2 「心の性別」と美容整形
SRS第一段階2日後
美容整形とは、今よりも少しでも良い自分に、ちょっとでも「自分らしい」自分に向かうためのものです。
SRSやGID「治療」を美容整形と同一視することには異論もあるでしょうし、わたしも同じだとは思っていません。また美容整形との共通要素からSRSを理解しようとすれば、現在の「性同一性障害治療」のコンセプトと齟齬をきたしてしまうのも明らかです。この「治療」プロセスにいかなる欠点があろうとも、それをここまで育てて来た人々の血のにじむ様な努力を否定するつもりは毛頭ないですし、わたし自身も多いにお世話になっているものです。
以下の議論はこれらを前提として、敢えて両者を共通要素から考えるものとご理解ください。
「心の性別に身体を合わせる」。GID「治療」でよく聞く考えです。
ホルモン治療やらSRSやらといったわけのわからないものにまったく興味のない健全な多数派の方にとりあえずの説明をするには、通りが良くて結構なものだと思います。
しかし当然ながら、心そのものを取り出して見るわけにも行かない以上、「心の性別」なる概念は極めて空想的・ご都合主義的産物にすぎません。「心の生年月日」を考えてみれば明々白々、という議論は「心に性別はあるのか」で書きました。
それでもなお、心と言える何かがあるとすれば、それは多大な犠牲を払ってでも希望の性別で生きようとするその行動そのものです。
豊胸手術をする女性は、生まれつき胸の大きい女性より「心が巨乳」だと思います。生まれつき大きいなら単なる偶然ですが、一所懸命働いてお金を貯め、非常な苦痛と危険を伴って胸を大きくする人がいるとすれば、それはもう本当に胸を大きくしたいんだな、と誰にでもわかるでしょう。
トランスセクシュアリティにも似たことが言えるように思います。
MtFは「心が女」だから女としての容姿・社会生活・身体を手に入れたいのでしょうか。
むしろ順序が逆のように思います。
とにかくわたしたちは女として生きたいのです。
なぜかはさっぱりわかりませんが、副作用も承知で薬を飲みたいのです。
ボイストレーニングを受け、人に笑われながらも必死で女の振る舞いを習得したいのです。
完璧な性器などもとより不可能とわかってもなお、すこしでも「女な身体」を目指して手術したいのです(一昨日やったばっかりですが笑)。
当事者であるわたしの意見では客観的とは言えないでしょうが、もしわたしの身の回りにそういう人がいて、必死で努力している姿を目にしたとすれば、わたしは「この人は本当に心が女なんだな」と思うことでしょう。
心が最初にあるのではありません。
心が人を動かすのではなく、行動する人に他者が認めるもの、それが心なのです。
それゆえにこそ、美容整形と同じく、GID「治療」でも完璧を目指してはいけないと思います。
完璧になるのが不可能尾だからというよりむしろ、「完璧を目指す」というスタンス自体、既に敗北を前提にしているからです。予め達成不可能性を担保に入れて、努力している格好だけをしてみせる、それが「完璧を目指す」ということです。
「完璧を目指す」。確かに見栄えはします。その姿は悲壮感に溢れ、格好良いことでしょう。
しかし完璧が不可能で、それをわかってなお出来る限りのことをする、最後まで諦めず戦い続ける、そういう人の方が一万倍美しいです。
一昨日SRS第一段階が完了しました。
会陰部の鈍い痛みがなかなか鬱陶しいです。
数日後陰嚢皮膚移植手術を受け、それから長い長いダイレーション(人工的な膣が塞がらないよう拡張する)生活が始まります。
これを乗り越えたらわたしは「女」でしょうか。確かに現在も社会手金は女性ですし、もうすぐ戸籍も変えられるでしょう。その程度の意味での「女」でしたら、わたしは既に女ですし、不満もありません。
しかし子供の頃に見たマンガ、修学旅行の思いで、生理の辛さ、出産の悦び、これらの何一つとしてわたしにはそなわっていませんし、今後獲得される可能性もありません。
ネイティウ゛とイコールなど永遠に不可能です。
ではやめますか?
冗談じゃない!!
無理とわかって、でもやるんだよ!!!
そういうわたしが、世界で一番美しい(断言)。