ノンカム完全潜伏(染色体上の性別を一切明らかにせずに生きること)に批判的なことを書くことが多いので、たまには逆の意見もメモしておきます。
何度も書いていることですが、トランスの目的はトランスであることではないにも関わらず、一生ネイティヴとイコールにはなれません。また、親しいパートナーに対して完全にノンカムで通すことは現実問題としてほぼ不可能であるばかりでなく、時にノンパスである以上のストレスを生み出す恐れがあります。
それゆえに完全潜伏を徒に称揚する思想には一定の警戒と留保が必要なのですが、一方で社会生活上ほぼ同等の地位を得ること自体は難しいことではありません。というより、そう言っているわたし自身が、基本的にはノンカムで通しています。仕事探しなどではどうしてもカムする必要が出てきますし、付き合いの長い方は皆知っていますが(というより、ノンパスの時から関係があるw)、職場の同僚などには現在は普通の女?で通しています。
「どう転んでも自分の一部を隠すことになるのではないか」という危惧はあるのですが、仕事などもともと自分の一部を切り売りするものでしかありませんから、「どう思われているのだろう?」などと要らない邪推をしないで済む分気楽ですし、なすべきことに集中できます。
カムが招きうる最大の問題は、周囲の偏見というよりも、自分自身の心の中にあるものです。周りが特に気にしなかったとしても、心の弱い人間は常に「(MtFの場合)要するに男と思われているのではないか」などと気に病み続ける恐れがあります。最悪、偏見や差別など一切ないにも関わらず、自分から関係を壊してしまうこともあり得ます。恥ずかしいことですが、わたし自身がそうでした。
「元気である」ということには、義務としての一面があるように思います。人間、元気な時もあればそうでない時もあるのが当たり前なのですが、無理をしてでも元気で幸せに見せておくのが、倫理的なつとめであるような場面があります。少し大げさではありますが、少なくとも元気なフリをしているうちに本当に元気になってしまうのはよくあることで、周囲に気遣うことが結局は自分に利するものです。
また幸せであることを認めることには、羨望を生むのでは、といった危惧以外に、喪失への恐れがつきまといますが、それを超えて幸せを掴み幸せそうにふるまうことは、周囲の人々に対して負った責務でもあり、また勇気の証でもあります。
似たようなことが、ノンカム完全潜伏にも言えるような気がします。
潜伏を徹底していくと、(MtFの場合)自分の中の「女」にあわせるべくスタートしたはずのものが、最終的には自分だけが「かつて男であった」「染色体上は男である」ことを知っている、という、皮肉な逆転に至り着きます。嘘をつこうとした訳ではないにも関わらず、ここには一抹の「後ろ暗さ」のようなものがあり、カムすることこそ正義、という気持ちにもなります。
しかしむしろ、ここで完全に誠実ではなく、自分の中の一つを取って一つを捨てることが義務なのではないか、とも思うのです。
そもそも、完全があり得ないなかでこの選択肢を選び取ったのは自分自身です。その道を歩いて完全無欠になれるとでも勘違いしたいたのなら論外ですが、少なくとも一般的には、不完全ながらもトータルで満たされる方を選んだはずです。そしてその不完全さには、人であることで必然的に背負ってしまう罪をかぶることも含まれているのです。MtFの場合で言えば、「女である」ことそのものです。
確かにわたしたちは、どうあがいてもネイティヴとイコールにはなれません。しかし、一旦潜伏の道を選んだなら、あるいは邪推の心労に耐えられずノンカムを選び取ったなら、最後まで「(MtFの場合)女」を通すことも責任なのです。たとえリードされそうになっても、口八丁手八丁で乗り切ることが時に必要です(わたしは時々、ホルモンに異常があって不妊、というもっともらしい「嘘」をついていますw)。
「女として生きる」と決めたのは自分自身なのですから、たとえ完全な女にはなれなかったとしても(果たして「完全な女」とは?)、やはり問われれば「女です」と言い切るのが一つの義務です。普通の人々はトランスだの何だのといったことには興味もありませんし、無分別に「理解」など求めて他人の時間を奪った上混乱を押し付ける権利など、どんな当事者にもありません(逆に言えば、そのような「理解」を目指して語り合える希有な関係こそ、やはり一番大切なのですが)。
これは間違ってもカムを否定するものではなく、また完全潜伏を唯一の道とするわけでもありません。依然としてカムの意義は重要ですし、またノンパスであっても誇り高く生きる権利は当然にあります(一度もノンパスでなかったTSなど皆無に等しいはずです)。そして積極的にクィアとして生きる選択肢については、断固として留保する必要があります。最後の点についてはとりわけ重要で、トランスセクシュアルの存在基盤そのものに関わる問題であるゆえ、たとえ自らがノンカム完全潜伏を選ぶにせよ、絶対に譲ってはいけない一線です。
一方で、「同化主義」との批判によって、つつましく潜伏して生きる道を塞いでしまうこともあってはなりません。確かにこの方法は「心の弱い」選択かもしれません。カムすること、クィアとして生きることの勇猛さに比べれば、軟弱の誹りは免れられません。しかし多様な当事者がそれぞれの判断で自らの道を選ぶ自由を、わたしたち自身が狭めてしまうことは、どの方向のバイアスであれ、最も警戒しなければならないことです。
「言い訳」と言われればそれまでかもしれませんし、ことわたしに限って言えば弱さゆえの退路としての側面も否めません。考えるべきことはまだまだありますし、決してこれをやめることはありませんが、当然のことながら、わたしにも一人の女として平凡に生きたい願望がある、というのが本音です。
これで結論が出たわけではなく、また出るわけもないのですが、その場しのぎを繰り返しながら歩いて行くより他に道はないのです。