アクセス解析

自爆する特権

 このブログに書き付けたりしている内容には、「性同一性障害」治療プログラムの背景となっている思想とは齟齬をきたすものが沢山あります。何度も繰り返しますが、「トランスジェンダー」を生き方的にとらえ、二項的ジェンダーシステムを攪乱するものととらえる見方がある一方で、トランスセクシュアル/トランスジェンダーは、「トランス」という限りにおいて、普通の人間以上に男/女を強く意識していることは間違いありません。構築主義的フェミニズムやレズビアン/ゲイ・カルチャーの進めてきた道に対しては、どうしても対峙する部分が残るのは確かです。
 そのような立場の「当事者」が、治療プログラムというお上の救いやジェンダーシステムに疑問を投げかけるのは、当然状況の改善にとって必要なことではありますが、「自分で自分の首を絞める」一面もあります。しかもわたし個人は、多様な「当時者」の中でも極めて同化主義的な選択をしたいと思っている人間です。カムして可視化することにすらかなりの躊躇があります。「第三項」などとんでもありません。
 わたしは厚かましいほどに「女」です。社会的ジェンダーロールなど、良くも悪くも「演じる」ものでしかないと思っています。それでも「演じる」の向こうには何もない以上、「本当のわたし」など振り捨てて、「女」をパフォーマティヴに生きる以外にサバイバルはあり得ないのです。何かが析出されてくるとしたら、そのパフォーマンスの失敗、挫折においてであり、留保においてではありません。
 さらに言ってしまえば、一時期フェミニズムやレズビアン/ゲイ・スタディーズからトランスセクシュアルに加えられた半ば中傷的攻撃にすら頷いてしまう部分があります。「家父長制的イデオロギーの尖兵」「医療テクノロジーの作り出したモンスター」「ホモフォビアの表現形の一つ」「ジェンダーロールへの強い囚われ」、どれにも思想的には一応反撃できますが、個人的水準では、はっきり言って思い当たる節があります。
 ちなみに、「普通の人」に対して声を大いにして言いたいこととして、たまにわたしがトランスセクシュアルだとわかると「でも僕はゲイの友達とかもいるし、全然気にしないよ」などとおっしゃる方などがいますが、これはとんでもない勘違いです。「一緒くたにするな」とか言う以前に、もしかするとトランスセクシュアルほどホモフォビックな存在はないかもしれないのです。少なくとも、わたしには明白にホモフォビックな一面がありますし、「気にしないよ」という彼よりは遥かに「ゲイ嫌い」だと思います(これには多分に私怨も混ざっていますし、当たり前ですが、単なるバイアスであるという知的レベルでの自覚はあります)。註

 それでも自爆的に疑問を投げないでいられないのは、いかにわたしが同化的に生きたとしても、「同化し切る」ことは不可能であることを「知って」いるから、というのが一つあります。「第三項」などになる意志はさらさらないのに、少なくとも心の内ではどこまでも「第三項」であらざるを得ないのです。
 もう一つの重要な点は、正にわたしが「当事者」であるからこそ、この発言が自爆的に可能になる、ということです。
 トランスセクシュアルの中には強い被害者意識を持っている人たちがいますが、世の中の流れの中で「同化的トランスセクシュアル」「クィア的レズビアン/ゲイ」を模式的に対置してみると、明白にトランスセクシュアルに「有利」にことは運んでいます。「所詮世の中は男と女なんだ、どっちかに相乗りして生きて行くしかないんだ」という右傾化の波から考えると、経済的・肉体的苦痛を乗り越えてけなげに男/女に埋没していこうとするトランスセクシュアルの姿は、北朝鮮による拉致被害者のごとき「聖なる犠牲者」にも成り得るのです。
 こんな状況の中で、クィア的スタンス、あるいは社会構築主義フェミニズムの立場からトランスセクシュアルに対し(否定ではなく発展的批評として)疑義を挟むとしたら、事と次第によっては「一所懸命に生きている可哀想な性同一性障害の人たちに何てことを言うんだ」などとわけのわからないとばっちりを食らってしまう危険すらあるのです。
 こんな「同情」が茶番にすぎないことは、当事者の実態を少しでも知っていれば明々白々としているのですが、世の善良なる大衆の皆さんの中にはコロッと騙されてしまう方が少なくありません。というより、大多数の人たちが、騙されないまでも叩かれないために無難に流してしまいます。
 確かにトランスセクシュアルに対する「差別」が存在するのは事実です。これにはこれで対処してく必要があります(言うまでもなく、北朝鮮による拉致もそれ自体は到底容認できるものではありません)。しかし少なくともわたしが日々生きていて一番辛く感じるのは、自分が「被害者」であることよりも、「加害者」であることに対してです。生きて行くために恐ろしく劣悪なものに加担し、先人たちが築きあげてきた宝を土足で踏みにじらざるを得ないことを、常に心苦しく感じています。ナイーヴな人たちがトランスセクシュアルを「モンスター」と呼びましたが、これはある意味正鵠を得ているとすら思うことがあります。
 そんな中で、最も「安全」にこの発言ができる者こそ、トランスセクシュアル当事者なのです。もちろん別の「危険」、つまり自分で自分の首を絞めてしまう危険はあるのですが、制度の落ちこぼれになる可能性はあっても、他の立場の人々ほどに「外道」扱いされることはありません。

 わたしはトランスセクシュアルであることの特権を活用します。この特権には相当の犠牲が払われていますから、当然の権利だと思っています。
 その一つは、一刻も早くSRSを受け、法改正の恩恵の元に戸籍を変更することです。もう全力で相乗りさせて頂き、徹底的に社会に紛れ込んでやります。
 もう一つは、そうしながら同時に、トランスセクシュアルとそれを成り立たせている背景に対して、言えるだけのことを言っていくことです。自分の身が可愛いですから、名前については出せるところと出せないところがありますが、少なくともフェミニストが言うよりは安全なはずです。
 別段「罪滅ぼし」のつもりなどありませんし、はっきり言えばわたしはゲイ嫌いのフェミニスト嫌いですらあります(両者の理論には深い敬意を抱いていますが、心情的には同化できません)。ただこのくそったれな人生を捧げる値打ちのあるものといったら、自爆攻撃以外に見当たらないだけです。
 もしもわたしが「モンスター」だとするなら、その恥部をさらけ出すことによって、システムは目を潰されれば良いのです。決して制度に隷属し切ってきたつもりはないですし、自分なりの選択はしてきたつもりですが、それでもsubjectである限りの服従がある以上、大衆たちは自分たちが作り出したものに向き合うべきですし、目をそらしても見せつけてやります。わたしの身体を見てみれば良いでしょう。わたしの存在の全体が、システムが隠したくてたまらず、しかもそれなしではいられない汚辱の部位なのです。
 そして極私的自爆こそが、おそらくこの世に存在する唯一正当な闘争手段なのです(もちろんこの正当性は、システムによって決して肯定されず、回収されない! 何せ回収前に自分からどこかに行ってしまうのだから)。


註:もしかするとわかりにくいかもしれないので一応補足しておくと、たとえばMtFトランスセクシュアルは、男性を性対象としている自分が男であることを受け入れられず、そのために女を主張し身体や社会的性別まで変更する、という見方があり得る、つまりホモフォビア(同性愛嫌悪)の一表現形ということです。言うまでもなく極めてナイーヴな理解であり、トランスセクシュアルの実態を少しでも知っていれば、とてもこんなところに還元できないのは明白です。そもそも、MtFの少なくない人たちがレズビアンであることがまったく説明できません。ただ、わたしも含めて一部のMtFには「心当たりがある」ことも完全否定はできない、ということを言っているのです。ここにトランス現象を還元するものではありません。

2004年12月19日 | トランスをトランスする | トラックバック| よろしければクリックして下さい→人気blogランキング