「女らしさ」と「女であること」を巡って

 MtFトランスが問題にするのが「女らしさ」ではなく「女であること」を考えると、色々面白いことがわかってきます。
 まず初めに、この論点の違いを確認しておくと、もしも「女らしさ」が問題なのだとしたら、例えば「女っぽい男」という選択肢もあり得た訳です。実際、社会構築主義的フェミニストであれば、こちらの考えを支持するでしょう。この時点で、既にかなり多くのMtFが勘違いしています。つまり彼女たちは「女として生きる」「女である」と言いながら、実は単にgender roleとしての「女らしさ」のトラップにはまっているだけだからです。
 この段階はクリアできたとすると、では問われる「女であること」が何か、ということになります。とりあえず染色体などの生物学的次元については手が届きません。本当はまったくの染色体レベルの性など初めから問題ではなく、存在論審級における刻印こそが核心にあるのですが、長くなりすぎるので詳解は別の機会に譲ります。そこで社会的次元での「女であること」が次善目標となります。
 「社会的性が問題ならTGしか対象にできず、身体レベルの違和を訴えるTSは異なるのではないか」という声が聞こえてきそうですが、実はTSも広義の社会的性しか問題にしていません。TSが気にするのは胸のふくらみや性器の形状など、社会的に規定された「女」であって、程度の差こそあれ決して「生物学的」な性を問うているわけではありません(仮に染色体を変更し子宮を作り出す技術があったとして、この水準では「女」であるけれど身体の外形が「男」であるような状態をTSが受け入れるだろうか?)。衣服や外見か、社会生活全般か、さらに私的領域でしか明らかにならない性器の形状か、といった程度の違いがあるだけで、TSであろうがTGであろうが、関係性における性だけが問題なのは明らかです。衣類から顔、容姿、性器の形状と、「外見」(自己−他者をめぐる社会性に訴えるもの)の連続体があるだけです。
 さて、このように純粋な染色体レベルでも「女らしさ」というgender roleでもないとなると、そのような「女であること」とは何か、という問いが立てられます。「染色体上女ではないのに、女らしさではなく女であることを求めるとはどういうことか」という社会構築主義者やレズビアン・フェミニストの攻撃をかわさないといけないわけです。そこで発明されるのが性自認gender identityという概念です。
 gender identityとgender roleは便宜上別のものです。「男っぽい」女であっても、自分を男と思っているわけではありません。このアメリカ流自我心理学のなれの果てから生み出された貧しい概念をもって、なんとかトランスは「女であること」にしがみつくのです。「染色体上は女ではないが、女と自認している。別に女っぽく振る舞いたいわけではない」ということです。
 しかしこの考えが実に苦しまぎれであることは、普通の方でも少し考えればわかることでしょう。社会的に規定されたgender roleから独立し、染色体上のsexとは異なり、さらに性的志向(恋愛対象)sex orientationとも無関係、という無色透明なgender identityとは何なのでしょう。identityとは他との関係から醸成され最後に立てられるものであり、出発点に主体があるわけではありません。主体性や自己決定に礎を置くやり方は、皮肉にもウーマン・リブ的フェミニズムとそりが合ってしまいそうですが、この方法論が社会問題の最前線でとりあえず弾を打ち返すのにしか使えないことは明らかです。「人間」が成立したずっと後の上澄みの領域でしか使えない言葉で、「人間」の構築性自体が議論の対象になる時にはとても援用できません(逆に言えば、職場での処遇などの表層的問題解決については十分実用に耐える)。
 一般の方がsex orientationについては関心を持ち、gender roleやgenital sexについても理解できるのに対し、gender identityという概念になかなかピンと来ないのは故なきことではありません。恐ろしいことに、「女であること」を「女らしさ」から考えてしまうナイーヴなMtFと社会一般の大衆的認識は通底してしまうのです。
 時々驚かされるのですが、ネイティヴの女性は意外なほど「女」をgender roleやsex orientationから考えています。これは染色体上の性(と性自認との一致)が保証されているから、とも取れそうが、よく考えると違います。染色体上の性別など、ほとんどの方は自分でも知りません(余談ですが、染色体検査で2万5千円くらい取られて、当然のようにただXYが確認されただけで、すごく損した気分になりました)。要するに「女」といったら広義の「女らしさ」と「性対象が男であること」にすっかり絡めとられているのです。
 「女らしさ」と「女であること」の関係からネイティヴ女性に対して神経を尖らせ、カムしていると単に「非常に女っぽい男」と取られているのではないか、とピリピリしていた経験が個人的にありますが、実はそもそも彼女たちはそれ以上のレベルで「女」を考えていないのです。「非常に女っぽい」だけでもう「女」なのです。そして「女」認識となったら、細かい身体的特徴のことなど問いもしません。わたしは、カムしている相手に、プレオペであることを伝えてとても驚かれた経験があります(註)。
 このような「意識の低さ」にラディカル・フェミニストは苛立つかもしれませんが、トランスセクシュアル/トランスジェンダーにとっては都合が良いというものです。上で触れたような徹底的なgender identityの析出化作業など経ず、「女らしさ」で話を終わらせるような態度でも、十分「女」でやっていけてしまうのです。逆に言えば、トランスセクシュアル、さらに「性同一性障害」という概念自体が、大衆迎合的で反動的な思想の産物である可能性が多いにあります。
 さて、個々人としての問題は、ここで何を選択するかです。以上の論調から言えば「トランスジェンダーであることにアイデンティティを持ち、二極的ジェンダーシステムと闘うのだ!」などと息巻きそうですが、まったくそうは考えません。システムに外部などありません。もしシステムに訴えるとしたら、システム内的な裂け目からはじめるしかなく、対システムという姿勢をとってしまった時点で負けが決定するばかりか、論として検討に値しなくなります。
 迎合的であることがイコール悪と決めつけられないばかりでなく、そもそもトランスは本質において迎合自体を目的に生み出されたのかもしれないのです。そんな人々に対し、徒に社会構築主義を唱えてもどうしようもありません。大体、この「構築物」は非常にしっかりできているので、押しても引いてもビクともしませんから、結局何らかの形で相乗りするより生きる道はないのです。
 わたし個人について言えば、原則として相乗りで行きます。表面的な関係になればなるほど、同化主義のスタンスに近い形で生活したいですし、実際不要なカムなどしません。わたしは大学から給料をもらえる特権的な階級などではありませんし、日常生活で論を打っている余裕はありません(わたしたちに言わせればネイティヴ女性はそれだけで特権的ですし、またノンパスはパスしているMtFを特権的だと思うでしょうが)。上のような経路と自覚を経てなお、反動的同化主義を活用しないと精神的にも経済的にも成り立たないのです。
 ただ、おそらくは自分でも選べないところで、「生き方としてのトランスジェンダー派」以上に「バカをやってしまう」ことがあるでしょう。誰であれそれほど「オトナ」になれるわけではないからです。無意味な「カムアウト」(広義の)、「女」を巡ってつい論をうってしまうこと、同士「バカ」諸氏であれば身に覚えがあるのではないでしょうか。
 これは一つの失敗ですが、トランスという存在自体が「失敗作」であり、さらに人は「できちゃった」としか言いようのない者として生み出される以上、この失敗がまた人生を導いていくものなのかもしれません。
 余裕しゃあしゃあの社会運動家や大学人の言説ではなく、うっかりオトナになりきれずに自らを撃ってしまう時だけ、システム内の亀裂は示され得るのであり、その高速のパフォーマティヴィティにおいてのみ、ヘゲモニーは撹乱されるのです。
註:このことはもう一つ重要な論点をはらんでいます。「普通の女として生きたい」「女と認められたい」と言いながら、トランス自身こそ最も自分を男と考えているのです。もちろん「男として生きたい」と思っているわけではありませんが、何らかの形で自分に「男」がある、ということを知らないトランスはいません(否定するとしたらそれこそ「別の病気」です)。ノンカム完全潜伏ではこの傾向が顕著になります。なぜなら本人だけが「男」の部分を知っているからです。「女であること」を目指した果てに、自分だけが(部分的にであれ)「男」だと思っている、という実に皮肉な状況がここにあります。
 この「逆の抑圧状態」(gender identityにかわって染色体上の性別や過去を隠す、という)は、「男の身体にとらわれた女の魂」というモデルを据え、SRSして過去を隠せばめでたしめでたしという古典的「性同一性障害治療」の弊害とも言えますが、それだけではありません。「医療者の口車に乗せられた」「男/女に二極化したジェンダーシステムこそ悪い」などと言うのは「生き方としてのトランスジェンダー派」のナイーヴな幻想であり、当事者自らこの抑圧的状態を招いてもいるのです。そもそも、二極的ジェンダーシステムがなければ、トランスという概念すら成り立ちません。どんなトランスでも、必ずこのシステムを基礎にした同化主義的願望を内に秘めているのです。
 二極的システムに基づいた同化願望と、その原理的な達成不可能性(ネイティヴとイコールにはなれない)、さらに達成に近づけば近づくほど自分の過去を逆に抑圧しなければならなくなる、という絶対矛盾がここにあります。
 この二律背反を一気に解決する方法はありません。繰り返しになりますが、「二極的ジェンダーシステムの破壊」などという社会運動系のやり方は、現実的に遂行不可能であるだけでなく、トランスの存立基盤自体を崩してしまうものです。
 考えるべきは、この矛盾を解くことというよりむしろ、矛盾を自らに課している構造それ自体です。この問題については、また別の機会に続きを論じたいです。

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