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トランスの含む二律背反と恋愛

 先日のワークショップ報告第一弾として、とりあえずわたしの発言のレジュメをそのまま転載しておきます。朦朧としながら走り書きしたものなので、論旨の美しない箇所もあると思います。加えて、実際の発表ではこのままのことは話さず、飛ばしたり脱線したりほとんどアドリブでした。まあ、雰囲気だけでもお伝えしよう、ということで。
 以下本文です。

トランスの含む二律背反と恋愛

* トランスの目的はトランスであることではないのに、一生トランスでしかありえない。
* 恋愛にはこの矛盾がわかりやすい形で表れる。
* トランスが抱える絶対矛盾により、「希望の性別に身体を合わせる」治療モデルだけでは限界があり、これを補完するモデルは、恋愛から考えるとわかりやすい。

1 トランスの根本的矛盾

 例えばMtFの願いは「女であること」であり、「トランスであること」ではない。にも関わらず、どんな医療技術を駆使してもネイティヴと同等、あるいは完全な女になることはない(この点で「レズビアン/ゲイであること」をアイデンティティとしうるレズビアン/ゲイとは安易に対置できない)。

2 「同化主義」と「生き方としてのトランスジェンダー」

 現在のトランスジェンダー/トランスセクシュアルの考え方は、大雑把に二分すると、古典的な「性同一性障害」治療モデルにのっとった形で、SRSして過去を隠し、gender identityに従って生きる「同化主義」的なものと、トランスであること自体、クィアであることにアイデンティティを求める「生き方としてのトランスジェンダー」派があると考えられる(当然ながら、これは類型的なモデルであり、実際の当事者は両極に対して様々な位置を取り得る)。
 しかし、いかに「第三極」的スタンスを気取って二極的ジェンダーシステムにアンチを唱えようと、そもそも「トランス−」という形で論を立て自らを認識する限りで、男/女の構造にトランスは深くとらわれている。やはりトランスの目的はトランスであることではない。少なくとも、トランスの向こうにある何か(男や女)を視座にとらえていないはずがない。
 一方で、完全な同化は不可能である以上、同化主義を理想化するわけにはいかない。仮に社会生活上、染色体の性別を完全に隠せたとしても、例えば恋愛のパートナーに対して秘密にし続けるのは実際上不可能だ。
 そもそも、自らの過去を伏せて生きることが本当に幸福なのだろうか。MtFが女の身体、女としての生活を切望しているにせよ、男として生まれ、男として人生の一時期を過ごしたことは事実であり、罪ではない。それを親密な関係においてすら秘密にし続けなければいけないことは、逆に苦痛の原因になる可能性もある。

3 個人的な体験から−−カミングアウトの是非

 たとえばわたしは、男性として生活していた時、非常に不自由で抑圧されていると感じていたが、フルタイム、そして染色体上の性別を隠した時「これは以前の丁度裏返しをやってしまっているのではないか」という危惧を感じた。
 ただし、これはカミングアウト(染色体上男性であることを告白すること)をむやみに推奨するわけではない。「生き方としてのトランスジェンダー」派ならそう考えるかもしれないが、やはり女としての生活を望んでいたのも事実であり、また不要な偏見、好奇の目で見られること、「でも要するに男なんでしょ?」ととらえられてしまう危険、またそもそも仕事上の関係などではカミングアウトの必要性もなければかえって問題になりかねない、等を考えると、一概に「すべてを明らかにする」のが是とは言えない。
 すなわち、トランスは男として生きても、女として生きても、あるいは「トランスジェンダー」として生きても、何らかの形で抑圧を被ることが避けられず、これを一気に解決する方法はおそらくない。

4 恋愛に反映されるトランスの矛盾

 このことがわかりやすい形で現れるのが恋愛の局面だ。
 ヘテロセクシュアルのMtFを例に取ると、まずゲイを恋愛対象とはしない。またゲイの恋愛対象になってしまうことはすなわち「男」としてみなされているようで、受け入れがたく感じる。
 世の中には「トランス好き」「ニューハーフ好き」という男性が存在し、またMtFは色物・風俗的に見られてきた伝統があるため、「完成度の高い」MtFはこのような人々に大変「モテる」可能性がある。しかし「トランスであること」を評価されるのは、やはり「男」とみなされているようにも感じられる。
 一般のヘテロ男性については、プレオペ・ノンカムであるとなかなか恋愛関係に入れない。ポストオペであっても、恋愛上のパートナーであれば完全に希望の性別で通すことは困難だろう。
 このように「女そのものでもありえず」「かといってトランスであること自体にもアイデンティティを見出すわけにもいかず」という二律背反的状況が、恋愛にはわかりやすく反映されている。

5 恋愛の秘める可能性と性同一性障害治療

 恋愛や性行為は、自分の価値、自分の身体の評価を確認する重要なチャンネルでもある。しかしTSの多くが身体に強い違和感や嫌悪感を持っている以上、なかなか「評価される」ということ自体を受け入れられない。
 一方で、「完全な身体」が手に入れることはほとんど不可能である以上、トランスが一定の「幸福」に達するためには、やはりどこかで折り合いをつける必要がある。この点で、「誰かに評価されることを受け入れる」ことと「自分の身体を認める」ことは同時的であり、良い恋愛関係がトランスにとって極めて効力のある治療となる可能性もある。
 これは「受け入れがたい自分の身体を受け入れる者を受け入れる」という形で恋愛を成立させることであり、容易な道ではないことは確かだ。しかしよく考えてみると、トランスに限らずほとんどの者が全面的に自己の属性を是認しているわけではなく、普通の恋愛にもどこかに「ジャンプする」地点がある。あるいは、「ジャンプさせる」力こそ恋愛だ。
 もとより、「完全な女」「完全な男」など存在しない。ここに執拗な執着を見せるのがトランスだが、一方で「不完全ながらも前に進む自分」と折り合いをつけていこうとするなら、通常の性同一性障害治療(完全に近づける)と平行して、別の角度からのカウンセリング(不完全さと折り合いをつける)や恋愛についての試行が求められる。

 従来の性同一性障害治療では、自身の身体や最低限の社会生活といったことに焦点が当てられるあまり、恋愛という人生の重大ファクターが軽視されがちだったように思われる。しかし、とりわけポストオペのメンタルヘルス等を考えると、セックス・カウンセリング的試みがあっても良いはずだ。これは単に社会生活を潤滑にするというだけでなく、恋愛やセックスこそが、身体というトランスの最大の問題を昇華する可能性を秘めているからだ。

 もっとラブ&セックスを!!

2004年11月16日 | トランスをトランスする | トラックバック| よろしければクリックして下さい→人気blogランキング