「女になる」

 前回触れた〈男/女文化〉と〈それ以外〉という構造を導入した上で、「女になる」ということについて考えみます。MtFとは「男から女になる」ものだからです。TSカルチャーには「本来の状態である女に戻るだけ」という解釈もありますし、一方女装カルチャーでは「週末だけは女の子になる」などという妙な表現が使われることもありますが、とりあえずは「女になる」ということで概括してみましょう。

 第一に、何度も述べたように、GIDの「治療」アプローチを踏んでも「完全に女になる」ということは不可能です。ホルモン治療、SRSと進んだ所で、染色体が変わるわけでも子供が産めるわけでもありません。
 TSカルチャーでは「奇形」という概念が使われることがあります。「自分たちは奇形の女なのだから、それを治療すれば普通の女と変わらない」ということです。ですが、この「奇形」は残念ながら完全に「治療」することができないのです。
 第二に、ネイティヴの女でも「女になる」ものです。「イイ女になったなぁ」などという時の、「女になる」です。前述の通り〈女〉とは生まれながらのものではなく、学習の結果「なる」ものです。つまりこの場合の〈女〉とは、生物学的な女ではなく、社会的な女、正確には〈男/女文化〉の中で対象として評価される〈女〉です。
 「イイ女になったなぁ」という時、それは女が〈男/女文化〉とうまく折り合いを付けられたことを意味しています。対象としての〈女〉に成り切ることはできないにせよ、一定の受け入れに成功したということです。
 このような〈女〉であれば、トランスにも「なる」ことが不可能ではありません。ここでの〈女〉は〈男/女文化〉の内部で流通している記号の集積でしかありませんから、訓練次第で習得可能なものです。実際、フルタイムや潜伏しているトランスには「イイ女」が沢山います。
 以上二点を鑑みると、トランスが「女になる」ことには原理的な不可能性が含まれている一方で、ネイティヴ同様努力次第で「女になる」ことができることになります。矛盾しているようですが、二つの「女になる」では意味がズレているのです。
 するとトランスが「なる」ことに成功した〈女〉とは、実に奇妙なものであることがわかります。ネイティヴであれば、第一の意味の「女」は生まれながらにして手にしているものです。その女が、欲望経済で流通する〈女〉として承認されることが第二の「女になる」です。つまり、第二の「女になる」が第一の「女になる」に接木されるのが、本来のプロセスなのです。
 ところがトランスにとって、第一の「女になる」は不可能です。にも関わらず第二の「女になる」だけは達成できるとなると、第二の「女になる」だけが宙に浮いている形になります。言わば上澄みとしての〈女〉です。トランスにできる精一杯の地点がここなのです。サイボーグ的に「女らしさ」を身に纏った者としてのニューハーフという表象が、これに近いかもしれません。
 男にとってなら、これでもそこそこ〈女〉であると言えます。第二の意味での〈女〉は、男の欲望を反映した「女らしさ」の実現とも言い換えられますから、男の幻想にはよくマッチするのです。もちろん、身体上の不完全性を考えれば、男の視点にとっても完全な〈女〉ではありません。
 しかし、より重要な論点を含むのは、女の目から見たトランスです。トランスが全力で辿り着いた上澄みの〈女〉は、紛れもなく「女らしい」にも関わらず、決定的なところで女ではありません。一つには身体的な欠陥が挙げられますが、これは男性の目から見た場合と同様であり、さほど注目すべき点ではありません。女の目から見た上澄みの〈女〉が不自然なのは、〈女以前の女〉とでも言うべき領域が欠落しているからです。
 〈女以前の女〉は生物学的要素に還元することのできないものです。染色体が女であることと〈女〉として承認されること、この二つの狭間にあるのが〈女以前の女〉です。その場所は「女になる」ことを目指して女たちが這い出してくる淵であり、第二の「女になる」の暗い出発点です。〈女〉になった女が振り返った時に発見するもの。この〈女以前の女〉は、そこから出る場所ではあっても向かう場所ではありません。トランスにとって第一の「女になる」は不可能でしたが、女にとってもそれは「なる」ものではなく、それゆえ〈女以前の女〉は「なる」という方向性では到達できない領域です。「〈女〉になるだけでは女になれない」という逆説がここにあります。
 おそらくは、女にとっての女の本質はこの〈女以前の女〉にあるのです。奇妙にも女とは、〈女〉ではないところに根を持つものです。つまり〈それ以外〉です。ただし〈それ以外〉とは、この表現の他律的なところに表れている通り、それ自体として直接に名指すことのできないものです。生物学的性に還元することもできず、一方で流通する〈女〉でもない領域、「それは女ではない」という形式でしか示せない女です。あくまでも〈男/女文化〉という仕組みがはじめにあって、「そこからこぼれ落ちるもの」という表現しか許されないぬばたまの深淵です。
 そしてトランスが最も接近し難いのが、女のこの部分です。男にとっては幻想のフィルタからこぼれ落ちていながら、女にとっては第二の「女になる」よりずっと本質的な領域です。「女以上に女らしい」ニューハーフや週末女装娘が、女の視点から見たら実にウソ臭い、というのもこのためです。
 もちろんトランスであっても、〈女〉の記号の集積としてなら相当な水準まで達することはできます。女装と割り切っていれば、それだけでも十分かもしれませんし、広い意味での「男にとっての女」であり得るだけでも価値があります。いずれにせよトランスには、最終的に絶対到達不能な領域が、生物学的限界以外に存在するのです。
 一つだけ追捕しておきます。
 この分脈を極めて男性中心的なアンチ・フェミニズムとして誤読されてしまう方がいらっしゃるかもしれません。確かに、男/女関係を均衡的であるとは考えていません。明白にそれは不均衡です。
 ですが第一に、言うまでもなく、ここで「男の欲望」と呼んでいるものは特定の男性の欲望ではありません。社会生活の上で具体的男性の個人的願望に振り回される、などという意味ではまったくありません。
 第二に、十分に「主体的」ではあり得ないある種の去勢を被った形でしか生きられないのは、別段女に限ったことではありません。女が男にとっての対象=穴であらざるを得ないように、男もまた全体性にとっての対象=穴であることが求められます。主体subjectという語には「 臣民、被統治者」とう意味があり、形容詞として用いれば「従属する、支配を受ける」という意味になります。主体とは、語らいの中へと疎外され、対象となって初めて成立する逆説なのです。

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