アクセス解析

女装しかないのか

 トランスが絶対的な矛盾の元にあることはわかりましたが、一方で存在論的性の次元とは「名」=容器にすぎず、具体的な「女らしさ」=中身についてはかなりの程度で接近可能です。ここで言う「女らしさ」とは極めて広い意味であり、社会的に女として認識されることを含みますから、相当な範囲のトランスの願望は実現可能だということなになるでしょう。
 それならば別に問題ないのではないか、と問う向きもあるでしょう。「一通りの願望が実現できるならそれで良いし、そもそも『性自認』という形で初めから社会的ジェンダーこそが問題であることは明言しているではないか。存在論的性などということは考えてもいない」と。ところが、願望が実現されたとしても、トランスの性を巡る葛藤は解消されないのです。医療技術的な限界のことではありません。ここに、社会的水準だけを基準にトランスを考える限界があります。

 問題の第一段階は、トランスが女装に還元できてしまうかもしれない、ということです。
 もし「女であること」、つまり究極的な性別が原理的に変更不可能で、広義の「女らしさ」つまり社会的次元だけが問題なのだとすると、トランスとは記号の集積であり、極論すれば技術に還元できるものになってしまいます。つまり、女装とTSの間には程度の差異しかないということです。
 実際、そこには質的差異など存在しないのが真実であるように思われます。焦点となるのが見た目や服装か、社会生活か、身体的特徴か、といった違いはありますが、すべて社会的次元の性的記号だけが問題になっています。身体的特徴といっても、生物学的性ではなく解剖学的特徴に表れる社会的ジェンダーが問題なのは第二章で触れた通りです。これらはすべて、原理的にはメイクテクニックから外科手術まで含む広義の技術によって対処可能です。強いて言えば、望む形態がフルタイムかパートタイムか、といった点にしか質的差異は見当たりません。しかしこれについても、「フルタイム女装」というスタンスがあり得る以上、絶対的な違いではありません。
 議論の為に戯画化した類型的TSを考えるなら、きっと「性自認が女なのだから、男の心のまま女の格好をする女装とは違うのだ」と「内面が違い」から反論するでしょう。確かに違います。しかしその違いとは、性自認が男か女か、などということではなく、同一の現象に対する認識の違い、さらに言えば視点を技術という外面性に置くか、内面の苦悩に置くか、とう焦点の違いです。性自認という概念には何度か疑義を挟んできましたが、ここで今一度別の観点から考えてみます。
 性自認なる概念がジェンダー/セクシュアリティに対する問題意識を伴わなければ知られてすらいないことからも直観できますが、この考えが最初にあり、TS/TVなどといった区分が派生するのではありません。むしろ逆であり、TS/TVを言うためにこそ、その原因として後から措定されるのが性自認です。問題のない人は性自認について考えたりしません。そもそも原因について人が考えるのは、何か問題が発生した時だけです。うまくいっているときはあれこれ原因を考える必要もありません。それゆえ、性自認が話題になるのは、生物学的性と性自認の一致していないケースがほとんどです。
 ジャック・ラカンなら「うまくいっている時は諸効果だけがある」とでも言うでしょう。「原因>結果」という因果律は認識に先立って存在するのではなく、「何らかの理由でうまくいかない>原因を求める>内面の苦悩に目を向ける>性自認」と遡及的に発見=発明されるものなのです。
 性自認という概念を受容した後でなら、確かに一人一人に「心の性」を割り振っていくことができるでしょう。人間という一般的基体に「性自認:男/女/その他」といったチェックシートがついているモデルです。しかし重要なのは、性自認という概念が想定されるか否か、の方です。「男か女か」ではなく、「性自認がある/ない」という閾こそが最初にあるのです。
 TSの苦悩が偽りだというわけではありませんが、内面に目を向けてしまえば誰にでも苦しみがあります。技術の限界はあるものの一定の範囲で願望は実現可能なのですから、あとは具体的な行動に出るしかないのです。苦悩とは、行動ではなく内面に焦点を当てることにより発見=発明されるものです。

 ただし、いくつか留保しておくべき事項があります。
 第一に、この女装とは極めて広い意味です。「女らしさ」につながる表現をすべて女装と呼ぶのなら、女すら女装しているわけですし、さらに言えば女装していなければ〈女〉と呼べません。第二にこのことは、純粋に技術だけを追い求める女装によってトランス現象が説明しきれる、ということにはなりません。広義の技術錬磨によってこそ〈女〉が形成されるにも関わらず、逆に技術にすべてをかえすことはできないのです。どういうことでしょうか。
 還元とは、現象を原因にかえす営みです。結果として現出しているできごとをバラバラに分解し、一つのまとまりとして現れているものを、諸動因の合成として理解することです。本書の文脈で言えば、社会的〈女〉を要素の積み重ねとして理解することになります。これは〈女〉が社会的構築物であることと表裏一体です。わたしたちが〈女〉と認識するものは「女の本質」といった何かに拠るのではなく、諸々の些細な要素の積み重ねで、しかもその要素が〈女〉に結び付けられるのは歴史的偶然にすぎません。
 しかし一方で、これら諸要素に注視するだけでは、〈女〉は達成できません。技術にだけ注目する女装では、〈女〉にすら手が届きません。正確には、要素は〈女〉に追いつけないのです。
 まず、還元の物理的限界があります。諸要素と言っても、これらが極めて複雑なネットワークを構成し、さらに相互のかけ合わせにより個々の要素だけからは表れない現象を産み出しているのは容易に想像がつきます。〈女〉が歴史的構築物だとしても、何がどうなってこの結果に至ったのかトレースし切ることはできない、ということです。
 更に仮にこれを特定できたとしても、その後〈女〉の再構成に向かってフィードバックしているうちに、〈女〉は更新されてしまいます。〈女〉現象の中には〈女〉を分解しようとする営み自体含まれているため、この運動そのものにより〈女〉がズラされてしまうのです。これは単に物理的な速度の問題ではありません。〈女〉自体に〈女〉を還元し理解しようとする運動が含まれていることから起こる、論理的な時間差です。
 卑近な例をあげましょう。筆者の身近に、データベースマニアの方がいました。自分の見た映画、読んだ本などを諸パラメータによって記述し、整理していくことに執念を燃やしている人です。「整理オタク」とでも呼べば良いのでしょうが、強迫的でほとんど病的な域にまで達していました。
 ある時、この人は「自分の一日をすべてデータベースにしてみよう」という企てを思いつきました。訪れた場所や行動などを、完全に記録しようと考えたのです。しかしこの試みはほどなくして挫折してしまいました。一日の記録を作るのに、一日以上の時間を要してしまったからです。
 これが単に、彼のタイピングスピードの限界などによるのではないことはおわかりでしょう。もちろん、この場合はそういった物理的限界が先に来るわけですが、仮にこの障害がクリアされたとしても、「記録を付ける」という行為自体が一日の行動の中に含まれているのです。記録を付けているうちに「その記録をつける」という行為が更に追加されてしまいます。還元は現象の進行に永遠に追いつけないのです。
 それゆえに、トランス現象が広義の女装だとしても、単に技術だけを見る女装では現象に追いつけません。〈女〉は要素から女装的に構成せれているのですが、女装という観点から再構成しようとすると現象に追い抜かれてしまうのです。そのために、女装以外の何か、つまり諸要素の集積以外の「本質」のようなものがそこにあるように見えるのです。
 性自認という言葉も、この部分をなんとか名付けようとする営みから生まれたと言えるでしょう。「女らしさ」から分離される「女であること」を求めることも、ここからしか考えられません。これが存在論的性という、いわゆる性とは無関係なものに行き着いてしまうことは前述の通りです。析出してみるとそれはトランスの実践からは掛け離れたものになってしまうのですが、それでもなお隙間にある「女であること」を想定し希求しないではいられないのです。
 それゆえ、性自認や「女であること」、存在論的性などを一連の幻想として唾棄してしまうこともできません。それ自体が実体を持たないものだとしても、想定に至るプロセスは不可避的だからです。原因はうまく行かないときにしかなく、もし問題がないとしたらネイティヴな訳ですから、トランスには必然的に原因を遡及する契機が与えられており、結果として性自認やその他の想定物を考えずにはいられないのです。
 一つのディレンマが浮かび上がります。論理的時間差を実体として考えることはできませんが、一方で、幻想としてすら想定しないとしたら、それはトランスではありません。仮にトランス的であったとしても結果としての〈女〉の更に上澄みしか見ていない限りで極めてレベルの低い「女装」でしかありません。事実としてはトランス現象は広義の女装と言えますが、行為としては、少なくとも女装という意識だけでは追いつけないのです。
 飛び水のように逃げ去っていく剰余があります。この剰余は、永遠の不完全さを証すゆえ、〈欺き〉という陰画の形で示すこともできるでしょう。戯画的TSならば、〈欺き〉があることを否定して「本物」を主張するかもしれませんが、これは「嘘つきではない」という嘘をついているのと同じことです。剰余は実体としては存在せず、ただ行為において必然的に浮かび上がるものだからです。
 この呪いのような剰余はといかに対峙するかが、トランスの分かれ目です。しかしその前に明らかにしなければならないことは、女装であることを認めても否定してもますます浮き彫りにされてしまう〈欺き〉という葛藤の第二の局面です。

2005年03月19日 | 真夜中のトランス ー生き方の彼岸 | トラックバック| よろしければクリックして下さい→人気blogランキング