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「ジェンダー論の虚構を暴く」

 ジェンダー/セクシュアリティ関係のエントリで、「ジェンダー論の虚構を暴く」というgoogleのadsが表示されますね。google adwordsには時々こういう政治的な広告が出ていますが、クリックしてみると色々な意味で興味深く拝読できました。苦笑しながらですが。
 「くたばれジェンダーフリー」などというエントリを立ててはいますが、社会的次元でいわゆるジェンダーフリーを否定しているのではまったくありません。トランスジェンダー/トランスセクシュアルに関しては、その根底に不可避的同化主義(普通の男/女として染色体上の性別を伏せて生きること、あるいはそれを目指すこと)がモデルとして横たわる以上、安易にジェンダーフリーなどと口にできないはず、と言っているだけです。
 そして件の広告のサイトを閲覧してみると、男女の差異を脳やホルモンに還元してみたり、実に「性同一性障害」の言説とクロスオーバーしています。「変更不可能な本質」、しかも生物学的に根をもつかもしれない要素を礎に据える、ということは結局そういうことです。
 精神疾患という形で居場所を見出し同化していこうという試みを全否定はできませんが(現状では相乗りせざるを得ない)、一方でシステムというのはそれほど甘くはありません。こびへつらっても切られる時には切られるものです。しかも性同一性「障害者」など、社会にとっては切り捨てにはぴったりの調整要員でしかありません。
 トランスは「トランス」と言った瞬間に同化主義と二元的性構造から決して自由にはなれませんが、同時にすんなりと「適応」できなかったという方の現実からも目をそらすべきではありません。結局「希望の性別への同一化」と「トランスとしてのアイデンティティ」の間を揺れ動く以外、当事者に生きる道はないのです。
 一部の極端に白痴的人々は未だに「生まれ持った性別を受け入れるのが人間じゃないか」といったナイーヴな論を口にしますが、わたしたちが背負うべきものがあるとしたら、ネイティヴにもなりきれずトランス自体を求めるわけでもなく、という亡命者的な居場所のなさそのものです。天命を生きているつもりの能天気な白痴殿たちは、果たしてどういう覚悟で日々を生きているのか、伺ってみたいものです。

 「ジェンダー論の虚構を暴く」さんの考える男女共同参画社会とは、男は男なりに、女は女なりに、それぞれの負ったスタイルで参加するものらしいです。
 ところで、その男と女、どちらを選ぶかは自由なのでしょうかね。せいいっぱい「女らしく」社会参加しますけれど?

追記:逆に言えば、過度に「女らしい」MtFというのは「虚構」さんと同じくらいに滑稽ということです。

2004年11月09日 | トランスセクシュアル・ポリティクス | トラックバック| よろしければクリックして下さい→人気blogランキング