終末期医療と在宅ホスピス

 仕事がらみで大量の本を読みます。会社関係のものは、正直あまり興味のないものが多く、ほとんどは電車内で30分速読です。自分からは決して読まないタイプのものに触れられるのは、とても有り難いことですが、ここで紹介する気にもなりません。
 一方でケチなので、自分の中で重要すぎるものはそうそう人には教えないあたり、実に性格が歪んでいます。
 そんな中、良い本に出会いました。
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『あなたを家で看取りたい―安らかで幸せな死を迎えるために 』

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『最高に幸せな生き方死の迎え方』


 これもまた「自分からは絶対読まない」本ですし、内容的にも全然ガラではありません。現代思想系などでヒネクレまくった脳だと、なかなかキツイものがあります。でもたまには、ストレートに穏やかなものも良いものです。読んだ日は結構バッドなことがあったのですが、家に着く頃にはすっかり治っていました。会社関係で読んだ本では初めての体験です。
 著者の内藤いづみ先生は、主に末期ガンの患者さんを対象とした在宅ホスピスの先駆者として知られる方で、福島県立医大卒業、東京女子医大内科等に勤務した後、イギリス人のご主人の仕事でスコットランドに渡ります。かねてから疑問に思っていたターミナルケア(終末期医療)が、遥かに進んだ形で実現されていることに驚き、これを故郷山梨に持ち帰ります。
 ホスピスというと、暗い顔をした御老体がウロウロしているキリスト教施設か何かを思い浮かべますが、内藤先生は小さな診療所の開業医です。鼻風邪の時にお世話になりそうな、本当にどこにでもありそうなクリニックです。その小さな医院を拠点に、積極的治療が絶望的になった時、患者さんが家族の介護のもと自宅で最期を迎えるお手伝いをされているのです。
 サラリと書いてしまいましたが、著書を拝読するに、その苦労たるや半端なものではありません。お医者様は何と言っても「治す」のがお役目ですから、「致死率100%」の仕事がそうそう評価されるわけはありません。市民よりも医療サイドからの抵抗が大きかったようです。そこを女手でかき分けてきた根性を考えると、ただ者ではありません。
 この手の「イイ人」くさいものには「ケッ!」とすぐに許否反応を示してしまうガキンチョのイシクラに「このおばちゃんはマジだっ」と思わせる迫力があります。他の人の言葉だったらただのクサい能書きに聞こえてしまうものが、別様に響いてきます。本当にオーラのある人です。
 一匹狼で「借金しないでできる診療所」「手の届く範囲の患者数」というのも侠気です。そして「親っさん」的ポジションに諏訪中央病院の鎌田院長先生(おヒゲがかわいいっ)がいらしたり、なんだかストーリーになっています。別に狙っているわけではないのでしょうが、「語りかける」力を本当に備えている方なのです。
 「ガンで死ぬのはある意味ラッキー、死期がわかってからある程度の猶予があるし、しかも家族が介護で困憊するほどは長生きできない」といった下りなど、外野が言ったら残酷なのですが、実にリアルで優しく響きます。死ぬならやっぱガンですよ、とか勘違いし始めます。
 「死が社会から隔離されてしまったため、身近な死を感じられなくなった」というのは紋切り型の文句ではあります。そしてこの外部化は、死をデジタルなものに変えてしまいました。わたしたちは生まれた時から「余命八十年」をゆるやかに生きているのであり、そもそも「12時5分に御臨終です」というほど人はパキッと死ぬものではありません。たしか養老孟司さんが『唯脳論』で触れていましたが、「ここ」という線がハッキリひけないまま、徐々に死ぬ死に方もあるわけです。ちなみに、内藤先生の本の中で「最期に好きだったお酒を飲ませたら本当に息を吹き返した」という冗談のようなエピソードがあります。
 この「死のデジタル化」には、現代的には脳死の問題が深く関係しています。どこかで死んでくれて、「生の価値のある死者」という無気味なものになってくれないと困る、ということです。これは前に紹介したジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』などで抉出されている論点です。わたしたちは、わたしたち自身に「人でないけど人」という可能性を刻印することで支えられているのです。
 脳死と言ってしまうと特殊現代的ですが、この構造自体はより根の深いものでしょう。というのも、どこかで人は死んでくれないと困るからこそ、わたしたちが葬儀のシステムを備えているのです。「いつ死んだかわからない」「生き返るかもしれない」のでは夜もオチオチ寝ていられません。死者という象徴的登記によって社会は防御され、また死の象徴化に支えられてこそわたしたちは生を生として生きることができるのです。
 とはいえ、近代以前の世界では、この象徴化のメカニズムは「王様が裸なのは言わない約束」として了解されていたのではないでしょうか。「王様は裸」であることを誰もが知っていて、なおかつ誰もが知っていることを皆が知っていたとしても、やはりそれを言わないことは機能します。王様だけは知らないからです。ラカン的に言えば<大文字の他者>であり、その普遍性をウソと知りつつ守ることです。
 それが実際に死が隠蔽されるようになると、恐ろしいことに皆が「王様は裸」ということを知らなくなってしまったのです。「王様は裸ではない」と本気で信じるようになってしまったのです。逆説的にも、教条を本気で信じる姿勢こそが教条を揺さぶります。スターリニズムの「真の信奉者」こそ、どんな冷笑者より「危険」であったように。
 ここで起こっていることは何でしょうか。かつてファンタジーに過ぎなかったイメージが、わたしたちが「現実」と呼んでいるものの中に逆流してきたのです。象徴的なものが「本気」にされることで、逆に象徴的座標軸に支えられた「現実」が破壊されたのです。9・11、映画的出来事が生活の中に噴出したように。「亡霊」としてのイメージが蘇ったという意味で、死を隔離することでわたしたちは死者の逆襲を受けているのです。
 まぁ、こんな小賢しい話を抜きにして、なかなか暖かい本です。普通の人が普通に読む本です。
 どういうわけだか子供の頃から死ぬことばかり考えていて、「あんまり死ぬのを怖がってると死にたくなっちゃうんだよ」との北野武のセリフ通りに自傷もどきを重ねてきたダメ人間イシクラなのですが、ちょっとホロリと来ると同時に、久々に穏やかな気持ちになりました。
 歳ですかねぇ。

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