GID真贋問題と精神疾患の政治性 1/2

 最近はそれほど聞かなくなりましたが、トランス業界の伝統的話題に、「真のTS論争」というものがあります。
 「TV(transvestite)から区別される真性transsexual」「本物のGID gender identity disorder」を巡るよもやま話です。「子供の頃から自分の身体に違和感を持ち、性器を切断したいと思った」といった「典型的なGID像」に合致するものが「本物のGID」であり、他のあやしげなニューハーフまがいのものはGIDではないのではないか、といった論争です。「趣味の女装のようなヤツにウロウロされると、性同一性障害の理解の妨げになる」といったことも語られました。
 「自称GID」という怪し気な人がいる一方、GIDの診断を受け治療下にある人でも「自分は『なんちゃってGIDじゃないのか』」と悩む人がいます。また、現在女性として普通に生活している知人のMtF(元職業ニューハーフ)は、「わたしはGIDじゃないから」と医療管理下に入っていません。なかなかに渾沌とした状況です。
 この「GIDの真贋」とは何なのでしょうか。

 そもそもGIDとは何か、というところから考えてみましょう。
 GID診断基準の基礎を築いたのはHarry Benjaminであり、そのSOC(standards of care for gender identity disorders)は重要なレファレンスですが、最もとりあげられるDSM-IV-TRの定義を見てみましょう。詳細部分は省き、主要な四つの基準だけ転記します。
A. 反対の性に対する強く持続的な同一感 (他の性である事によって得られると思う 文化的有利性に対する欲求だけではない)。
B. 自分の性に対する持続的な不快感、 またはその性の役割についての不適切感。
C. その障害は、身体的に半陰陽を伴ったものではない。
D. その障害は、臨床的に著しい苦痛または、 社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
 これがGID、とのことです。
 しかしよく言われるように、診断基準であるDSM自体が多くの問題を抱えています。
 DSMとは、アメリカ精神医学会が作成した精神障害の診断と統計マニュアルDiagnotic and Statistical Manual of Mental Disorderのことです。標準的な疾病分類を目的に1952に第一版発行、その後改訂を重ねて現在はIV-TRが最新版です。DSM-IIIあたりから力動論的視点(原因とプロセスから精神疾患を考えるスタンス)の排除が勧められ、現在のDSMは自ら「理論抜き」を標榜しているほど現象記述的な構成になっています。
 その背景の一つには、精神疾患の「原因」に未解明の部分が多いことがあります。それでも「診断」を下さなければならない現実がある以上、「病気」というよりは「症候群」の単位でものを考え、ラベリングしていこう、という姿勢が基本に据えられているのです。
 普通、わたしたちが熱を出して内科の先生のところに行くと、「風邪です」とか「インフルエンザです」といった「診断」を下して貰えます。その上で、この「診断」に基づいた「治療」が行われるのです。一方、DSMというのは症状の一定の条件を記述しただけのものです。「熱があるんですけど」と言って医者に行くと、「君、それは『熱』だね」と言われてしまうようなものなのです。
 現実に押し寄せてくる患者さんへの対応が迫られる以上、致し方ない部分もあります。また、このような簡潔で現象的な基準を元に統計的に診断してくことの効用も、もちろんあるでしょう。ですが、DSMの言う「診断」は、わたしたちが常識的に考える診断とは少しズレているのです。DSMの言う「疾病」はわたしたちが普通に考える病気ではなく、単なる「症状の束」とも言えるのです。
 極端な話、GIDを規定しているいくつかの項目をクリアしていれば、その人は立派なGIDです。「何が原因か」とか「本当のところ何なのか」などはどうでもいいのです。
 ですから、DSMやICD(註)の記述を金科玉条のように信じ込んで「真のGID」を語るなど、愚の骨頂です。「四本足でワンと鳴くものは犬である」と書いてあるものを、「ウチの犬は事故で足が一本足りないから、『本当の』犬ではないかもしれない」などと議論するようなものです。
 「診断書上のGIDの向こうにある真のGID」など存在しません。乱暴な言い方ですが、GIDの条件をクリアしていれば、十分にGIDです。disorderと呼べる何かであるかは別の問題として、です。ちゃんとGIDなら、多いに利用すればよいだけですあり、この「活用」こそが、ほとんど唯一のGIDの存在意義なのです。
 「なんちゃってGIDじゃないか」などと悩む必要はありません。「なんちゃって」だおろうが何だろうが、診断書があれば「GID合格」なのですから、当人が考えることではありません。更に言えば、医師が考える必要もありません。何がGIDで何が異なるのかは、紙に書いてあるのですから。
 もちろん、「病気」と診断されるのは、誰にとっても気分の良いことではないでしょう。GID当事者も、「自分を病気と思いますか」と問われればほとんどの人が「思わない」と答えるはずです。
 たしかに「この問題」の当事者は、社会生活上色々困ることがあります。ですが、困ることは病気とは限りません。貧乏で困っているなら、精神病院ではなく職安に行く方が賢明です。
 また、同じセクシュアリティ関係の問題でも、ゲイの人が「同性愛で困っているんです」と精神病院に行くこともほとんどないでしょう(「自我異和的な同性愛」としてこれすら「病気」扱いされていた恐ろしい歴史もあるのですが)。
 トランスについては、他の「困ったこと」とは違う事情があります。ホルモン治療等の医療行為を受ける必要性があるからです。本来、自分の身体をどう扱おうが自由なはずであり、美容形成の延長のように認識しても構わないと思うのですが、性腺関係には特殊な法的問題があります。母体保護法(旧優生保護法)のお陰で、無闇に生殖能力を改造してしまうと触法する可能性があるのです。
 誤解を恐れずに言うなら、GIDの診断など、この法律をクリアするための方便でしかありません。GIDの存在意義がその「活用」にある、と言うのはこのためです。そんな方法でしか「自分らしく」生きられないというのも不便なものですが、現状の社会制度がある以上、使えるものは使って生き延びるしかありません。
 逆に言えば、利用できるなら形骸的だろうがなんだろうが、そんなことは大きな問題ではないのです。DSMは現象記述的なものでしかなく、そこで「病気」とされることには何の価値判断もありません。「病気」の方が都合が良ければ診断を受ければ良いし、悪ければ受けなければよいことです。「本当」を問うても無意味です。
 蛇足ながら、明らかにこの診断基準すら満たしておらず、しかも他の疾病の条件に当てはまってしまっている方に限って、大きな声でGIDを振りかざしていることがあります。いわゆる「電波GID」です。GIDという「病気」には、該当する人間は遠慮深く、該当しない人が自己診断する、という面白い傾向があります(アスペルガー症候群等にも似た現象が見受けられます)。
 自己診断は禁物です。ですが、その理由は「危険だから」といったものではありません。ことの本質上、紙に照らし合わせて権威ある人間がハンコを押してこそ「GID」なのであり、他の意味など考えても仕方のないことだからです。医療消費者は、それを活用して社会生活を乗り切っていくことだけ考えていればよいのです。
註:「ICD」疾病及び関連保健問題の国際統計分類International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems。世界保健機関(WHO)が作成した疾病分類コード。最新版はICD-10。DSMと同じく医療の標準化の点からしばしば話題になります。

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