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交差点としての「性同一性障害」

交差点としての「性同一性障害」

 「性同一性障害」という概念は交差点に似ています。
 例えば「8月1日午後1時に渋谷のスクランブル交差点にいた人」という形である人々を特定することは可能ですが、そこに居た理由、どこから来てどこへ向かうのかは人によりけりです。一つの集団として取り上げることすら困難に思えます。
 性同一性障害とは現象に着眼した操作概念ですから(DSM自ら「理論抜き」を標榜している)、皆何か理由があって(あるいは理由なく)そこを通りがかった、というだけです。交差点に居合わせた事情も目的も関係ありません。「性同一性障害とは何か」と本質を求めたり「自分は性同一性障害ではないのではないか」などと考えすぎる必要はありません。「ホルモンシャワー説」などとナイーヴな「原因」を巡る営みは、交差点の本質とは関係ありませんし、道楽好きの学者に任せておけば良いのです。ただそこを通らなければ行けない場所があり、避けて通るよりは近道であるなら渡って行けば良いことです。
 これは性同一性障害という概念を否定しているのではまったくなく、良くも悪くも「通り道」pathにすぎない、と言っているのです。このpathのお陰でshortcutができるなら、すばらしい道でもあります。
 また、交差点は道と道の交わる場所です。たまたま人と出会うこともあるでしょうし、そして交差点で起こるトラブルやロマンスなどが、その後の行き先に影響することだってあるでしょう。
 どこから来てどこへ行くのかはともかく、とにかくわたしたちは気がついたら歩いていたのですし、前に進むには交差を渡る必要があり、そこで道を異とする人々となにがしかの触れ合いが生じてしまうことだって背負わなければならないのです。
 願わくば、その交差に居合わせたことが一つの祝福であらんことを。

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