなのです。
 「/」だけですから、存在論的性は厳格に二分的です。さらにその両側に位置する何かも実質をもたないのですから、この「/」は世界に引かれた一本の線です。つまり広大な地平に線が引かれ、一部が切り取られる、という構図が最初にあります。
 「/」が示しているのは「これは部分である」「全体ではない」ということです。「/」の両側にあるものはまだ存在していませんから、「/」が示せるのは、「AとBがある」や「部分と部分がある」ではなく、ただ「少なくとも全体ではない」だけなのです。ですから、「/」は二つの部分を分断するというより、全体と部分の間に引かれていると言えます。「男/女という二種類の『人間』がいるのではなく、『人間』の失敗形として男/女がある」というラカン派精神分析的な見方をするなら、「完全体」に斜線が引かれ、部分として分離されたものが男や女なのです。
 わたしたちは誰でも、大人たちの語らいの中に産み落とされます。初めから自分が話すのではなく、語られる対象として誕生するのです。言葉を知らない乳児に語りかける大人たちの姿を想像してみて下さい。そして自らも主体として言語経済に参入するということは、もの言わぬモノであることをやめることです。語るということは、モノであることを諦め、「わたしは男である」「わたしは教師である」「わたしは天秤座である」と流動する空の容器としての「わたし」になることです。自足したモノにスラッシュが入れられ、自分にとって大切だった肉片、つまりモノとしての自分自身を手放します。精神分析の用語では、これを去勢と呼びます。去勢により、わたしたちは存在を差し出し、代わりに主体自身が対象となり、象徴的交換における場、主体という空虚な場を手に入れます。
 存在論的性の根底にあるのは、この去勢の「/」です。つまり、「男/女」のアーキタイプは「全体/部分」「存在/主体」であると言えるでしょう。だからこそ性は二元的なのです。
 だからといって、「厳格に二種類の性しかあり得ない」というわけではありません。性を駆動している原理が「/」に拠っている、ということであり、そこから産み出される現象は多様です。そしてトランスこそが、その好例と言えます。
 トランスの焦点は「女らしさ」ではなく「女であること」にありますが、これを徹底していくと絶対到達不可能な二元的次元があることがわかります。存在論的性は内容をもたないがゆえに、修正不可能です。そして結果として産出されるのは、ネイティヴになり切れない者としてのトランスです。「全体になり損ね、部分として主体化する」ことを一つの失敗ととらえるなら、トランスは失敗に失敗した者とも言えるでしょう。極めて二元的な原理に沈潜することで、逆説的にも二元論に納まりきらないものが産み出されてしまったのです。トランスの目的は女になることであってトランスであることではないにも関わらず、永久に女には到達せずトランスはトランスである、という逆説がここにあります。
 これは〈生き方としてのトランスジェンダー〉について問題にした、「そもそもtransという以上、「男/女」が根底なければ成り立たない」という矛盾とも対応しています。結果についてジェンダーフリーや多様性を訴えるにしても、原理にあるのは「/」です。これがなければ、transということ自体が意味を成しません。そして一番大切であるはずの「/」の領域が絶対に越えられないからこそ、transは完遂せず、トランスは永久にトランスであり、永遠の失敗者なのです。
(去勢とトランスについては、文藝別冊『押井守』収録の「ガイノイド、ニューハーフ、素子の去った後」も参照下さい。現在の「性同一性障害」治療プログラムの背景にある思想とは齟齬をきたすものであり、トランスセクシュアリティの解放という点からも批判が予想されますが、敢えて反動寸前の試考を提示するものです)

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