先日のワークショップで複数の方が推奨されていたので、『性的虐待を受けた人のポジティブ・セックス・ガイド』(ステイシー・ヘインズ 伊藤有里訳 明石書店)を読んでみました。推奨者の一人であるFtMの藤生さんが「性的虐待は受けたことがありませんが、目から鱗です!」と大プッシュしていた通り、素晴らしい本でした。
サバイバー(性的虐待被害者をvictimという語を嫌ってこう呼ぶ)の方はもちろん、ジェンダー/セクシュアリティに少しでも関心を持つ方なら一度手に取って損はありません。また、とかく「性同一性障害」を他の問題系から切り離して考えがちなトランスセクシュアル/トランスジェンダー当事者、そして後述する理由から一般の男性に対しても特にお勧めしたいです。
現在の「性同一性障害」治療のプログラムは、嫌悪の対象となる身体を少しでも改善していくことが基本ラインとなっており、またこのアプローチを否定するものではまったくありませんが(わたし自身従っているわけですし)、身体違和というこの現象の大きな軸と、性的対象としての自らの身体や性的行為の受け入れ難さというサバイバーの問題系には、間違いなくクロスオーバーする部分があります。
深刻なトラウマを負ったサバイバーが、その傷とどう向き合い、どう癒し、そして新しい性的関係をいかに築いていくかについての極めて実践的なアプローチが記述されているのですが、その一つ一つの内容については、「まったく知らなかった」あるいは「想像もできなかった」という内容はあまりありません。一般的なカウンセリング、ソマティックなアプローチ、そして「正しい」性教育に多少なりとも関心があれば、「意外」と感じる要素はむしろ少ないでしょう。しかし、想像可能である、思考可能である、ということと、実際に言葉として受け止めること、できれば読み上げ、実践してみるということの間には、大きな開きがあります。
人間、「知って」いるつもりのことでも「忘れて」いることが少なくありません。以前にishの方の話題で「ドリブル」というアホなたとえを出したことがあります。この単語を知らない日本人というのはまずいないでしょうし、大抵の人は一度や二度はドリブルをしたことがあり、やらせてみれば格好だけは真似できることでしょう。しかし日常生活でドリブルを思い出す機会などはほとんどありませんし、もう一生ドリブルしない可能性も少なくありません。こんな風に「知っているはずなのにすっかり置き忘れてきてしまった」こと、しかもある種の状況では決定的に大切になるものというのがあるものです。
赤裸裸でしつこいまでのこのポジティヴ・セックスへのガイダンスには、驚くほど「思い出させる」効果があります。わたし自身、読みながら本当に心がリラックスしてくるのを感じました。「あぁ、こういうことを考えてもいいんだ、忘れなくてもいいんだな」と、優しくハグされているような安らいだ気持ちになることができました。
このブログやオフィシャル?な場では偉そうなことばかり言っているわたしですが、こんなことを書き続けているのは、何よりわたし自身が行為のレベルで問題を克服できていないからです。トランスセクシュアリティという点はもちろん、おそらくは深いところでこれと連関した軽い神経症様症状や摂食障害など、頭でっかちで理屈で考えているがゆえになおざりにされていることがたくさんあります。実にお恥ずかしい話です。本当は暴力性自体についても何も立派なことなど言える人格ではありません。これらについては、自分なりのアプローチで以前よりはかなり改善してきてはいるものの、依然として私生活においては安定したキャラクターとは言い難いのが事実です。というより、先日も指摘されたばかりですが、欲求不満で頭でっかちな古典的「ヒステリー」ではないかと思います(笑)。
明示的な性的虐待を受けたわけではなくても、トランスセクシュアル/トランスジェンダーは自らの性的要素を常に「攻撃」にさらされているようなところがあります。カムしたが最後、「色物」扱いまっしぐらという可能性も否めないからです。ある種のトランスセクシュアルは、ほとんど意識し難い水準にまで、現実味のあるセクシュアリティを抑圧し得る、ということは、わたしが一番良く知っています。
またジェンダー・アイデンティティなる概念に拘泥するあまり、自らのセクシュアリティをどう扱って良いかわからない、あるいはそもそもセクシュアリティの問題を意識の外に放り出してしまっているケースもあるかと思います。彼/彼女らにとって、「性同一性障害」治療プログラムだけでなく、傷を越えセクシュアリティを言語化していく営みが、癒しとして機能することは想像に難くありません。少なくともわたしにとっては効果がありました。通読するだけでなく、手元において何度でも読み返したい本です。それくらい「うっかり忘れている」ことが多いのです。
もちろんこの本は、「特殊な人たち」だけのためのものではありません。わたしが強く感じたのは、これを「普通の」男性に読んでもらいたい、ということです。
女性に比べ圧倒的に多くの男性が、このような書籍を「自分とは関係ない」「読みたくない」と感じるのではないかと予想します。実は男性というのはセックスの話題が大変に苦手です。「セクハラオヤジはどうなんだ、どう考えても男性の方が性的話題を好むじゃないか」と思われるかもしれませんが、彼らはセックスについてのファンタジーやジョークを展開しているだけで、これによってセックスそのものを話題にすることから身を守っているのです。正にこれはホモソーシャル(同性の社会的連帯)な欲望によって下支えされた強制的ヘテロセクシズム、ミソジニーと表裏一体の現象なのですが、彼らにとってセックスそのものとは、「冗談をさておいて」の「さておく」対象として、常に一定の距離をもって接しておく必要のあるものです。体感的には、自らの強すぎる性的衝動から身を守るためにも必要、と感じられているはずですが、実はこれこそ「ファンタジーの一つや二つもなければ、女なんかとヤれねぇよ」の裏返しなのです。そして「男同士」の共通のディスクール、男性的性的ファンタジーの最大公約数を潤滑剤として語り合うことにより、「女性」という他者を隔離すると同時に絆を深め合う効果を生み出しているのです。
このようなファンタジーによって身を守る態度を、一概に否定するものではありません。彼らには彼らの生き方、致し方なさがあるのであり、これが人を傷つけるのでもなければ、たとえシステムの一翼として機能してしまっていたとしても、個々人を安易に責めることはできません。共通のディスクールが生み出す傷は、彼ら自身をも傷つけているのであり、ある意味「被害者」以上に切実に追いつめられているのです。
しかし、それでもやはり、せっかく守り続けた自らのファンタジーを台無しにしてしまう危険をおいても、セックスそのものと向き合って欲しいです。それが彼らにとっても、彼らのパートナーにとっても、間違いなくプラスになると確信できるからです。
大切なことを言います。
たとえ「そのもの」と対峙したとしても、あなたのファンタジーが灰燼に帰してしまうことはありません。あなたのセクシュアリティが否定されてしまうこともありません。セックスについて語り合った後でも、間違いなく今までと同じ、あるいは今まで以上に甘味にセックスを楽しむことができます。恐れることは何もありません。この行為があなたの「男らしさ」を傷つけることはありません。もしもこんなことで損なわれてしまう「男らしさ」なら、もっとより良いものに交換してしまっても良いくらいです。危険に立ち向かうことであなたが手にするのは、本当の自信と勇気です。乗り越えた後、きっとあなたはずっと「男らしく」、自信に満ちたモテモテのナイスガイに生まれ変わっているはずです。
この言葉の半分以上は、自分の中の「セックス恐怖によりセックスを可能にしている小さな男の子=女の子」に語りかけています。わたしが何者なのかは知りませんが、公平に見て、普通の女性よりは男性の内的記憶に精通しているつもりですから(笑)。
(余談ですが、この「内的記憶」というのは実に頼りないもので、確かにわたしは男性として生活していた時期が相当にあったはずで、投薬以前には生理的水準での男性性欲も経験したはずなのに、もはや極めて表層的な言語的アプローチをもってしか想起することができません。トランスセクシュアルは、当たり前すぎて意識すらできない身体経験が、極めて相対的な構築物にすぎないことを証すわかりやすい証人として機能しうる気がします)
一つだけ留保すべき点をあげておきます。「サバイバーだけでなく、すべての人に」と推奨することは大切ですが、同時に問題を一般化しすぎることにより、サバイバー独自の地位を損なうことになってしまってはいけません。この問題はすべての人に通底しますが、やはりそれぞれの立場にはわかちがたい独自の経験があります。共有すべきものは共有し、知識として持つべきは持ち、わからないことに対しては「わからないものも世の中にはある」と認める態度で向き合うしか方法はありません。真の寛大さとは、「そういう人もいるよね」といったシニカルな態度ではなく、どうにも許容し難い者に対して、満身の力を込めて刀を収め続ける勇気です。
これもまた、半分以上自身に語りかけています。
『性的虐待を受けた人のポジティブ・セックス・ガイド』
ステイシー・ヘインズ 明石書店 2,625円