「女装」について
「女装」という言葉について思うところをメモしておきます。
わたしは自分のことを「女装」だとは思っていません。現在のわたしに会って「女装」という言葉を連想する人もまずいないでしょう。
GID的文脈では「女装」という言い方は毛嫌いされます。男だからこそ「女装」なわけで、逆に言えば「女装」と呼ぶのは「男」と言っているのと同じことだからです。似たようなことが「ニューハーフ」にも言えます。この気持ちはよくわかります。世の中には少数ですが本当に頭の悪い人というのが存在しますから、わざわざカムして心身を危険に曝す必要はないでしょう。わたしはなるべく隠したくない考えで、だからこそこういうサイトも運営しているのですが、非常に不愉快で愚劣なコメントを受けることがあるのも事実です。
一方で、「女装」に対する思い入れも小さくありません。
このサイト自体、「写真公開するトランスサイト」で書いたように元をただせば「女装系」でしたし、女装業界でお仕事させて頂いていたこともあります。これを通じて出会った素晴らしい人たちも沢山います。
経験の範囲内では、女装カルチャーの人々はGIDカルチャーに比べて健全で明るい傾向があります。美意識もなく性的目的で女装している人たちは論外ですが、聡明で容姿も美しい人が大勢いらっしゃいます。
また、重要なことですが、社会的に戸籍を伏せて生活し、身体を切り刻み続けても、トランスがネイティヴとイコールになることはありません。トランスはどこまでもトランスです。もしもネイティヴの女でないなら男であり、男が女の格好をするのが女装なら、わたしは永久に女装です。単に365日24時間女装しているだけです。
ずっと以前に、あるMtFTSの方に御会いしました。彼女は完全潜伏で女性として生活していて、当事者であるわたしすら、そう言われてなお「ネイティヴじゃないか」と思うくらいに完成度の高い方でした。にもかかわらず、彼女は女装カルチャーにコミットしていて、当時女としての生活を渇望し「女装」という言葉に内心辟易していたわたしは、その心理がさっぱりわかりませんでした。
でも今、少しは理解できてきた気がします。わたしたちは、ある意味永久に「女装」です。このことがわたしたちの全人格を決定するわけではもちろんありませんが、宿命として付きまとうのも事実です。これを否定して「女」という基準だけで考えてしまっては、やはり大切な何かを手放してしまうことになると思うのです。
焦りが空回りしていたわたしに彼女が言ったのは「わたしにとって大切なのは、女になることではなく、女として何ができるか、です」という言葉でした。正直に言えば、その時はうらやましい気持ちが最初にありました。でも今、この言葉が強く胸に突き刺さります。
女として何を為すかは、もちろん人によって様々でしょう。そして一周まわって、トランスということ、非常に広い意味で「女装する」ことが、呪いのようにかえってきています。こんなことばかりに振り回されるのに飽き飽きしてもいるのですが、一方で純粋に知的好奇心をくすぐるテーマであるのも事実です。
ついでのバカ話ですが、女装の似合う男は美形です。女の格好で成り立つ男は、男のままでも超美男子なのです。
わたしは立場上、相当数の女装者と接触を持った経験がありますが、その中には王子様級のハンサム様が何人かいらっしゃいました。特に業界で有名なお二方は、半径二メートル以内に近付くだけで脳の機能の九割がたが停止するようなオーラを発していました。結婚してくれるなら、親に関節技極めてでも持参金用意します。
これはネイティヴにはない特権ですね。うらやましいでしょう。うふふ♪