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『イラク』スラヴォイ・ジジェク

『イラク』スラヴォイ・ジジェク

 伝家の宝刀です。
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『イラク−ユートピアへの葬送』スラヴォイ・ジジェク
松本潤一郎 白井聡 比嘉徹徳 訳 河出書房新社

 正直、こんな素晴らしいものを紹介してしまうのはもったいないです。実は発売前からゲットしていたのですが、アホな上ケチなので時間がかかってしまいました。ノリの良い翻訳に少しサブカルっぽい装丁も加わり、普通の人でも取っ付ける「暴れん坊ジジェク」に仕上がっています。『仮想化しきれない残余』が一行も理解できなくても、前半だけはついていけるでしょう。

 原題”IRAQ the borrowed kettle”はもちろん、フロイトが夢作業の解説の際に援用したジョークから来ています。「貸したヤカンに穴を空けて返された」というクレームに対する一貫しない言い訳「わたしはヤカンなんて借りてない」「無傷のヤカンを返した」「借りた時から穴が空いていた」というヤツです。つまりは、「サダムは大量破壊兵器を所持している」「アルカイダ、9・11に関与している」「無慈悲な独裁体制からイラク人民を解放しなければならない」というわけです。並べてみると別のメッセージが現れます。問題は理由がないことではなく、理由が多すぎることなのです。
 アメリカの「帝国主義的」行動を非難する声には尽きませんが、見るべきはアメリカが帝国ですらない、ということです。彼の国の行動は伝統的な国民国家のそれそのものであり、エコロジストのモットーを反転した「グローバルに行動し、ローカルに考えよう」を地で行っているわけです。(田中宇さんのコラムにも「せめて帝国になってほしいアメリカ」がありました)。そしてサダム・フセイン体制が原理主義的ポピュリズムというよりはむしろ世俗的なナショナリズムの性格を負っていたことは言うまでもなく、要するにこの「戦争」(これが「戦争」と呼べるなら!)は、世俗的国民主義国家同士のものでしかなかったというわけです。
 しかし重要なのは、アメリカの「嘘」を暴くことではありません。「嘘」とは既にそれ自体、(真理の全体ではないにせよ)全体として真理です。「化けの皮を剥がす」行為もまたパフォーマティヴに何かを示すだけであり、釈迦の掌となるのは自明です(「そうさ、石油のためさ、それがどうした?」)。
 本書は「イラク戦争の真実を語る」といったジャーナリスティックなイラク本などではまったくありません。何らかの形で真実を同定して事足りようとするナイーヴな還元主義を唾棄し、その上で更に脆弱な相対主義を超える道を探る、恐ろしく過激な一冊なのです。
 ジジェクは「イラク攻撃の『真の』理由は三つある」として、「民主的イデオロギーというイマジナリーなもの」「政治的ヘゲモニーというシンボリックなもの」「経済というリアルなもの」とラカンのISRにならって整理し、次のように述べています。
これらは「視差(parallax)として取扱われるべきだ。すなわち、ひとつのものの「真理」がふたつのもののそれであるというのではなく、むしろ、「真理」はそれらのあいだのパースペクティヴの偏移(ズレ)そのものなのだということである。
 それゆえ「米国の真の狙いを暴くことによってイラク戦争の虚偽を明らかにする」などという市民運動的スタンスは、「たとえ動機が石油であるにせよ、とにかく独裁者を倒したではないか」といった弁明と共に、機能しないのです。審級をシフトすることで真理の後ろだてを得ようとする還元的態度は、それが反戦であれ戦争支持であれ、「正当化」というトラップにはまっているのです。
 しかしこれは、相対主義への撤退を意味しはしません。
問いはこう立てられるべきだ。このようなことをするお前は何者なのか、と。
 決定的なのは、言表の内容ではなく、それが発せられる場です。
 「妻の不貞を疑う嫉妬深い夫の詮索は、それが真実であるにせよ、やはり異常なもの」というラカンの突飛な言明がひかれています。嫉妬は疑いの内容が「真実」であるか否かに関わらず嫉妬であり、「真実であることへの疑い」とは一致しません。
 例えば「本当に」大量破壊兵器が発見された場面を想像してみれば、わかりやすいでしょう。「それみろ、『本当に』あった! だから言ったじゃないか」。事態は変わらないどころか、「彼」の異常ぶりこそが剥き出しにされることでしょう(この点で、「例のモノ」が発見されなかったことは米国にとって「幸い」だったかもしれません)。
 翻って、ポストモダン左派において批判されるべきは、原則なき日和見主義ならぬ「原則的日和見主義」です。「政治的スタンス」をただ守るだけの、去勢された〈美しい魂〉(ヘーゲル)です。原則とは畢竟、妥協のための方策であり、今日その最後方の撤退ラインには「民主主義」と呼ばれる代物が据えられています。
 本書の最も注目すべき点は、この「最後の拠り所」、軟弱リベラルの安眠枕を徹底的に取り上げようとしているところです。
民主主義への依拠が必然的に含むことは、「外側へ踏み出す」ラディカルな試みを拒絶すること、すなわち、危険を犯してラディカルな機会を捉え、法の外の領域にある自己組織的な共同体の潮流を追うことの拒絶である。
民主制はただしい選択の保障というよりは、むしろありうべき失敗に対する日和見主義的な一種の保険である。事が悪い方向へ動いたときには、われわれは皆責任があるのだ、といつでも言うことができる……。
 ラクラウ、ムフ、そしてスタヴラカキスの批評を通じ、「ラディカル民主主義」の希望を打ち砕いていく下りには、真に瞠目すべきです。形式的な遵法主義、敵対を闘技的ゲームへと吸収させる去勢的原則という「安全保障」が、情け容赦なく抉り出されていきます。
民主主義は利害、イデオロギー、物語等々の多元性は還元不可能であることを認める一方で(中略)民主主義のゲームのルールを否定するものたちを排除する。
市民が存在するならば、排除されたホモ・サケルという亡霊が存在し、それはすべての市民にとり憑く。
 ここで問題になっているのは、左派の戦術的弱点のようで実は構造的必然である
相対主義的脆弱さ、そして微笑みに隠された囲い込み的性格です。市民派から「社会は存在しない」というラディカル民主主義まで、わたしたちが見飽きてきた現実です。
 第一に、リベラルはシニシズムに対して滑稽なほど無力です(「まったく君の言うことは正しいよ、でもだから何だ?」)。第二に、「多様性」という詭弁もまた、数えることの不可能な単独性を捨象した上でしか成り立ちません。皮肉にも、このようなリベラルの性質こそが、今日の大衆的右傾化を下支えしてしまっているとすら言えるでしょう。
イデオロギーとしての民主主義は、原則的に、ヴァーチャルなオルタナティヴの空間として機能する。権力が変化しうるというその見通しそのもののために(中略)われわれは現存の権力関係を耐え忍ぶことを強いられているのだ。
 単に左翼が頼りないといことではありません。「民主主義的な空虚な場所と全体主義的な十全性の言説は(中略)同一のコインの裏表」であるばかりでなく、「『原理主義者』の享楽への固着は、民主主義それ自体の、裏側の幻想的な付属物」なのです。
 この「原則」へとからめとられている限り、反グローバル運動であれ何であれ、否応なく「グローバル化」されてしまうでしょう。それゆえ、「真のラディカルな変革ための唯一の道は、行動への衝迫から撤退すること、『何もしない』こと」なのです。
 ただし、これは無為という選択を意味してはいません。開かれるのは行為actの次元です。〈不可能なもの〉を絶対的に演じることであり、それはラカンが『精神分析の倫理』で素材としたアンティゴネーの行為です。つまり、現存社会の象徴的座標軸の内部における〈不可能〉を、自殺的に生き切ることです。
 ただこの一点においてのみ、戦術的でプラグマティックではない「政治的行為」はあり得るのです。
純粋な犠牲という「不可能な」身振りだけが、歴史の状況布置(constellation)の内部において戦術的に何がかのうであるのかということの座標それ自体を変化させることができる
 これは決して「命をかけた政治的行動」などという安い浪花節ではありません。行為とは半ば狂気であるような、一つの「過剰」なのです。
補遺1:前にもちらっと触れた『データハウス1号』に寄稿したわたしのテクストにおける〈飛び出し〉という概念は、アンティゴネー的「行為」と深く関係しています。参照してみて下さい。
 なおアンティゴネーに関しては、同じくジジェク『汝の症候を楽しめ』2章での『ストロンボリ』への言及がわかりやすいでしょう。
補遺2:文中でもリンクをはりましたが、ホモ・サケルについては以前に紹介した『ホモ・サケル−主権権力と剥き出しの生』(ジョルジュ・アガンベン)を参照して下さい。ただし、ジジェクのこの語の使い方は少し乱暴で、アガンベンと視点を同じくしているわけではない気がします。
 本書中の別の箇所でも、ロシア警察のモスクワ劇場強行突入に触れ、われわれ誰もが「潜在的には全員ホモ・サケル」であり、「われわれのなかの誰でもよい誰か(everyone)が排除されうる」と述べています。
 とはいえ、この下りを単に「次は君かもしれない」といった分脈で理解しては誤読になるでしょう。名指されうる可能性という抽象的次元ではなく、「とにかく名指されている者が既にいる」という語りができるところに、ジジェクの骨太なところがあります。
補遺3:まったくの個人的「感想」ですが、ジジェクに惹かれるのはラカンを「当てにしない」読解です。「当てにさせる」のがラカンの語り口調であり(転移!)、そしてこれに対する唯一の「正しい態度」は、「神様は何も言わないさ」とうそぶける信仰だけです。それゆえ、わたしたちもまた「守・破・離」の道程を経てジジェクと付き合うしかないでしょう。
 本書には「『イラク』を使いまわすために」という解説対談が付属していますが、結局のところ、「使えねぇ!」と放り出す瞬間まで踊ってみるしか「使い方」はないような気がします。
 あんまり「サヨク」くさく読んでしまうと、せっかくのセクシーさが台なしでしょう。

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