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「複数の性」を巡って

「複数の性」を巡って

(このテクストは当初、「〈女〉を巡って」および「真夜中のトランス」の前座的ポジションとして、トランス問題についてかなり茶化した調子で語るために用意されたものです。相当バイアスのかかった内容で、ほぼMtFのみを話題にしており、また筆者の主眼自体上のテクストにあったのですが、一つのものの見方として試みに公開してみるものです。なお、筆者は現在の性同一性「障害」治療を全面的に是としているわけではありませんが、これを否定したり先人の労苦を軽んじようとする意図はまったくなく、実際個人的には多いにお世話になっていることを明記しておきます)
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 TSカルチャーや、〈生き方としてのトランスジェンダー〉を巡る言説の中でしばしば見受けられるものに、「三つの性」という考え方があります。生物学的性(biological sex)、性自認(gender identity)、性対象(sex orientation)です。
 生物学的な性とは染色体上の性別です。性自認とは「自分で自分をどちらの性別と認めるか」ということであり、トランスではここが問題になります。性対象とは「どちらの性を恋愛対象とするか」ということであり、多数派は異性、つまりヘテロセクシュアルですが、同性や両性とも対象にする場合、どちらも対象としない場合もあります。
 「三つの性」は、同性愛とトランスを弁別する時によく使われる枠組みです。トランスでは性自認が生物学的性と異なっているのであり、恋愛対象がいずれであるかは本質ではない、という論法です。
 この三つに、社会的性というものが加えられて「四つの性」として使われていることもあります。TSとTGの違いを説明する時になどに用いられます。つまり、TSにおいては解剖学的な性的特徴を変更することが問題なのに対し、TGは社会生活、つまり社会的性を希望の性別に合致させられれば満足する、という具合です。吉永みち子『性同一性障害』にはわかりやすい例え話があります。「TGが無人島に漂着したら、どう見られるかを気にしないで済むのだから解放された気分になるだろう。しかしTSにとっては身体上の特徴が問題であり、周りに人がいるかどうかは第一義ではなく、苦しみ続ける」という内容です。
 状況整理の方便としては、非常に明晰にできています。少なくとも、トランスが社会生活を生き抜く上では、役に立つ場面も少なくないでしょう。重箱のように三段あるいは四段重ねになった性、というモデルは、性の問題に特別な関心を寄せていない人にも理解し易いですし、日々「門外漢」と接しながら生きていかざるを得ない当事者の処世術としては、尊重するに足るものです。
 しかし立ち止まって少し考えてみると、色々と疑問が沸いてきます。「性自認と性対象は独立した項目なのだから、MtFが男性を恋愛対象にするならヘテロ、女性を対象にするならレズビアンだ」という説明にしばしば出会います。実際トランスビアンという人種は少なくないのですが、そう簡単に割り切れるものでしょうか。もしも性が四つあるとすると、理屈で言えば2の4乗で16パターンの「性のあり方」が考えられることになりますが、そんな単純な話で済みそうにないのは直観的にも感じられます。
 第一に、染色体に還元することで一番確実に判定できそうな生物学的性ですが、インターセックス(半陰陽)のケースを考えると、必ずしも「男/女」と決定できるものではありません。数としては少数派ではありますが、様々なヴァリエーションの染色体「異常」が存在しています。少なくとも、本当に「生物学的」に考えるなら、生物学的性の項目は二項だけでは成り立たないことになります。そうなると、それだけで「性のあり方」のパターンは膨大な数になっていきます。
 第二に、しばしば「性自認の変更は極めて困難なため、社会的性あるいは生物学的性を性自認に一致させる」という説明を見かけますが、ここには小さなトリックがあります。
 性自認は、当然のことながら「心」の問題であり、解剖学的に同定できるものではありません。いわば語らいの海の中にしか存在しないものです。語らいは他者との関係の中で築かれるものです。拷問にかけて性自認を変えることができないにせよ、部屋に一人でこもって決定されるものではありません。つまり「社会的性を一致させる」と言っても、性自認と社会的性は初めから連動しています。社会的性に焦点を当てるなら、そこで求められる「治療」は、「女」である性自認に見た目や周囲の認識を引き寄せる、といった強引なものではなく、連続的でアナログなものになるはずです。
 そしてより重要な問題が「生物学的性を一致させる」という点に潜んでいます。言うまでもなく、染色体を変更することはできませんから、「生物学的性」といっても、変えられるのはかなり表面的な身体的特徴だけです。もしもTSがそれで満足するのだとしたら、決め手になっているのは正確な意味での「生物学的性」ではないはずです。
 これは技術的限界の前に「治療」が妥協している、ということではありません。TSが気にする「生物学的性」は、胸の膨らみや性器の形状といった、非常にわかりやすい性差の特徴なのです。もちろん気にしかたの度合いには個人差があり、性交可能な女性性器(のようなもの)を作ることで一定の安らぎを得る人もいれば、できることなら人工子宮まで作って妊娠したいと思う人もいるでしょう。間違いないのは、TSが注目するのが純粋な「生物学的性」ではなく、社会的に「これが男」「これが女」とされている記号的特徴である、ということです。つまり、「生物学的」と言いながら、ここで問題になっているのは社会的に規定された性差なのです。
 一見決定的に見える「社会的性」と「生物学的性」の違いですが、実は両者には程度の差異しかありません。どちらも広義の「社会的性」、つまりセックスではなくジェンダーが問題なのです。美容形成と洗練された女装で足りるのか、大掛かりな「性転換」が必要になるのか、仕掛けのスケールが違うだけです。
 もちろん、両者の間に一定の敷居を認めることはできます。TSが問題にする解剖学的ジェンダーは、多くの場合「脱がなければわからない」ものです。つまり、公衆浴場やプールといった場面を除けば、恋愛・性的関係においてのみ明らかになる私的領域です。TGとTSの差異は、注目するジェンダーが公共的なものか、私的なものにまで踏み込むのか、という違いととらえた方が妥当でしょう。
 この点と性自認の社会的性質について考えれば、結局は広義の社会的性だけが問題だということがわかります。ところが、社会的性に注目すると、今度はTSカルチャーが考えているような「男/女」モデルだけでは割り切れなくなってきます。もちろん、世の中の大勢は「男/女」、そしてヘテロセクシズムによって固められています。しかし、生物学的性に還元して考えることはできません。
 生物学的性も必ずしも「男/女」ではないのですが、もしも性が最終的に生物学的性、さらには生殖によって説明されるのだとしたら、少数派としてですら同性愛者やトランスが存在する理由がわからなくなってきます。遺伝的・器質的異常や幼時のホルモン状態によって説明する試みもありますが、とても「無数の少数者」を語り切れるとは考えられません。社会的性と生物学的性がまったく無関係であるとしたら飛躍があるでしょうが、社会的性は社会性の内部、つまり語らいと関係性の中で理解すべきでしょう。
 インセストタブー、つまり近親結婚の禁止を遺伝劣化によって語ろうという試みがありました。様々な社会で近親婚が禁止されているのには理由があるはずで、きっとそこには生物学的根拠があるのだろう、というわけです。しかし近親婚による遺伝劣化は最初の数世代のみにしか見られない現象で、その後の異常発生率は通常の交配に漸近していきます。さらに、社会によってはインセストタブーは極めて複雑なルールに支配されています。「父方の従姉妹とは結婚できるが母方とはできない」といった規則は、とても生物学的に理解することはできません。つまり、機能ではなく構造自体に着眼する必要があったのです。
 社会的性についても同じことが言えるでしょう。社会的性を構成するのは文化的な記号であり、そこに絶対的な根拠、つまり社会の外に根を持つような理由はありません。「男」とされたり「女」とされたりするものは関係性によって様々であり、さらに言えば「男/女」という枠組みですら絶対ではないかもしれません。すると、三つの性や四つの性によって説明しようにも、組み合わせのパターンが無限に増殖していくばかりで、収拾がつかなくなることが予想されます。周天円の限界です。
 この臨界は、病気としてのGIDから〈生き方としてのトランスジェンダー〉への境界とも考えられるでしょう。病気として示される限り、逆に言えば病気ではない「正常」の物差しが必要になります。しかし社会的性が文化的にしか根拠付けられないのだとしたら、どこからどこが正常なのかも明確ではなくなります。もしかすると、TSカルチャーが必死で主張してきた同性愛とトランスの違いすら、それほどはっきりしたものではないかもしれないのです。
 だとしたら、いっそ従来の性の枠組みに接木するよりは、まったくアナログで連続的なモデルから出発した方が説明し易くなるのではないでしょうか。「性のグラデーション」という視点です。おそらく、〈生き方としてのトランスジェンダー〉の目指す方向は、ここにあるはずです。MtFがネイティヴの女を目指す必要はない、さらに言えばMとかFとか言う必要もない、トランスはトランスのままでいいんだ、というわけです。
 ただし、筆者としては最終的にはこの「性のグラデーション」という〈生き方としてのトランスジェンダー〉的考え方とし、第三章以降で考えていきます。もちろん、一定の範囲内でなら有効な言説であることは間違いありません。

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