「認められないこと」の価値を認める

 「思春期としてのトランジション」という視点を提示しましたが、このトランジション(性別の移行)とそこからの脱却、「卒業」に関して、常々考えていることを一つメモしておきます。見落とされがちにもかかわらず、当事者のトランジション後にとっては思いのほか重要なことです。

 トランジションというプロセスは、トランスセクシュアリティの核心部分であり、またケースによっては多大な労力を要してしまう危険な段階です。その前後については、それぞれの悩みがあるなりに社会的には「男」「女」という位置づけがあります。しかし途中の状態は、容姿等もどうしても不自然で奇異になり、不必要な注目を浴びるなど、普通では考えられない種類のストレスを避けることができません。
 それでも多くの人々がこれを突破できるのは、それだけ「向こう」にあるものが希望を放っているからであり、これに賭けているからです。多少の困難があろうとも、「前」の状態よりはマシですし、階段を一歩一歩上がる悦びというのは躁状態にも似た快感をもたらすものです。
 ただ一つ、注意しておかなければならないことがあります。
 それは、ここに投じられたエネルギーというのは、最終的に決して評価されない、評価されてはいけないということです。
 各人のスタンスにも依るため一概には言えませんが、ノンカム完全潜伏(染色体上の性別を原則として伏せて生活する)を一応の着地点とするなら、出来上がるものはMtFで言えばただの「女」(しかも「不具」の)であって、「幾多の困難を乗り越えてきたトランスセクシュアル」などでは決してないのです。ノンカム完全潜伏(当然、完全なパスが前提となる)を基準にするなら、それまでの努力は評価されないどころか、評価されてはならないのです。評価されてしまうということは「トランスセクシュアルである」、つまり染色体上の性別が知られてしまっていることになります。すなわち、投じられた労力に対する報酬が「認められないこと」である、というなかなかに皮肉な状況がここにはあるのです。
 「自分のためにやってきたことを認めてもらおうとは、おこがましい」と思われるかもしれません。もちろん、そんな主張をしようというのではまったくありません。努力が評価に結びつかないことなど、世の中にはいくらでもあります。加えて、この問題はそもそも一般的社会的評価を巡っているものではありません。見るべきは、「評価されないこと」「認められないこと」「それとわからないこと」自体が大きな重きを置かれている、というこの過程の構造的側面です。
 当然ながら、ノンカム完全潜伏を目指さず「トランスであること」にアイデンテイィティを求めるなら、この問題は回避できます。この視点は、後述するように同化主義的なトランスセクシュアルにとっても重要です。しかし、わたしを含めて多くのトランスセクシュアルが最終的には染色体上の性別を隠そうとするでしょうし、そもそも「トランス」である以上、程度の差異こそあれ必ず移行的要素を持っているはずです。
 それゆえ、少なくともある種のスタンスのトランスセクシュアルにとっては、この構造的問題を完全に避けて通ることは不可能です。「向こう」を目指して必死で積み上げて来たものが、対社会的にはある日突然まったく無価値になるのです。それどころか、基準が「MtF」から「女」にシフトした途端、マイナスに転じすらします。女として完全であることなど、もとよりトランスには不可能だからです(言うまでもなく、「完全な女」という概念にも多いに疑問はありますが)。
 これは「トランスの含む二律背反と恋愛」で触れた問題をやや視点をズラして見直してみたものです。トランジションの後半から「終点」には、おそらくは避け難くこの「自己評価の急転落」という危険が横たわっています。トランジションを急いた場合、スタートが遅かった場合、身体的条件が困難であった場合などに、より極端になることが予想されます。トランジション後期に鬱にとらわれるトランスセクシュアル(特にMtF)を時々見かけますが、その一因はこの辺りにあるのではないでしょうか(少なくともわたしには経験があります)。
 更に言えば、「普通の女(あるいは男)として生きていく」と言いながら、その「普通」を作るゲタの部分に相当のエネルギーを注ぎ込んでしまったため、認められずかつ認められては困るゲタに関する話題ばかりが豊富になってしまう、ということがあります。ゲタの上の問題についてすら、ゲタ自体との関係の中で考えてしまう傾向があります。こうなると、せっかく普通の人間として暮らせても、行動や思考において制限のある偏った人間として見られてしまう危険があります。わたし自身「もうトランスのことは話したくない」と思いつつ、カムしている相手と会うとついそこに結びつけてしまいがちですし、日常の憂さをこんなブログに書き付けたりもしているわけです(笑)。
 こうした問題に対する対策として、一つには、早い段階から自分の目標について冷静に考え、ソフトランディングの準備をしておくことです。現在の「性同一性障害」治療プログラムはかなり進行の緩慢なものであり、是々非々の意見があるとは思いますが、よくよく自分自身を見つめ、これから起こることを十分に予想する意味は、決して小さくありません。わたしのようなフライング組は、自己判断した責任として、ソフトランディングに必要な心の準備についても、自力で整える義務があります。
 もう一つ大切なことは、「認められない」ことの価値を認めることです。当たり前のことですが、正にこの「認められない」を目指してやってきたことなのですから、それを手にしたことは一つの大きな勝利なのです。(MtFの場合)「女として」は実に貧しく、世間的にはほとんど無価値かもしれませんが、これこそが求めていたものであることは確かです。誰一人認めてくれなくても、否、正に「認めてくれない」ということ自体を、おこがましいほどに自分で褒めてやって良いのです。ここにこそ、スタンスの如何を問わず「トランスであること」を完全に手放さないことの効用があります。
 こんなことは、言われないでも多くの当事者が実行していることかもしれません。しかし、手にしてしまったものの価値というのは、往々にして軽く見てしまいがちです。自己評価が低下しすぎる徴候を感じたら、無理にでも持ち上げてやるくらいで丁度良いのです。この点でも、カムしている友人やパートナーの存在はとても大切です。適切な相手が身近になく、なおかつ自力で支えるのが難しいと思ったら、神様のことを考えるくらいでも良いと思います。というより、こういう時こそ神様という絶対的な第三者の出番なのではないか、とわたしは信じています。
 「認められないこと」は偉大であり、そのマイナスゆえの圧倒的価値は、不合理なまでに信じて良いのです。

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