『性転換−53歳で女性になった大学教授』デイアドラ・N・マクロスキー

 たまにはトランスネタをやります。
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『性転換−53歳で女性になった大学教授』
デイアドラ・N・マクロスキー 野中邦子訳 文春文庫

 はっきり言って、トランス関係の書籍はほとんど読みません。時間の無駄だからです。

 トランス・GID関係の書籍には大きく分けて、自我心理学的理論や社会学系のジェンダー論がベースになったGID系書籍と、「当事者の手記」ものがあります。
 前者には米国における分析理論の心理学的曲解と凋落しか見出せません。もちろん、「当事者」の一人としてその有効性を認めないわけではありません。実際、社会生活上は多いに利用させて頂いています。ですが純粋に読み物として見た時、他のものより優先して手に取ろうという気持ちにはなれません。
 加えて、狭義の性同一性障害治療の枠組みは、FtMにおいてこそ威力を発揮するものです。MtFが良くも悪くも風俗的な伝統的枠組みの中に回収されてきた歴史を持つのに対し、FtMには落ち着くべきポジションが用意されてこなかったからです。「民間」再適合手術の状況について考えてみれば自明でしょう。
 MtFには「民間」の歴史があり、実にウェットなカルチャーがあります。当たり前ですが、必ずしも好ましいものではありません。ただ、プラグマティックな理論の有効性でも、純理論的な発展性の点でも、FtMと対称に考えることはできない、ということです。当事者が如何に否定しようが、MtFは風俗的観点抜きで全体として語ることはできません。
 ついで後者の「手記」ですが、わたしの知る狭い範囲内では、「当事者つながり」という以外で見るべき点のあったものは一つもありません。それどころか、読むに耐えないものがほとんどです。色恋やらオペやらにまつわるオカマのバカさ加減をただ曝されても、痛々しい気持ちになるだけです。
 ただ逆に、これが「当事者」ゆえの生理的嫌悪だという可能性も否めません。確かにわたしは、トランスについて嫌というほど考えてきて、正直、これ以上脳みそを浪費したくないと思っています。わたしたちにとって、トランスは人生のあらゆる局面に関わる重大事ですが、だからといって人生のすべてではありません。辟易しているのが本音です。ですから、あるいは一般の方には「手記」も楽しく読めるのかもしれませんが、この点は判断がつきかねます。
 某女史(ネイティヴですよ)とお話した時にも、「確かにトランス本はくだらない」という結論になりました。そんな彼女が勧めた二冊の本のうちの一冊が、この『性転換』でした(ちなみにもう一冊は『性同一性障害』(吉永みち子 集英社新書)です。FtMが中心的話題であり、主にGID理論の内側で語っているものですが、偏りなく湿っぽくなく、社会的側面からの概説本としては読ませます)。
 サブタイトル通り、53歳でトランスを果たした経済学者の一代記です。「手記」ものと言ってしまえばそれまでなのですが、きちんと娯楽になっています。訳の良さもあるのでしょうが、日本のMtFの書いたドロドロの体験談とはまったく違い、ユーモア溢れる「笑いと涙の性別変更物語」に仕上がっています。なおかつ、当事者の抱える様々なリアルな問題、医療や法律上の困難などが、普通の人にもスッと理解できるように描かれています。
 MtFならではの風俗的観点もあれば、DSM的な視点も入り、知識人としての公平性・客観性も如何なく発揮されています。ここまで赤裸々かつ楽しい読み物にできるのは、それだけこの人が自信に満ちているからでしょう。そして「トランスとしての自信」というものが、いかに想像を絶する苦行の上でしか勝ち取れないものなのか誰よりも知っている以上、率直に敬意を抱かないではいられません。
 というわけで、純粋な一読者としては素朴に推賞します。
 加えて、「ダメ当事者の一人」として、多くの点で感慨を受けずにいられませんでした。
 色々な経緯でトランス過程を踏む人がいます。紋切り型のGID観や、まして「ニューハーフ」としての見方だけでは、決して理解の及ばない人間模様があります。トランスに対するスタンスがいかなるものであれ、そこに至る道程は「アメリカ留学のきっかけ」と同じくらいに様々です。
 そんな中、実に多くの点でこの筆者と自分自身がクロスオーバーすることに驚かされました。勇気が出る一方で、「そんなことは書かないで下さい」と悲痛な気持ちにすらなります。
 この悩み。この鬱陶しい記憶。とても冷静に読んでいられません。
 これ程までに動揺してしまうのは、やはりわたしには自信が欠けているからでしょう。トランスとしての自信、女としての自信、そしてちっぽけなダメ社会人としての自信。すべてにおいて、ただプライドに振り回されている矮小な自分を鏡に映して見せつけられるような思いがしました。
 一方で、どうにも解し難い点もいくつかありました。社会的に立場が全く違うのですから、当然のことです。ただ、これ以上単なる感嘆を記しても仕方ないですから、異論だけを簡潔にメモしておきます。
・家族
 マクロスキー女史にはご家族がいました。奥様とお子様です。彼女はトランス後も奥様とそれなりな関係を結べると信じていたようです。もちろん、現実には破綻をきたします。
 こういう「子持ちトランス」の実例を数多く見てきました。正直、理解に苦しみます。
 ネイティヴの女と結婚して子供まで作っていること自体も個人的にはよくわからないのですが、そんな関係をキープしながらトランスするなどという芸当が、とにかく可能だと思ってしまうのが不思議です。奥様の立場になって下さい。
 トランスというのは、極めて多くの犠牲を覚悟しなければ貫徹できない、狂気の沙汰です。女性を恋愛対象とするMtFが少なくないのは事実であり、純理論的な矛盾はなく、また心情的な理解もできますが、だからといって「夫の性別が変わる」という事態が一般の妻たちに受け入れられるかというと、簡単にいく訳がありません。
 初めから「そういう人」として結ばれたならともかく、世間の人間には「トランス」という概念すらないのです。ただでさえもある意味「贅沢」なトランスなのに、妻子との関係も保ってやり遂げようなどとは、甘過ぎるとしか思えません。
 そういう芸当を奇跡的に実現している例を見たことがないわけではありません。非常に人格的に立派な方で、「確かにこの人ならできるかも」と敬服した経験があります。それでも率直なところは、敢えて言わせてもらいたいのです。
 「妻子も捨てられないならトランスなんてやめておけ」。
・ネイティヴ女子との関係
 マクロスキー女史は、随所で「男の間抜けぶり」を書き立て、「女のすばらしさ」「女同士の関係」について語っています。後半になって段々と冷静になってはきますが、あたかもネイティヴの仲間入りができているかのような表現には甘さを感じないでいられません。
 MtFがいかに洗練され、社会的にまったく戸籍上の性別を悟られないで生きていけるようになったとしても、ネイティヴとイコールになることなどあり得ません。ましてノンパスだったり、パスしていても戸籍上の性別を知られていたら、なおさらです。
 「性別を間違えられる心配のない女たちのアドバイスは役に立たない」といった記述もあり、認識はしているのです。ですが、「女の仲間入り」という浮かれ気分が続きすぎている感が否めません。
 はっきり言って、こちらがどんな気持ちでいるにせよ、ネイティヴは決して「同じ」などとは考えていせん。そんな必要もありません。
 一見「共感」に見えるものがあったとしても、一つには「美しいオトコ」への単なる下世話な興味、今一つには「頑張っている人への応援」でしょう。これはこれでもちろんありがたいことではあります。また一つには、男性として育った人間には最初なかなか理解できないものですが、女社会にはこの手の「外れもの」を拾い上げてやっておく方がうまく立ち回れるパワーゲームが存在します。これを「仲間入り歓迎」と勘違いしてしまっては、逆説的にも「男の間抜けぶり」を曝してしまっていることになります。
 ちなみに時々、「わたしも小さいころ男の子とよく間違えられたのー」などと勘違い甚だしいセリフを平気で吐いてくるネイティヴがいます。何人かの素晴らしい友人に恵まれていなければ、無差別ネイティヴ狩りにでも走りたい気分になります。
 ことさらに「違い」を強調しようというのでもないのですが、「女」という共通項で彼女たちとの間に連帯が結べるかというと、そう単純ではないでしょう。そもそも、そんな貧相な絆で人と関わることが素晴らしいとは思えません。
 そもそも、MtFは「女が良いもの」だからMtFなのではないでしょう。「女の方が男より良いから女になりたい」という人も中にはいるのかもしれませんが、単に「女であろう」とするのが、少なくともわたしの感覚です。
 時々「どうして女になろうと思ったの?」などと間の抜けた質問をしてくるネイティヴがいますが、そんな時わたしはこう答えます。
 「あなたはどうして?」。
 ですが一点、この本の中で素晴らしい「女つながり」が見られるところがあります。SRSの再手術で入院した時の、看護婦との会話です。
「よくできてるわ」
 陰唇の形を誉められた!
「ありがとう」
「私もおなじよ。手術したの」
 ディアドラはドキッとして看護婦を見た。
「あのね、子宮を摘出したのよ」
 ああ、そうね。同じだわ。膣はあるけど、子宮はないのだから。
 ディアドラは子宮摘出をした女性や、閉経後にホルモン補充療法を受けている女性と同じなのだ。
 おやおや。つまり私は更年期の女ってことね。
 「孕めない者」。
 ここでは敢えて多くを語りませんが、事の核心をついた状況です。
 逆説的にも、「欠陥品」としての共鳴だけが、わたしたちと世界に響くのです。

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