ブスとトランスセクシュアリティ

 ブスという言葉があります。
 この言葉には、単に「容姿がそれほど優れない」というだけでなく、全人格を否定するような響きがあります。大袈裟に言うと「人間失格」です。ブスとは男から〈女〉として認められていない女ということですが、それは「モテない男」の対称とは異なります。ブスという語は単にモテないとか美しくないことを示すのではなく、人としての価値を奪うものなのです。
 もちろん、この人たちも女です。染色体を調べればすぐわかりますし、戸籍を確認しても良いでしょう。ですが、ここで問題の核になっている〈女〉が生物学的性と無関係なのは明白です。
 ブスは、〈男/女文化〉から外れ、〈それ以外〉のどん底まで落とされた女なのです。対象としての認められていない存在です。そして大切なことは、ブスでも人間である以上、一個の主体としては存在しているはずだ、ということです。いくらなんでも、文字通りの意味で「ブスは人間ではない」と思う人はいません。しかし、「十分に人間である」ことは言語経済へと疎外され、去勢された主体となることです。そして〈女〉ということでなら、〈男/女文化〉の中で対象として流通可能になることが主体の条件です。ブスは主体であって主体ではない、宙ぶらりんの存在であり、〈女以前の女〉が剥き出して現れた形なのです。

 女子カルチャーには、「ブスへの配慮」とでも言うべき巧みなシステムが構築されています。よく男たちが「女の『可愛い』は信用できない」と言いますが、女たちは「可愛い」という実に便利な言葉でブスを救済します。男から見れば「ブス」の一言で一蹴されてしまう女も、それなりの「可愛さ」を認め、持ち上げておくのです。このような救済制度があるのは、女が〈男/女文化〉に完全に隷属はしない、ということを意味しています。〈それ以外〉を拾い上げてやっておくことで、純粋な男の対象になってしまう危険を回避しているのです。ブスという形で〈それ以外〉の価値を留保しているのです。
 「明日は我が身」という配慮もあるでしょうし、「ブスにも優しい自分を演出」という計算もあるでしょう。また、女社会内部でのうまい「負け具合」を狙ってもいる場合もあるでしょう。ですがそれらと同時に「ブスを否定してしまっては何か自分の一番大切な部分が一緒に捨てられてしまう」という、形にならない恐れがあるのではないでしょうか。女にとっての女の本質は、むしろ〈女〉ではないところにあるからです。
 どんな女も成長の過程で、多かれ少なかれ〈男/女文化〉を受容し、「大人の女」「対象としての地位を受け入れた女」へとなっていきます。場合によっては、極めて洗練された「商品としての女」として振舞う人もいるでしょう。だからこそ、ブスは必要なのです。男にとってはある意味「用なし」のブスですが、女にとっては大事なスケープゴートです。〈それ以外〉を完全に廃棄はしないことの証として、女社会には一定のブスが不可欠です。どんな美人もうまくブスとコミュニケーションを取り、自分が「〈女〉になるあまり女を捨ててしまった」わけではないことを証明しておく必要があるのです。
 トランスとブスの関係を考えた時、最初に指摘できるのは、ブスがトランスにとって最も近付き難い〈女以前の女〉である、という点です。
 色々な事情でトランスとして生きる人がいます。ですから、一括りにはできないことですが、「ブスになろう」と思って女を志す人はあまりいないでしょう。TSカルチャー的に「本来の状態に戻る」と解釈するにせよ、どうせ女として生きるなら、社会的に評価される〈女〉でありたいと望むのは当然です。ネイティヴだってできれば美人になりたいでしょうから、「未だ女ならざる者」としては早めに美人への道をキープしておきたいのが人情です。
 ただ逆に言えば、これこそトランスが女ではないことの証明です。ネイティヴのブスであれば、「ブスではあるけれど女」という所から出発します。しかしこの出発点は、トランスには絶対到達できない〈女以前の女〉の領域にあります。トランスは女の外部から〈女〉に向かうのであり、どんなに根の深いTSであっても、女という集合を外から見ている部分があるのです。
 これが女装カルチャーになると尚更です。ブスなど視界にすら入っていません。トランスではない普通の男でも一度くらい「女になってみたい」と考えるものですが、そんな時にブスになった自分を想像している人はまずいません。男のフィルタからブスが欠落しているのと同様に「女の子になりたいの」などと言い放つ女装者もまた、ブサイクな女になった自分のことなど考えもしていないのです。余談ながら、そういう人に限ってどう見ても「ブス」だったりするものです。
 この点で、ブスはトランスから一番遠くあるものです。「女になる」の最終的な壁を表象するのがブスである、と言えるでしょうし、女装カルチャーにおいては初めから捨象されている領域です。
 トランスとブスのもう一つの関係性は、まったく反対にトランスはブスに最も近い、という点です。
 トランスは、そのスタンスに関わらず、ネイティヴの女そのものではありません。見た目が女だとしても、生殖能力もなければ、セックスに使える性器を備えていない場合がほとんどです。永久に「欠陥品」なのがトランスです。
 第二の「女になる」についてだけなら、ネイティヴの女を遥かに凌駕するほど〈女〉になれるトランスですが、それでも実は十分に〈女〉ではありません。女から見て女ではないことは前述の通りですが、「欠陥品」であるがゆえに、男にとっても不十分なのです。性器の不完全性一つとるだけでも、「用なし」ぶりでブスに劣らないことは明白です。トランスはある意味究極のブスなのです。
 「ニューハーフは女っぽさを売りにしているじゃないか。正に『商品としての女』ではないのか」と思われるかもしれません。ですが、ニューハーフは「実は男」というところに重点があるのです。不完全さそれ自体を一周回って商品化しているのです。つまり、「女を売りにしている」というよりは、「ブスを売りにしている」とでも言った方が正確なのです。
 最も遠く、最も近い、この二つの関係にあるブスとトランスは、もちろん同じではありません。トランスとブスが「売り物にならない」という意味で近いとしても、〈女以前の女〉の有無という決定的部分で両者はすれ違っています。ですが、「女になる」ということを目指して這い上がる点では、やはり両者には共通の何かがあります。
 女の中には、前述した「対象としての自分と主体としての自分」という葛藤をほとんど意識せずに成長する人もいます。男の目から見た「商品価値」を備えながら、〈女以前の女〉の部分ともうまく融和させることに成功したケースです。そのような人が「美人」と呼ばれるのです。
 一方でブスは、このプロセスで決定的に失敗してしまっています。容姿という意味では生まれながらにブスであるかもしれませんが、ブスが「自分はブスである」という自認を持つのは、ある程度成長してからです。成長して始めて「どこかで失敗したらしい」と気付くのです。そこから出発して、ブスは〈女〉としての適応を果たそうと這い上がります。その方法には様々なヴァリエーションがあるでしょうが、何らかの形で対象としての評価を得るために奮闘するのです。普通の女がネイティヴスピーカーだとすれば、ブスは外国人です。
 この関係は、ネイティヴの女とトランスの関係と似ています。スタートの地点は異なりますが、トランスも〈女〉に近付こうと努力する者です。彼女たちもまた「永遠の異邦人」ですが、それでも少しでも〈女〉であろうとするのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする