〈男/女文化〉と〈それ以外〉
男の欲望の働く回路、すなわち主体としての男が対象としての女を見る回路を〈男/女文化〉、その外部にあるものを〈それ以外〉と仮に名付け、一度整理してみましょう。
世の中のほとんどの男は多かれ少なかれ〈男/女文化〉に属することになります。平たく言ってしまえば、広い意味での「やりたい」で駆動されている文化です。このスクリーンに映し出された女は、男性性欲的な幻想=ファンタジーというフィルターを通しての女でしかありえません。どんなに迂路を経ていても、やはりそれは「幻想のオンナノコ」になってしまいます。
このファンタジーの劇場においてだけ、男は主体的でありえます。これは単に男が〈男/女文化〉の主人である、ということではなく、そのように主体的に振る舞う劇場にある限りで、男は全体性から欲望され得る、ということです。劇場という箱庭の中では男は主体であり、女を見る立場ですが、その箱庭全体にとっては見られる立場です。「こんなに主体的にふるまっているボクを見てくれよ」というわけです。人は幻想=物語の中に登場人物として登録されてこそ、安定して「人間」でいられるのです。だから男はこの幻想=物語を堅持しようとしますし、女がちょっとそのファンタジーから外れる言動をしたりすると、とても傷付いてしまう時もあります。
一方で、女はこの劇場の内部においては原則として対象でしかありません。これは女性の主体性を否定しているのではなく、〈男/女文化〉を閉じた経済として考える限りでは「対象としての主体」という逆説においてしか自己実現できない、ということです。いわゆる「女性の性欲」を否定するのではなく、圧縮表現してしまうなら、「女性の性欲」は既に「男性の性欲」の一部である、ということです。そのため女の心には、「対象として認められたい」という部分と、「ただの対象になってしまったら、『本当の私』はどうなるの? 『本当の私』を見て」という葛藤が生まれます。思春期の女性等には、それが原因で神経症的になってしまうこともあります。女が自らのアイデンティティ形成において、「女であること」を男より意識する所以です。
このような一極的象徴回路が「社会」をドライブしている以上、どうしても残りができます。網ですくいきれない部分が残るのです。男でもそこに転がり込む人がいます。女ではかなり多くの人が、少なくとも人生のある一時期に〈それ以外〉を通過します。
そこはとても「子供っぽい」場所ではありますが、ヒトである限り残り続ける部分です。ヒトの性は言語にからめとられてる以上、「本能」すら既に構造化されています。「本能」が「ある」のではなく、振り返った時に見えるもの、それを「本能」と呼ぶだけです。わたしたちはそれ程スッキリと「オトナ」にはなれません。
〈それ以外〉から見ると〈男/女文化〉はすごく暴力的でガサツに見えるものですし、逆に〈男/女文化〉から眺めると幼稚で話がまどろっこしく映ります。
女は、男の欲望の対象=商品としての自らを望みつつ、常に一定の距離を保とうとします。この辺りが、男から見て女が「まどろっこしい」「ズルい」生き物に見える所以なのかもしれません。どんなに主体的であろうとしても、対象としての自分を捨て切ってしまっては〈女〉でありえなくなってしまいますから、やがて多かれ少なかれその部分を受け入れるようになります。対象に「成り下がる」こと自体が恍惚にも似た悦びをもたらすことすらあるでしょう。大人の女とはそういうものです。ただし、何人たりとも「大人に成り切る」などということは不可能です。葛藤の消える瞬間などやって来ません。