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「多様性」の何が問題なのか

「多様性」の何が問題なのか

 「寛大な社会を求めて」「多様性の尊重」といった文句が、トランス業界のみならず、市民派の言説の中にまま見られます。今まで何度となく、このフレーズに対して釘を刺してきました。「多様性」と言ってしまうことの何が問題なのか、まとめとしてメモしておきます。

 「色々なヒトがいる」。そんなことはわかっています。
 現象としての多様性、正確には「多様性と言わざるを得ない何か」があることに対して、異義を唱えようというのではありません。問題は、「多様性」を前面に押し出して言論を展開する、その行為のもたらす効果です。
 第一に、「多様性」とという言葉は、暗黙に基体としての類の一貫性を主張してしまっています。例えば「多様なジェンダーが存在する」と言うとき、あたかも「ジェンダー」というパラメータがヒトを構成する必然的一項目として用意されてしまっているかのようです。更に言えば、「色々な人」と言えば言うほど、一つの類型としての「人間」を強調していることになるのです。
 現象として「多様性」があるとしたら、それは「比べようもなく多様」であることです。郵便ポストとヘアスプレーを比べることに意味がなく、そもそも「比べる」という選択肢が想像されないような「多様性」、個別の散在があるだけです。つまり、「多様」として既に名指せないような分類不可能性だけがあるのです。「多様性」を主張の前面に出してしまうことは、郵便ポストとヘアスプレーを、犬と猫の関係にまで狭隘化させてしまう危険を孕んでいます。
 戸籍上の性別変更を云々するくらいなら、いっそ戸籍など撤廃する方向で運動すべきなのです。現実の社会運動としてはこれでは立ちいかないのは百も承知ですが、少なくとも修正主義的な自らの欺瞞性に対して自覚的に戦略を取るべきでしょう。社会運動という形で行動するなら、差し当たりの状況改善と同時に、理論的バックボーンの深化が必須です。
 第二に、「多様性」を主張する人々は「本来多様であるものが、システムによって単純化され整理されてしまっている」というモデルを支持しているように見えます。一線で発言されている方にはさすがにこんなナイーヴな人はいないかもしれませんが、市民派に対して安全圏からなけなしの一票を投じてしまっているリベラル層では、現実にこんな考えがはびこっているでしょう。
 しかし「多様(無限定)>言語化」というモデルは、常に整理された後で捏造される歴史でしかありません。わたしたちの思考、正確には「わたしたち」そのものが象徴的生産物である以上、その原理として働いているのは「A/non A」という極めて単純な二項回路です。つまり、否定の導入です。なにかが「ある/ない」というナイフが言語であり、語る以前に語られる存在として産み落とされたわたしたちは、ここからしか出発することができません。
 語られる「わたし」が語りだし、言語経済への参入を果たした(ことにされた)後で始めて、その「前」としての無い歴史が遡及的に想定されるのです。それが「無限定で素朴で多様な世界」というファンタジーです。
 ただし、これもかなり乱暴な議論であって、言いたいことは「言語の外部は無い」などというポスト構造主義の百倍希釈文句などではありません。「失敗の失敗としてのトランス」でも触れましたが、例えば性が部分/全体を原形として二項的に分節されたとしても、その結果としては二項に回収し切れない剰余が生じます。二項的(一つの切断線)という形から出発せざるを得ないにせよ、常にそこからは非二項的な「はみ出しもの」「分類不可能なもの」が産み出されます。このような「割り切れなさ」(無理数)が生じるということは、「分節以前」が機能している証左ではあります。ただし、回帰した「抑圧されたもの」は、正に回帰の時にこそ「抑圧されたことのになる」のであって、単純に数直線的な歴史感覚で「前」を語ることはできません。
 正にトランスについて、この視点から思考せよ、というのが「失敗の失敗としてのトランス」での論点でした。トランスほど「男/女」に呪われている人々はいないにも関わらず、結果としては「生まれながらの女にもなり切れない」奇妙なものが産出されるのです。
 「多様性」は出発点ではなく結果です。結果としての現象を取り上げて「ほら多様ですよ」としたところで、何も言っていることになりません。「多様性」を裏打ちしている類の一貫性を補強してしまうだけでなく、「冷笑的寛大さ」とでも呼ぶべき囲い込みの罠にはまる結果になります。「差別は良くないよね」「大企業の横暴は許されないよね」と定形文句を返すだけの「暖簾に腕押し」な家畜的大衆をますます増産してしまうのです。
 「多様性」と言うことで目指しているものを表そうとするなら、現象の総体を示すのではなく、自らの失敗ぶりを生き切るより他にありません。自らがカテゴリー化に対する異物、「その他」というゴミ箱行きになるしかないのです。ただしこれは、手記的な語りによる普遍性からの撤退と個別への引きこもり意味しはしません。自身をすら驚かせるような速度だけが、個別を予想外の普遍に至らせ、冷笑的寛大さを痙攣させることができるでしょう。

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