GID真贋問題と精神疾患の政治性 2/2
GIDを巡って、これを定義しているDSMからして記述的にすぎない、ということを書きました。ついでに、DSM自体の政治性についてもちょっとだけ考えてみましょう。
『精神疾患はつくられる』(ハーブ・カチンス、スチュワート・A・カーク)という、DSM批判ではおそらく一番売れている本があります。かなりジャーナリスティックで乱暴な論調なため、批判としては荒削りにすぎる部分もあるのですが、逆に言えば「DSMって何?」という方にも取っ付きやすい内容です。「精神疾患としての同性愛」やPTSDの問題を通じて、DSMがいかに「精神の病を作り出す」ものであり、妥当性・信頼性に欠けているかを論じています。
この本で主にとりあげられているのは、DSMのもう一つの大問題「保険請求の大義としての診断基準」というトピックです。
疾病分類制定の背景には、極めて政治的な要因が強く働いています。「病気」と認定しなければ治療もできず、保険請求もできません。逆に言えば、「ちょっと落ち込んでいる人」を「軽症うつ病」に分類できれば、精神科医の潜在的顧客はぐっと拡大するわけです。要するに病院の経営上の利便性が大きいわけで、DSMが米国におけるマネージドケア(管理医療)とセットで語られる所以です。
いわゆる「医療の標準化」です。「標準化」というのは大雑把に言うと、今まで医師の判断でバラバラに近い形で行われてきた診療を、エヴィデンスに基づいて統一していこう、ということです。もちろん、治療に寄与する部分も少なくありません。ですが「標準化」の最大の目的は医療費の管理にあります。「無駄な治療をしていないか」をチェックすることで医療費を抑制するものであり、そのためには「無駄ではない正しい治療」を証明するものが必要になります。精神疾患の場合、それがDSMになるわけです。
「薬漬け医療」の弊害を考えても、医療費抑制という観点からも、悪いことではありません。ですが、診断基準など所詮その程度のものだ、ということはよくよく認識しておく必要があります。「アメリカ精神医学会制定」などと言うと、いかにも病気の本質が解きあかされているようですが、要するに「保険請求の手引き」に毛が生えたようなものなのです。
以上を了解した上で、なおこの種のDSM批判には首をかしげたくなる部分が残ります。
一つは、ここで語られているようなDSMの矛盾や弊害は、おそらくほとんどの医療従事者が認識していることだ、ということです。完璧にはほど遠く、しかも本質を捉えていないとわかっていながら、とりあえずは暫定的なマニュアルが必要なために利用している、というのが現状のはずです。一般読者の興味を惹くことを意識する余り、この辺りの公平性が損なわれている印象を否定し切れません。
もう一つは、仮に「病気が作られる」ものだとしても、必ずしも「悪い」ことではない、ということです。DSMにおける「病気」に「良い悪い」はありません。都合次第でうまく活用するための「便利帳」です。GIDなどが最たるものです。
保険請求のための方便であっても、得をするのは医院だけではありません。うまく使えば、患者にとっても利するところが大きいでしょう。DSMが本質的ではないことなど、わかり切ったことです。だったら、それを承知の上で付き合い方を考えれば済むことです。
本書の論調では「病気にされてしまう」ということがとんでもない大問題として語られています。保険請求の審査の為に、患者の精神疾患履歴というプライヴァシーが漏れかねない点も指摘されています。「膀胱炎なら問題がないが、精神科の治療が必要である事実が漏れるのは許されない」ということです。
ですが、もしもそうだとしたら、問題なのはDSMではなく、「病気」に対する社会のスタンスです。プライヴァシーが漏れれば障害になるのも事実でしょうが、ここで言う「病気」が単なる認定証にすぎない以上、「病気である」という事実には何の価値判断も含まれていないのです。それとも条件を満たし「病気」になると、それ自体がスティグマである、と筆者らは考えているのでしょうか。
「病気」で「人間性」を判断される謂れはありません。膀胱炎と一緒です。大体、「精神科の治療が必要」ということは、裏を返せば「治療さえしていればなんとか大丈夫」ということです。治療してもどうしようもないなら、その治療費はそれこそ「医療費の無駄」です(これはちょっと問題発言ですね、すいません)。実態は、治療も受けずにフラフラしている人よりずっと安全なのです。
それとも、自分の支払っている医療費が、わけのわからない治療に使われていることに対するやっかみなのでしょうが。それならそれで、ご自分も病気になれば良いだけの話です。自分の要領の悪さを人にあたっても仕方ありません。制度があれば、うまく使う方法を考えるのが一市民としてのサヴァイヴァルです。もちろん、持てる政治力を駆使して制度自体を変えていくのも一つの方法ですが、それが唯一の道なわけはありません。
「それでも社会的差別がある以上、簡単に『病気』にされては困る」という向きもあるかもしれません。尤もな主張です。ただし、それを言ってしまうことで「病気」の重みをますます大きくすることに加担してしまっていることを、忘れないで頂きたいものです。
重要なのは、DSMに振り回されないことです。たとえ毒でも、うまく使えば薬になるものです。DSM自体に善も悪もありません。生かすも殺すもユーザー次第です。
「病気」のことなどで頭を煩わされても時間の無駄ですから、さっさと済ませて、社会生活に戻りましょう。
「病気」にもなれない負け犬の遠吠えに付き合う必要はありません。
>「病気」が単なる認定証にすぎない
う〜ん、私は固すぎるのかもしれません、というより要領が悪いというか。たしかにそのように考えれば、GID診断書も捨てたモンじゃないですね。
色々な状況があり、様々なサバイバル方法があるので一概には言えませんが、少なくともわたしの場合、「正規」と言われる医療があるのは非常に助かることです。別段受診を勧めるわけではないですが、必要なら利用するのも手だと思います。
たかが「病気」です。