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人それぞれすぎるトランス

人それぞれすぎるトランス

(このテクストは当初、「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」の前座的ポジションとして、トランス問題についてかなり茶化した調子で語るために用意されたものです。相当バイアスのかかった内容で、ほぼMtFのみを話題にしており、また筆者の主眼自体上のテクストにあったのですが、一つのものの見方として試みに公開してみるものです。なお、筆者は現在の性同一性「障害」治療を全面的に是としているわけではありませんが、これを否定したり先人の労苦を軽んじようとする意図はまったくなく、実際個人的には多いにお世話になっていることを明記しておきます)
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 このように第三項を加えて、トランス業界を「ニューハーフカルチャー」「TSカルチャー」「女装カルチャー」に括ってみました。もちろん、これらは状況を概観するための暫定的な枠組みにすぎません。
 広いトランス業界を三つの言葉で整理できるわけがありません。女装一つとっても色々なくらいです。これらの諸文化を移行する人も沢山います。元は男だったものが女の格好でウロウロしたり、果ては周囲に一切悟られずに生活していたりという話です。それはそれは「個性的な方」が沢山おられます。
 「人それぞれだから」というフレーズは、自分たちの価値観と異なる人種に出会った時、とりわけそれがあまり好ましく思えない時に使われる常套句ですが、この世界は「人それぞれすぎ」です。試みに、せっかく作った枠組みを横断する形で、いくつかの類型パターンを散発的に拾ってみることにしましょう。この世界の広がりを感じて頂くために、比較的よく知られているGIDの典型イメージからなるべく外れたものを取り上げてみます。
・清く正しいGID
 比較的若く、DSMの記述そのままのような「ちゃんとしたGID」です。「子供の頃から自分の性別に違和感を覚えて、男として生きるのが苦痛でたまらなかった。とにかく早くマトモな身体になりたい」という、絵に描いたようなGIDです。一般的の方が性同一性障害という言葉から連想する人物像ですが、数としては圧倒的に少ないです。MtFにせよFtMにせよ、トランスはそれほど美しいものではありません。ただ、一握りながら実在はします。本当に「女」で、見た目も洗練されていて、恋愛対象は男性の方が一般的です。
・遅咲きGID
 よくあるのが、ある程度年齢がいってから目覚めてしまったタイプです。三十代以上の方が多く、ジェンダーの問題と老いへの恐れが混ざっている部分もあります。自分の中のトランス願望を抑圧し続け、ある年齢に達したところで急激に解放し始めたケースもあります。
 「心は女なの」と切々と訴えますが、残念ながら男性にしか見えないパターンがしばしばです。問題は「心が女」と主張する人の「女な心」です。これが男の中の幻想をなぞったものでしかないことが往々にしてあります。ただ単に女々しかったり弱々しかったり、果てはピンクが好きなだけだったり、ネイティヴ女性が聞いたら卒倒しそうな話もあります。「心は女」などと口にすることで、正に男そのもの、しかもかなり想像力の貧困なオジサンであることを露呈してしまっています。単に思い込みが激しい人のようにも見えますが、実はこの「男から見た女」という点は深い論点を含んでいるので、第三章で詳述します。
 年齢が高くなるに連れて、男から見た偏った女イメージに依拠する傾向が強くなります。「女」のイメージが硬直しているからでしょう。身近に女友達などほとんどいたことがなかったのかもしれません。仮にいたとしても、女というものは男の前ではそうそう「本性」を出さないものです。これは文化的なものであり別段悪いことではないのですが、そこで作られたイメージがすべてだと信じたまま一方的な幻想を膨らませてしまうケースがあります。本人からは否定されるでしょうが、「遅咲きGID」の考えている女というのは、あくまで男の視点からの「女」に見受けられます。必ずしも女らしくなどない女の実像に触れないままイメージが固定化し、そこに自らが同一化しているのです。
 トランスが望む性別で認識されることを「パス」といいますが、興味深いことに、見た目がまるでパスしていない人に限って「パスしている」「受け入れられている」と主張する傾向があります。キャッチセールスに声をかけられて喜んだり、「職場の女性にも女として認められている」と堂々と訴えたりします。少し客観的な視点が乏しく暴走してしまっているきらいがあります。
 はっきり言って、どんな女性でもこちらの戸籍上の性別を知っていたら、完全な「同性」として受け入れることなどあり得ません。極めて完成度の高いTSだとしても、カムしていればネイティヴとイコールではないのです。まして単なる髪の長いオジサンと紙一重のような人が、そうそう同格で扱われるわけがありません。それを「受け入れられている」ととらえてしまうのは、結局女の心理を理解できず、一方的な女イメージとの戯れに終始していることの証左です。
 ただ逆に言えば、気持ちが真剣であればあるほど、「パスしている」と信じ込まなければとても精神的に耐えられない部分があるのも事実です。揶揄するような書き方ばかりしてしまいましたが、当事者の心中としては真面目そのものです。真面目すぎると言っても良いでしょう。「遅咲きGID」に限らず、トランス全般に生真面目な性格の人物が多いように見受けられます。無理にでも既成の「男/女」の枠に調和しようとするために、固定化した女イメージに執着してしまうのです。結果として軋轢や心的ストレスを産んでしまっているケースが少なくありません。
 また当然ながら、年齢のだけでトランスが阻まれるかというと、そんなことはありません。「その歳じゃ厳しいだろうなぁ」と思っていたら、半年で大変身、などということもあります。『性転換』という本を書かれたD.N.マクロスキーという大学教授は、五十三歳という年齢でトランスを果たしています。少なくないトランスが極めて短期間で別人のように変貌しますし、結局は本人の努力とセンス次第です。「思い込みが激しい」と言っても、「変身」を貫徹できるのはこの激しさあってこそですから、必ずしも悪いこととは限りません。
 そもそも人は自分の思いの中でしか行動できないものです。トランスに限らず、誰でも偏った世界観や自己認識を持っているもので、それこそがその人の個性でもあるのです。彼女たちが本当に信じていて、周囲とも調和していけるなら、仮に外見等で至らないところがあっても汚点ととらえる必要はありません。
 恋愛対象はどちらの場合もありますが、最初は女だったのが男に移行したりする場合がよくあります。
・子持ちGID 
 奥さんも子供もいるのに、突然「わたしは本当は女なの」と目覚めてしまう人が少なくありません。この場合、大変なのが人間関係です。
 何せ「女」と言いながら奥さんがいて、しかもちゃっかり子孫まで作ってしまっているのです。GID理論的に性自認と恋愛対象が独立しているとはいえ、一般の方に理解して頂くのが難しい世界です。
 一番大変なのは奥さんです。ある日突然旦那さんが「わたしは本当は女なの、実はホルモンまでやってるの」などと言い出すのです。趣味の女装ならまだ許せるかもしれません。女装などというものは、男のハマる趣味としては実に害のないものです。ギャバクラに注ぎ込むより遥かに安全で、浮気の心配もありません。ですが、本気で女になって、女としての社会生活を営むとなると、話は違ってきます。
 大抵の場合、結婚生活は破綻、子供も向こうが引き取っていく結果になってしまいます。常識的に考えれば致し方ないでしょう。ただ、「どうして?」と悩む当事者が少なくないことは問題です。彼女たちはもちろん真剣ですし、間違ったことをしているわけではないのですが、少なくとも自分が世間の規範から見ればかなり逸脱していることは自覚すべきです。その上で話し合いを求めていかなければ、良好な家族関係を維持してくことなどできなくて当然でしょう。
 一方で、それなりにうまく生活していける人も中にはいます。
 某有名自称トランスジェンダーは、普段は男として生活しているのですが、一度女モードになると大変身、およそ同一人物とは思えない姿になります。どこに行くのもマイクロミニで、見た目については女装者そのものですが、これだけ「別人」なら奥様にとっては都合が良いというものです。近所では女装しないそうですから近隣の目を気にする必要もないですし、あまりの違いに顔出ししてもバレません。社会的地位もあるので収入は保障されますし、とりあえず女遊びに走る可能性はゼロです。ある意味、とても優秀な夫です。皮肉ではなく、社会適応の一形式として極めて優秀です。
 また、筆者の知人でホルモン剤を使いながら、普段は男として生活し、ジェンダーフリーな夫婦関係を良好に保っている方がいます。奥様が「男っぽい」人らしく、うまく釣り合いがとれているようです。娘さん二人にも、性別を意識させない教育をしていて、「子持ちGID」の優等生です。人間的に非常にしっかりした方で、ホルモン剤にしても「どうしても子供が欲しいからそれまでは我慢していた」という計画性も備えています。当たり前のことですが、相手の立場に立って考える冷静さと人格が大切なのでしょう。暴走GIDには見習って欲しいものです。
 またも冷やかすような書き方をしてしまいましたが、留保しておけば、深刻な内面的問題を抱えていながら、置かれた状況からやむをえず結婚、子供がいる、という場合が少なくありません。また子供が出来たら「治るかも」といった希望を持って作ってしまったケースもあります。これらは判断の軽々しい印象も否めず、一概に擁護することはできませんが、一方で子供がいることを性別変更の除外条件としている現在の性同一性障害特例法には疑問が残ります。実際の社会生活上は子供か自身のジェンダー/セクシュアリティか二つに一つを選ばざるを得ないことが多いでしょうが、法的制度により子供の有無に基づいて弁別される謂れはありません。
 直接御会いしたことはないのですが、ジェンダー/セクシュアリティと家族・仕事を天秤にかけ、一度始めたホルモン治療を中断した、という勇敢な人もいます。おそらくはかなり心の深いところに「女」がある方なのですが、さんざん悩んで、家族をとったのです。真に尊敬に値する人物です。
・電波GID
 「壊れた」GIDです。
 はっきりいって、この部類の人たちはGIDではないと思います。女装と言えるかすら疑問です。「電波GID」というより、ただ単に「電波」だけで良いかもしれません。
 とにかく自分では性同一性障害を名乗っているのですが、診察を受けたこともなければ、他人からそう言われたこともおそらくない人たちです。言われてないのに言われたと思い込んでいることはよくあります。
 ネット上で一時期大活躍されていて、「GIDとは!?」などと語り始め、下手にからかうと地獄の底まで追ってきそうな偏執ぶりです。病院に行けばすぐに別の診断が貰えて適切な「治療」が受けられるのでしょうが、既に自分で診断してしまっているので、そのチャンスもありません。
 あまり関わらない方が賢明です。
・プレイ派女装
 性的な快楽を主目的として女装している人たちです。年齢層が高めの場合が多いです。
 「遅咲きGID」と類似していますが、変に「心は女なの」と主張しない分、明るいです。ただしヴィジュアルも「明るい」かと言うと、そうでもありません。
 ネット上の女装掲示板などでは、ボディコンにガーターストッキングなど、「そんな女はいません」としか言いようのない女装者を沢山見つけることができます。自分ではとても「女らしい」つもりのようですが、この人たちは、道を歩いていて女の人とすれ違ったことがないのでしょうか。
 性的な目的で女装すると、その目的に惑わされて手元が疎かになってしまうのでしょう。ですがより本質的なこととして、女装者の男性に対する性欲というのは、男性性欲にドライブされているのです。男性の幻想の中で「男役」「女役」をやってみている、つまり本物の女では果たせないような究極の「女イメージ」を作ってゴッコ遊びをしているわけですから、これは紛れもなく「男の世界」です。そんな世界しか知らない人が、女から見ても自然な女装ができるわけがありません。
 ただ、逆に言えばプレイとして純粋に楽しんでいるわけで、自分のやっていることはそれなりにわきまえています。日常生活では極めて折り目正しい男性である場合が多く、メリハリをつけています。日頃真面目な社会人として立派に務めを果たされて、こういう形でストレスを発散しているのでしょう。決して悪いことではないですし、誰にも迷惑をかけるわけでもなければ、かかるお金も知れていますから、遊びとしてはとても健全です。
 世間からは変態呼ばわりかもしれませんが、性というのは多かれ少なかれ倒錯的なものです。それを表に出すか出さないか、どういう形で表現するか、というだけの話です。恰好ばかりつけている人間よりよほど素直で好感が持てます。
 女装スナックという場所にはこういう人が沢山いらっしゃいます。ミニスカ、ガーターでビールを飲みながらプロ野球観戦、というのがよくあるパターンです。風景としてはいささか異様ですが、話してみると「オモロイおっちゃん」だったりして、お友達になりたくなることがよくあります。時々アグラで将棋を指しています。
 このような「心が裸になる」場というのは、どこか公衆浴場に似た雰囲気があります。見た目だけ取ると奇妙な世界なのですが、それだけに普通の社会生活ではあり得ない不思議な親密空間が出来上がっているのです。
 ゲイやトランスが集まることで知られるあるコスプレイベントには、露出趣味の方が沢山参加されています。顔は仮面で隠して下半身は何も身につけず、といったスタイルです。それなのに交わす会話は「最近どうしてるの」といった至って普通のもので、文字通り裸なだけに、それこそ下町の銭湯の世界です。とりすました交流の場などより、よほど気持ちが通じます。
 数は少ないですが、見た目も優秀な「プレイ派」も存在します。性的対象はほとんどが男性ですが、普段男として暮らしている時は普通に女性と関係を持っていたり、奥様のいたりする方が多いです。
・ヴィジュアル系女装
 一番GIDから遠い部類のトランスかもしれません。世代的に比較的若く、自分のことを「男」と思っていて、なおかつ美しい女装をする人たちです。性的目的でも、性別を変えることを望んでいるのでもなく、純粋に美しくなりたかったり女性のヴィジュアルを求めていたりします。
 コスプレの延長のようなケースがしばしば見られます。また、感覚が洗練されている人が多く、男の中の歪みまくった女性イメージをなぞるのではなく、リアルな女に近い形を表現できます。若い人の場合、そもそもの男と女の垣根が低くなっているのかもしれません。
 「遅咲きGID」と対照的に、「女の人にパスするのは難しい」「この辺が男っぽいと思う」などと、実に冷静です。冷静だからこそ、それだけのヴィジュアルを作り上げられたのでしょう。うらぶれた女装スナックよりはコスプレイベントなどに顔を出すことが多く、またネット上や個人的関係の中でしか女装姿を見せない人もいます。
 このようなレベルの高い女装者は、もちろん生理的男性性欲から完全に自由というわけではないにせよ、性的目的で女装しているわけではありませんから、美しさやパス度に対する眼差しが純粋です。プレイ派とは反対の立場になります。
 しばしば見受けるのは、女性に対する憧れが強すぎてとうとう自分も女になりたくなってしまった、という方です。これでもある意味「男の中の女イメージ」なのですが、プレイ派はもちろん並のTSより洗練された容姿を備えています。自分の中のイメージを闇雲になぞるのではなく、冷静に女性を観察し、なおかつ自分自身を見つめて可能不可能を判断し、何が似合ってどう見えるのかよく考えているのです。
 これは想像以上に技術の要ることで、並大抵の努力では達成できません。ネイティヴの女が美容にかけるような情熱では、とても追い付きません。美醜以前に、「女に見えるか否か」という大きなハードルがあるのです。これを執念で乗り越える辺りは、逆説的にも「男のこだわり」です。
 性的対象については、そもそも性的な「女役」を演じたいわけではないですから男性を選びません。女性への憧れから始まったことなら、むしろ女性に惹かれる方が自然というものです。ただ、熱意のある人ほど、性的関心自体が低くなる傾向があります。女装の世界に限らず、何かに熱中している人は安易に恋愛に走らないものです。
 「キレイな女に見える」ということは元が美形男子ということで、かつストイックに自分の目的を追求できる精神力の持ち主ですから、男モードの時は女にモテるタイプです。女モードでも女にモテてしまっている場合があります。しかもTSと異なり「かわいい男の子」として扱われることを悪く思っていませんから、女性とはなかなか良好な関係が築けます。
 ちなみに、「完成度の高いヴィジュアル派と今一つなプレイ派」という女装模様に一番振り回されているのが、女装業界に出入りしている男性たちです。業界用語で「純男」です。こういう人たちは、基本的に女装者に惹かれるところがあるから関わりを持っているのであり、当然綺麗で女に見える人を求めています。ところが、美しい女装者ほど男に興味がないのですから、実に皮肉です。焦がれれば焦がれるほど、美貌の女装者は遠くなるのです。ただ考えてみると、普通の男と女の世界と同じような気もします。
・女装が高じてGID
 このジャンルの人について語るのは色々な意味で危険なのですが、意外と数が多いのではないかと思います。「そもそもの始まりはただの女装だった」というケースです。
 これは非常に微妙な問題であり、潜在的なジェンダー/セクシュアリティを巡って試行錯誤する過程で女装というステップを踏んだ、とも言えるでしょうし、趣味が高じて後戻りできなくなった、という場合もあるでしょう。まるで反対のようですが、究極的にはそれほど簡単に区別できない面があります。というのも、自分史的ストーリーというのは、後からいくらでも辻褄をあわせられるからです。嘘をついているという訳ではなく、物事は見方一つでどうとでも言えるのです。
 「考えてみれば子供の頃からそうだった」と本人が思い込んでしまったら、他人からは容易に反証できません。「小さい頃隠れて姉の服を着ていた」というエピソードも、根底にジェンダー/セクシュアリティの問題があったのか、それとも女装の走りだったのか、あるいはただの気紛れだったのか、決めるのは当人の心でしかありません。GIDの診断上はいくつかの基準点があるのですが、最終的に当人の心の中にしかない問題を第三者が明白に弁別できるかどうかは微妙でしょう。
 逆に言えば、これらをはっきりわける必要もないのではないでしょうか。何が原因で何が結果なのかは、結局は語りの組み立て方次第です。ニワトリが先か卵が先か、という議論を繰り返していても仕方ありません。
 「趣味の女装です」と言い切る人でも、子供の頃の体験を聞くと「フツーの男の子」とは少し違ったケースが少なくありません。「性自認は修正不能」というのがGID的な定説ですが、その深刻度は一様ではないはずで、必ずしもホルモン治療、SRS(いわゆる「性転換」)といった対処を必要とするとは限りません。これらのスタンダードな対応以外にも、社会適応には様々なケースがあり得るはずです。もしかすると、女装スナックで時々遊ぶことも一つの「適応」かもしれません。
 ただ、ある種の真剣な人たちは、最初は服装だけで満足できたいたものが、脱毛、ホルモン、と深みにはまっていきます。そして後戻りできなくなり、遂にGIDの治療管理下に入ります。
 しかしこの場合ですら、自己探究の結果として「病気的分脈で言うところのGIDだった」と後から判明したと考えることもできます。自己認識が変化していくことなど、トランスに限らずよくあることであり、決して悪ではありません。〈生き方としてのトランスジェンダー〉の見方からすれば、これも一つのヴァリアントにすぎないはずです。GIDの既成の枠組みにこだわるあまり、「移行組」に罪跡感を負わせることになってしまっては、精神医療の本義にも反するでしょう。
 実際、ある程度懇意になって話を聞いてみると、現在GIDの治療管理下にある人には「元○○」という方が非常に多いです。ゲイの世界に出入りしていたり、女装出身や、最初はただのブルセラだった、という方もいます。GIDが原因であれ結果であれ大きな違いがあるわけではなく、遍歴を重ねていくことは自然な営みです。そのような過去を口にするのが憚られてしまう状況の方が問題です。
 ただ一つ、ホルモン剤という薬物の問題が残ります。同性愛等と異なり、トランスは場合により医療技術に頼る必要があります。身体に重大な影響をもたらす技術だけに、気紛れで使うのは危険ですし、誰でも簡単に個人輸入できてしまう現状には批判もあります。一方で一元的な医療支配には疑問が残りますし、〈生き方としてのトランスジェンダー〉の文脈なら、身体改造を医療者に管理されなければならないこと自体が批判の対象になります。
 ホルモン剤使用自体による心理的影響もあります。使っていくうちにものの考え方が変化していく危険を指摘する声もあります。しかし、化学的作用から完全に独立した揺るぎないアイデンティティを想定する方が無理であり、このような変化を含めて「その人」として認識する方が妥当なのではないでしょうか。すくなくともホルモン剤を服用した決断は彼女自身のものです。
 ちなみに、「女装が高じてニューハーフ」というケースもあります。女装業界とニューハーフ業界は、アマチュア/プロという形で連続している面があります。趣味が高じてプロになってしまったわけです。さらにニューハーフも卒業して、トランスジェンダーとして普通の仕事に就いている方もいらっしゃいます。

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