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パス

パス

(このテクストは当初、「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」の前座的ポジションとして、トランス問題についてかなり茶化した調子で語るために用意されたものです。相当バイアスのかかった内容で、ほぼMtFのみを話題にしており、また筆者の主眼自体上のテクストにあったのですが、一つのものの見方として試みに公開してみるものです。なお、筆者は現在の性同一性「障害」治療を全面的に是としているわけではありませんが、これを否定したり先人の労苦を軽んじようとする意図はまったくなく、実際個人的には多いにお世話になっていることを明記しておきます)
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 パス、もしくはパッシングとは、トランスが自分の望む性別として他人から認識されることです。本書で話題にしているMtFについて言えば、「女に見られる」「戸籍上の性別を見破られない」ことがパスになります。反対に「バレる」ことを「リードされる」と言います。
 トランス業界を歩いていて、パスという話題から逃れることはできません。ほとんどのトランスが、スタンスの如何を問わず「いかに女に見られるか」に凄まじい情念を燃やしています。「こういうメイクの方がパス度が上がる」「女性のグループに声をかけて判別する」等々です。
 一時期流行したものに、「コンビニチェック」と呼ばれる判別手段があります。コンビニではレジ入力の最後に、マーケティングの為に性別と年齢が入力されています。店員の手元を見ていて、自分がどちらと認識されているか知る、という方法です。女性専用車輌が導入された時にも「パスチェックに使えるのではないのか」という話題が持ち上がりました。
 そんな場面に立ち会う度に、言い知れぬ虚しさを感じないでいられません。もちろん、筆者自身も人一倍パスを気にしてはいるのですが、そんな自分も滑稽に思えて仕方ないのです。パスを巡る言説、手練手管、そして「パス」という考え方そのものから漂う空虚さ、これはどこから来るのでしょう。
 そもそも、パスとは一体何なのでしょうか。
 一見自明に思えるこの問いですが、ここでは根本に立ち返って、なるべくわかりやすく考え直してみたいと思います。
 パスとは、性自認と社会的性を一致させることにあるでしょう。「自分が女だと思っている限りで、女として見られる」ということです。GID治療下のTSでも、女装趣味の人も、「女に見られる」ことが「パス」である、という点は変わりません。そして「コンビニチェック」で女のボタンを押されれば「パス」、押されなければ「リードされた」「ノンパス」ということになるのです。
 確かに、この程度の範囲でパスしていることは、希望の性別の服装等で行動する上で大切なことではあります。殊にMtFは、一歩間違えば「変態」「オカマ」扱いで石を投げられかねない場合もありますから、神経を使います。
 ですが、そもそもパスが認識に関わる問題であることを考えると、奇妙なことになります。人間の認識というものは、知識に左右されるものだからです。「知っているかどうか」ということが大きく関係するのです。
 例えば、筆者は現在いわゆる「フルタイム」として生活していて、女の格好以外で行動していることはまずありません。積極的にカムしなければ、おそらくほぼ女性と認識されているでしょう。ですがお仕事で御会いする方の半分くらいは、わたしが戸籍上男性だということを知っています。一通りは「女扱い」ですが、もし改めて彼らに「わたしは男、女?」と尋ねたとしたら、やはり「男」と答えるように思います。もちろん「特殊な男性」だとは思っているでしょうが、「女に見えても実は男」という認識だと捉えるのが妥当でしょう。果たしてこの状態は、パスしているのでしょうか、していないのでしょうか。
 この「実は男」の「実は」という点が非常に重要です。TSカルチャーでは性自認が重んじられ、「実は」「本当は」の後にくる本質は性自認に準拠すべきだと考えられています。「身体は男でも『本当は』女なんだ」ということです。しかしここに、TSカルチャーと世間一般の見方の大きなズレがあります。
 一般社会の認識では、性別というのは戸籍や染色体上の性別に還元される絶対的なものでしかありません。これが「科学的」にいかに偏った考えであろうと、市井の人のものの見方といったのはその程度です。このような社会を啓蒙しようだの変革しようだのというのは、おこがましい考えであって、仮に可能であるにしても大変な時間と労力がかかるでしょうし、また「過った」認識をしていることで人々を責める訳にもいきません。普通の暮らしをしていれば、そんなことが問題になることすらないのですから、無理なからんことです。
 世間一般に言う「本当の性別」というのは、染色体上の性別のことです。「実は」の意味がそもそも違っているのです。だから見た目がいかに女性的で、声も含めて女性にしか見えなかったとしても、知識として戸籍や染色体の性別が知られた時点で、何がパスなのかはかなりあやふやになります。少なくとも「まごうことなき女」として扱われるかどうかは、見た目の問題からは離れていきます。
 知人関係の中で「女扱い」を得られるかどうかは、確かに見た目の問題も大きいですが、人間関係による部分の方がはるかに重要なのです。見た目が決定的なのは出会いの短い期間だけです。一つの方法は潜伏、つまり戸籍上の性別をまったく悟られずに生活することですが、そうでなければ、時間をかけて人間関係を構築し、その中でゆっくりと考えを伝えていくしか方法がないのです。そして見落とされがちなことですが、女として扱って欲しかったら「女として扱って下さい」と言ってみることです。言ってもバカにされるだけ、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、言ってみなければわからないですし、口に出すと存外すんなり進むことというのが世の中には結構あります。
 パスを巡って始まったことが、実は狭義のパスとは違う部分に行き着いてしまうのです。
 
 それでは、パスを知人以外の人間に対するもの、と限局してみてはどうでしょうか。
 確かに、普通に移動したり買い物をしたりする上で、とりあえず見た目がパスしていることは重要です。ノンパスでも人からどうこう言われる筋合いはないのですが、買い物一つで一々注目されるのは疲れますから、パスしている方が楽なものです。いわんや、通報されてしまうくらい奇異なものとしてしか見られない場合は、おちおち道も歩けないでしょう。
 ですが、不快感を与えない程度の「パス度」を達成した時、それはイコール「心の解放」なのでしょうか。
 例えば、女性として認識された上で通りすがりの男に声をかけられたとします。ナンパされたということです。たまたま気に入った人で、ついて行ったとしてみましょう。この時、何の後ろ暗さや息苦しさが残らないとしたら、「立派なTS」ではあるかもしれませんが、少し人間性が疑われます。
 これは「性自認がなんであるか」という問題ではありません。当事者が自分でどう思っていようが、相手の男性にとっては一つの「欺き」なのです。なぜなら、相手の男性は、性自認も何もかも一貫した女性としてしか見ていないわけですから、当事者が「確かに戸籍は男性で、身体も不完全だけれど、心も自認も見た目も女です」と言ったところで、やはり何かがすれ違っているのです。欺いたつもりがなくても、ここには一つの欺瞞があります。
 またしても、「本当の性別」に対するTSカルチャーと大衆との間の温度差に行き着きます。実際のTSにここまで偏執的な人はいませんが、仮に「わたしは『本当は』女なのだから、騙してなどいない」と主張したとしても、そもそも「本当の性別」の定義がズレているのです。
 もう少し考えてみましょう。
 パスの目的が「解放」だとするなら、それは究極的にはジェンダー/セクシュアリティに関するすべての解放でなくてはならないでしょう。完全に女装と割り切っている場合を別にすれば、ただ単に「見た目については女」といった安っぽいものにとどまらないはずです。だとすると、「戸籍は男、自認は女、見た目は女、云々」などといった長ったらしい能書きがすべてスッキリ通ることがすなわち「パス」だということになります。そしてもちろん、現実にはこんなことは極めて稀にしか起こりません。一致どころか、そもそも世間一般では性の基準が複数あるなどという考え方をしていないのです。仮にTSカルチャーの理屈が「正しい」ものだとしても、世の中は簡単には変わりませんから、パスしないと不幸だと言う人は、多分一生不幸でしょう。
 こういった人々が「幸福」を獲得する為には、「女と見なされる」という認識の一致はもちろん、「何が女なのか」という思考の枠組み全体が相手に伝わっていることが必要になってしまいます。こんなことが達成されるのは、別段ジェンダー/セクシュアリティの問題に限らず、ほとんどあり得ないことです。
 そもそも、自己認識というもの自体が、他者との関係の中でしか醸成されないものです。「自分はこうだ」という認識は、一人の中で作り上げられるものではなく、他者との関係の中に映し出されるイメージです。自認/他認は混然としているのであって、これを二つに分けて別々に思考し始めてしまった時点で、自ら「認識の不一致」を招いているのです。日常生活でのわたしたちは、それ程までの「人と人の間の壁」を前提に行動したりはしていません。自己イメージと言っても、なんとなく状況に合わせて変化しているのです。
 極端は話、性自認などその場の流れで適当に答えておいてもよいのです。もちろん、どうしても譲れない一線というのもあるでしょう。ですが、もしも言わないとそれが伝わらないものなら、口で言えば済むことです。パスの問題ではりません。
 パスが解放を目指すものだとするなら、それはパスなどが問題にならない人間関係を築くことによってしか成り立ち得ません。本当の意味での「良きパス」とは、「そこそこ問題なく生活できる」ということに行き着いてしまうのです。
 確かに、見た目の問題は軽くはありません。これについては、努力するしかありません。望む生活を手に入れた人々は、誰でも血の滲むような研鑽を積み重ねてきています。ですが、「うまくやっていく」という全行程を眺めれば、見た目は一つのステップでしかないですし、しかも多少迂回してもそれはそれでなんとかなるステップなのです。
 最終的には、狭義の「性の問題」ではまったくないのです。

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