心のサバイバル

(このテクストは当初、「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」の前座的ポジションとして、トランス問題についてかなり茶化した調子で語るために用意されたものです。相当バイアスのかかった内容で、ほぼMtFのみを話題にしており、また筆者の主眼自体上のテクストにあったのですが、一つのものの見方として試みに公開してみるものです。なお、筆者は現在の性同一性「障害」治療を全面的に是としているわけではありませんが、これを否定したり先人の労苦を軽んじようとする意図はまったくなく、実際個人的には多いにお世話になっていることを明記しておきます)
##
 やや躁病質な調子で〈生き方としてのトランスジェンダー〉と「病気」の両立を語ってしまいました。「言い過ぎだ」という御批判もあるでしょう。ですが、この軽躁的な論に理由がないわけではありません。
 一つには、何度も記している通り、トランスがネイティヴの女とイコールになることは絶対ないことがあります。寿命を削ってホルモン剤を服用しても丸っきり男にしか見えない人は沢山いますし、整形し身体を切り刻んでも、子供が産めるわけでも生理が来るわけでもありません。染色体からして違うのです。SRSで形成された人工的なヴァギナも、多くの場合通常の性交にも不十分だ、という報告があります。さらに言えば、過去を消し去ることはできません。
 GID治療の始まった当初は、SRSを完了し元の性別については一切明かさない女性としての生活を獲得したら、それが即幸福であるかのような楽観的な見方が通っていました。しかし現実には、ネイティヴとイコールになることはあり得ませんし、継続的なホルモン服用、完全とは言い難い性器形成などを考えれば、恋愛関係にあるパートナーに対し元の性別を隠し続けるのも難しいでしょう。仮に可能だったとしても、むしろ心理的なプレッシャーが強まる場合もあり得ます。
 だからといって、トランスを否定するわけではありません。例え不完全であっても、少しでも望む生き方に向かって努力することには意義があります。ただ、トランスの目的は本質的に完全達成されることのないものですから、結局は各人にふさわしい形、できる範囲で折り合いを付けていくしかないのです。これは時に気持ちが先走ってしまう当事者が、胸に刻んでおかなければならない大切な点です。
 ウェブサイトを公開しているトランスが沢山いらっしゃいます。中にはかなり赤裸々に、自分のトランス過程を報告している人もいます。そういったサイトの中には、夢に向かってGID「治療」のステップを一つ一つ上がっていく過程が描かれ、ある日突然消滅してしまったものがあります。
 彼女は果たして「幸福」になったのでしょうか。そうだと願いたいです。「普通の女」としての生活を手に入れ、ウェブサイトという形での表現を必要としなくなったのだ、と。
 しかし最悪の可能性もあります。SRSしたところで女そのものにはなれません。階段を最後まで上がって、その時に初めて気付いたとしたら、悲劇というより他にありません。実際、階段の終わりで一気に転落してしまう例が少なくないのです。
 生まれながらの女を基準にする限り、トランスは一生「不完全」です。それを不幸と言うなら、死ぬまで不幸です。全面的に幸福であることなどあり得ませんから、不幸は不幸なりに生きていけるなら悪くないでしょう。ただ「特別な不幸」、死に至るような不幸だとは考えるのは行き過ぎです。多少不幸なのが普通の人生です。
 この絶望を回避するためには、やはり〈生き方としてのトランスジェンダー〉に一定の重きを置く必要があります。移行の過程自体に価値を見出さなければ、ある時点で急激な自己評価の低下が起きるのです。
 「生き方」を無理にでも強調する今一つの理由は、少なくないトランスが、アイデンティティの過重を「トランスであること」にかけすぎている、ということと関係しています。一つ目の理由と矛盾するようですが、「トランスであること」に頼りすぎることにも危険があります。少なくとも、頼ってしまっていることに自覚的であるべきです。
 ステップを一つ一つクリアして「変わっていく自分」を感じることは、とても大きな喜びです。よほど素材の良かったケースを除けば、決して楽な過程ではありません。ですが、そんな苦労など気にもならないような達成の快感があるのです。スタンスがどうあれ、完成度の高いトランスであれば、誰でも狂躁状態のような一時期を過ごしたことがあるはずです。
 しかしそんな時間が永遠に続くわけではありません。フルタイム、そして戸籍上の性別を完全に隠す、ということが達成された時、ふと気付くのです。「トランスとしては」という括りで言えば、一定の目標に到達したことになります。夢に描いていた生活かもしれません。広義のトランスとしては、なかなかの水準に達していることでしょう。しかし、そこで手にした暮らしはあくまで「女として」の生活なのです。
 「トランスとして」ではなく「女として」を基準に考えると、トランスなどただの欠陥品です。性器も戸籍も不完全ですし、できないことが多すぎます。そして「女として」完全であることには、永遠に手が届かないのです。
 「トランスとして」から「女として」に基準がシフトした途端、今まで全力で高めてきた自信が一気に瓦解するのです。しかもここで手にした新しい基準で考えると、永遠に平均点にすら達することができないのです。
 たとえ完全には程遠くても、これはこれで決して悪くない人生です。「手の打ち所」と言えるでしょう。ですが、狂躁状態の終結にあって自己の全否定へと一気に転じてしまうことは、少なからぬダメージをもたらします。
 「女として」の生活を目指すことを前提とするなら、少なくともこの急転に備え、「トランスとして」だけの考え方を相対化しておくべきです。懸命になっている時はなかなかそこまで頭が回りませんが、ソフトランディングできる用意だけはしておく必要があります。
 また逆に、「女として」の生活を手にしたとしても、どこかに「トランスとして」の評価を残していても良いはずです。ネイティヴとイコールになれない、ということから考えれば、トランスは一生トランスです。その自分を救ってあげる価値基準を留保しておくことは、決して罪でも恥ずかしいことでもありません。健全な社会生活を自信をもって送る上でも、むしろ残しておいたほうがよいのです。「女として生きる」「女になる」という夢を捨てる必要はありませんが、永遠に続く過程自体にも一定の評価を与え、そこで手にしたささやかなものを大切にするのです。
 これを考えると、女装というスタンスを再評価したくなります。何かと批判の多い女装ですが、「トランスであること」自体に価値を置く、という点では見るべきところが大きいのです。理屈で言えば「男だから女装」ではありますが、洗練された女装者の多くはそれほど割り切ってはいません。半端な自称GIDなどより深い葛藤を抱えていながら、尚「女装」という言葉を引き受けているのです。硬直したTSカルチャー的視点からば「ゴッコ遊び」と一蹴されてしまいがちですが、女装という言葉が口にされる時、決して遊びではない重い決断と覚悟が背後にある場合も少なくありません。
「女になりたい。女として生きたい。でも女そのものになることは不可能だ。もし女でないものが男であり、男が女のように生きることが女装なら、わたしは女装だ」。
 これを卑屈と呼ぶ向きもあるでしょうし、別段女装を徒に称揚する気もありません。ただ「永遠の移行過程」であることを引き受ける者には、どんな言葉でも身に纏ってサバイバルして欲しいのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする