便利な「トランス」

(このテクストは当初、「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」の前座的ポジションとして、トランス問題についてかなり茶化した調子で語るために用意されたものです。相当バイアスのかかった内容で、ほぼMtFのみを話題にしており、また筆者の主眼自体上のテクストにあったのですが、一つのものの見方として試みに公開してみるものです。なお、筆者は現在の性同一性「障害」治療を全面的に是としているわけではありませんが、これを否定したり先人の労苦を軽んじようとする意図はまったくなく、実際個人的には多いにお世話になっていることを明記しておきます)
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 まずは「トランス」という言葉について、少し詳しくみておきましょう。
 本論ではこの語を広く「性別を移行する者」、とりわけMtF、つまり男から女になろうとする者を指して使います(非対称な使い方をするのは、このシリーズではただ単に筆者自身が当事者であり「豆知識」の豊富なMtFについて特に触れたいからです)。非常に包括的な使い方ですから、ここでの「トランス」にはかなり色々な例が含まれることになります。まずは既成の枠組みの中の中で、どのような「トランス」が考えられているのか確認しておきます。
 「トランス」は一般的には「トランスジェンダー」の略とされています。「トランスジェンダー」には、二つの用法があります。
 一つは、狭義の用法で、「トランスセクシュアル」と「トランスヴェスタイト」の中間を指すと言われています。これについて説明するには、GID(性同一性障害)という視点、つまり「病気としてのトランス」を眺める必要があります。「トランスセクシュアル」も「トランスヴェスタイト」も、GIDという病気についての術語だからです。
 ICD-10というWHO世界保健機構による国際疾病分類を紐解くと、そのGIDの項目にはこんなサブタイプが示されています。
F64.0 性転換症Transsexualism
F64.1 両性役割服装倒錯症Dual-role transvestism
F64.2 小児期の性同一性障害 
F64.8 他の性同一性障害
F64.9 性同一性障害、特定不能のもの
 このうち、GIDを巡って主に話題になるのは、性転換症Transsexualsと両性役割服装倒錯症Dual-role transvestismです。性転換症については、次のように記述されています。
A 異性の一員として生き、受容されたいという願望。通常、外科的治療やホルモン療法によって 自分の身体を自分の好む性に可能な限り一致させたいという願望をともなう。
B 異性への性同一性が、少なくとも二年間、持続的に存在すること。
C 精神分裂病のような他の精神障害の症状でなく、 または染色体異常に関連するものでもないこと。
 これがトランスセクシュアル、通称TSです。一般に「GID」という言葉が使われる時は、ほぼこのTSのことを指しているのだと思って差し支えないでしょう。TSとは「最も重篤なGID」であり、戸籍上、あるいは染色体上の性別は自覚していながら、自分のことを反対の性と感じて、希望の性別の社会生活・身体的特徴を手に入れようとする者です。
 対して、両性役割服装倒錯症Dual-role transvestismについては、以下のような記述がなされています。
A 一時的に異性の一員になる体験をするために、 異性の衣服を着用すること。
B 服装を取り替えるについては性的な動機はまったくないこと。
C 永続的に異性に変わりたいという願望はまったくないこと。
 こちらがトランスヴェスタイト、通称TVです。MtFで言えば、女として自己を認識しているわけではなく、また恒久的に女になりたいわけではないにも関わらず、女の格好がしたい、女に見られたい、ということです。広い意味での「女装」です。ただし「性的な動機はない」とのことですから、「女になった気分で性行為に及んでみたい」「女装している自分に欲情」などとは区別されます。これらには「フェティシズム的服装倒錯症」という診断名が用意されています。ちなみに、当事者にはCD cross dresserという言い方をする人も少なくありません。
 そしてTSとTVの中間のようなものが、漠然と「トランスジェンダー」Transgenderと呼ばれているのです。TSやTVのように、これもTGと略されることが多いです。TSとTVは医学用語ですが、TGには医学的な定義がありません。「社会的性別の変更は望むが、身体的特徴には必ずしも執着しない」「ホルモン剤は使っているけれどオペをする気はない」などという方が、かなり乱暴にここに分類されています。これが狭義のTGです。
 広義のTGというものは、このTS、TG、TVの三つ組みを総称して使います。ただでさえも定義のいい加減なTGに、その他のTSやらTVも加えた実に曖昧な言葉が、広義のTG、すなわち「トランスジェンダー」なのです。狭義の意味も曖昧なら、狭義と広義で色々な範囲をカヴァーできて、それだけ聞くと広義なのか狭義なのかもわかりません。「とりあえず使う」には非常に便利な単語であると言えます。
 本書での「トランス」は、もちろん広義のTGを指しています。右で挙げた諸分類に共通の接頭辞でもあり、当事者が自らを指して使うこともしばしばあります。当事者にとっても自分がTSなのかTVなのかといったことは、必ずしも自明ではありません。性の問題に限らず、アイデンティティというものは試行錯誤の末に段々と固まってくるものです。ですから、あまり限定的に自らを語りたくない時、「トランス」という言い方は大変使いやすいのです。
 当事者を指す言葉には「ニューハーフ」「オカマ」「女装」といった風俗的用語もありますが、一般的にはあまり印象の良い言葉ではありません。「GID」というのも病名ですから、人を指す言葉としてはいささか極端です。とりあえず「トランス」と言っておけば、余計な意味がついて回らない分身軽ですし、第三者が当事者を指すのにも便利が良いわけです。
 さて、このようにして「トランス」という言葉一つ導入するのにも、病気の話をしなければなりませんでした。これだけで既に、トランスを巡る解釈のせめぎあいを確認することができます。
 「TS/TV」あるいは「TS/TG/TV」という三つ組みは、GID的、つまり精神疾患としてのトランスを語る時によく持ち出されるフレームです。確かにわかりやすい分類方法ですし、だからこそここでも導入に利用させて頂きました。ですが、当然のことながら公平な視点から語られたものではありません。
 「TS/TG/TV」の三つ組みには、「TSこそが本当のトランス」という主張が隠されています。「TSだけが本当に悩める『障害者』であり、TVなんてものは所詮女装なのだろう」というわけです。性同一性障害性転換症の診断を「勝ち取る」ことが誇り高いかのような語られ方すら見受けられます。
 「最も重篤なケース」を名誉のように振りかざすのは奇妙なものです。病気だからといってとやかく言われる筋合いもありませんが、だからといって自慢することでもありません。これには後述するトランス独特の事情もあり、実際はGID当事者及び医療関係者といえど必ずしも「病気」と認識しているわけではないため、一概に断じることはできません。ただ、レズビアン/ゲイが同性愛を精神疾患から除外するように闘ってきた歴史を考えると、いささか滑稽な印象を否めないのも事実です。
 また、そもそもICDによる疾病分類そのものにも、一定の慎重さをもって接するべきです。ICDはマネージドケア、つまり管理医療のための記述的な分類表です。医療費の抑制等を主な目的として作られたコード表でしかなく、金科玉条のように振りかざすものではありません。これについては、DSM(アメリカ精神医学会による精神疾患の診断マニュアル)の問題として、独立して取り上げます。
 一方で、病気ではなく生き方の一つとしてトランスをとらえる見方もあります。「トランスジェンダー」という言い方は、この人々が好んで使うところです。本書で本来略語である「トランス」という言葉を用いるのは、「トランスジェンダー」と言ってしまうだけで、既に「生き方」派的な響きを持ってしまうからです。様々な解釈を眺望する視点を得るためにも、少しでも色のつかない単語を採用したかったのです。
 なお、先程挙げたCDクロスドレッサーという言い方は、主に女装系の文脈で耳にします。女装の中でも、性的目的ではなくファッションの延長や純粋な美しさ、女っぽさを求めるタイプの人々が、「倒錯」という響きを嫌ってこの語を使うのです。

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