誰のせいなのか、誰かのせいなのか

 先日のワークショップでは性暴力についての発表も行われ、この分野にまるで無知なわたしとしては考えさせられるところが少なくありませんでした。
 性暴力自体については語れるほどのバックグラウンドがあるわけでもないのですが、直前に行われたFtMの自助活動についての発表とのクロスオーバーから、少しだけ思うところをメモしておきます。

 性暴力被害についての語りで、特に印象に残ったのが「あなたのせいではない」という表現です。性暴力被害者は往々にして「自分に落ち度があったのではないか」と外傷を内面化してしまう傾向があり、また第三者も「そんな格好で歩いていたのが悪い」「部屋にあげたのは不用心だろう」という気持ちを抱いてしまいがちです。社会問題としてはまずこの被害者を攻める愚を暴くことが大切ですが、わたしが気になったのは「では誰が悪いのか」ということです。
 性暴力の場合には明白な加害者がいるわけで、「悪い人」は同定できてしまいます。しかし核心は、具体的に誰、というより、誰であれ誰かが悪い、ということです。
 こんなことを考えたのは、直前のトランスカンセリングでは、「性同一性障害」当事者が様々な苦境を周りのせいにしてしまいがち、ということが指摘されていたからです。何度も書きますが、当事者はとかく視野が狭くなりがちで、思い通りにならない原因を外に投影してしまう傾向があります。これはただ単にトランスが社会的に苦境にある、ということではなく(それくらいの困難に直面している人は世の中にいくらでもいます)、トランスの思考様式の根底に自認と他認のズレがあるからであり、さらに言えば、一般的には存在すらしていないジェンダー・アイデンティティなる自らの核を「想定してしまう」とこと自体がトランス現象の核心にあるからです。
 もちろん、実際の表現形には様々な様式が考えられ、周囲にあたったり「理解がない」ことを嘆くことから、社会システムをヒステリックに糾弾したり、とグラデーションが考えられます(ただし、ジェンダーシステムの問題点を指摘すること自体をバイアスとみるわけではない)。
 「わたしが悪い」という多くは意識化すらできないメランコリー的体制、「まわりが悪い」「社会が悪い」というトランスの「わがまま」、対照的なようですが、とにかく誰かが悪い、という点では共通しています。
 ことわっておきますが、ここで短絡的に「誰も悪くなんてないさ」などとマンガのようなことを言うつもりはありません。こんな言い回しは、彼岸を気取りながら責を逃れ、結局弱者にツケを回す権力の言葉遊びにすぎません。社会問題の解決という側面では、例えば性暴力加害者を具体的に特定しその名に責任を回付することは当然必要です。また現状の社会システムに問題がないとは言いません。明白に欠点があるでしょうし、完全解決が不可能でも声をあげていくことには大きな意義があります。
 しかし、時に「運動のための運動」のような様相を呈してしまうアクティヴィズム全般、とりわけGID業界周辺をながめていると、これは「自分のせい」とすべてを抱え込んで自壊していく性暴力被害者の丁度裏返しではないのか、と思えてなりません。
 「誰かのせいにするな」というのではありません。それだけでは「自分のせい」と抱えこむ循環に落ち込むだけです。そうではなく、「誰のせいにもできない」という不安は、誰かが悪かったり自分が悪かったりすることより遥かに向き合うに恐ろしいものであり、最終的にはこの不安との関係だけが問題なのだ、と指摘したいのです。
 本当に恐ろしいものは、何かができなかったりすることではなく、むしろ許可されてしまうこと、その上で可能性の底が測れないこと、つまり「わからない」ことです。そして真の結論とはおそらく、「わからない」しかないのです。
 しかも「わからないから」とペンディングにしておくことは許されません。人生はもう始まっており、時は流れるのですから、わからないなりに進まないといけないのです。ここで「自分が悪い」「誰々が悪い」と言ってしまうのは、時をとめて無時間的・想像的ナルシシズムの合わせ鏡に耽溺することに他なりません。
 悪い誰かを見つけ出せるというのは、ぬばたまの荒野に踏み出す不安から身を守ることですから、メリットがないとは言いません。人には休む時が必要ですから、とりわけ心的外傷を負った被害者などの例では、悪い誰かをはっきりさせることで傷が癒える時間を稼ぐことが大切です。ですが、そこを乗り越えたら、今度こそ「誰かが悪いのかもしれないし、悪くないのかもしれないし、悪かったとしてもそれが誰なのかわからない」という本当の不安に向かって一歩を踏み出す時が必要です。
 これはほとんど自殺的な選択であり、安易に勧められるものではありません。それどころか、自己による選択としては不可能と言っても良いでしょう。不安の中に踏み出す時、それはたいてい自分でも知らない間に「自己決定」してしまったような、逆説の瞬間なのです。
 わたしたちは誰でも、気づいたら歩いていました。不安の中には、少なくとも一度歩を進めているのです。しかも「決定」などしたつもりなど毛頭ないのに、「誰が決めたのか」と問われれば「自分」以外に候補者は残っていません。
 時々「自己決定」についてのナイーヴな古典左翼的言説を耳にします。「性別の自己決定権」などという概念もこれにあたるかもしれません。制度による機械的な他律的決定が当然視されている状況では、このような言い回しも仕方ない面がありますし、社会運動としての価値は認めます。
 ですが多分、真の「自己決定」というのは、この不条理を全面的に引き受けるわけではないながら、不承不承にぼちぼち歩いてしまう、そんな致し方なさなのではないでしょうか。

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