-1 失神する一日
SRS第一段階前日
本テクストのカテゴリ「SRS記録」 については、「SRS記録について」を御一読ください。
SRSそのものにとっては本質的なことではありませんが、興味深い点を一つ。Yさんに「手術後は(全身麻酔から)いつ意識が戻るのですか?」と質問したところ、「当日夕方には一度起こされるのだけれど、記憶がないことが多いので、翌日かな」というお返事でした。
もしこれが手術翌日意識が戻ったときで、「昨日一度起こされたらしいけれど、覚えていない」というのなら、別段不思議には感じません。
しかし「覚えていないであろう」夕方の覚醒は、この話を聞いた時点ではまだ未来です。
その瞬間は、「未来のある時点において、過去として思い出されるであろう」未来完了という形でしか表現できないのみならず、「思い出されない」のです。連続的な意識という意味でのわたしの歴史の中には、一度も出現しないまま、しかし確実に刻まれている「背中の傷」のような瞬間なのです。
さらにこの瞬間が「記憶に残らない」とすれば、SRS第一段階当日という転換点の一日が、ほぼ丸ごと記憶から抜け落ちることになります。実際、多くの「手記」において、手術当日の記述がほとんど見られません。
転換において「失神」がある、というのは非常に示唆的です。トランスセクシュアリティが「人間という集合の部分集合から別の排他的部分集合への移動」という狭隘な認識を越える(それだけでは楽しみきれない!)現象である証左のようにも感じられます。つまり「二つの領野」は連続的でもなければ排他的でもなく、そのような集合の関係としては適切に理解できないものなのです。
もう一つメモしておくと、ここが外国であり、わたしが「言葉を話せないもの」として人々に囲まれている、という点があります。
これがなぜ面白いかといえば、「外国人として存在する」というのは子供が言語経済に参入するときの体勢と非常に似ているわけです。
外国人というのは特権的な立場にいます。言葉を間違えても「外国人だから」という理解を受けます。(有名なFreudの"Espa")
SRSによって希望の性別のネイティウ゛と同等になれるわけではないことは再三指摘していますが、それとは別個の問題として、こうした転換点で「一度子供になる」という体験は興味深いです。